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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1494年〜
33/58

軍議

最後の締めが思い付かず遅くなりました。

全ては今川義元のせいです。

そして後書きが本文の補足説明でとてつもなく長くなってしまったので興味無い方は飛ばしてください。



◾︎相模国小田原城


「仔細は左近将監より伝える。左近将監頼んだぞ」


「承知いたしました。では、某から説明いたします」


 彼の名は高橋左近将監高種。

 筑後国出身で元は大蔵姓高橋氏の当主であったらしい。しかし、継母の讒言により父の不興を蒙り、当主の座を捨て亡き母方の縁者畠山家を頼り逐電。

 幕臣として9代将軍義尚に仕えた後、義尚が亡くなるとこれまた畠山家の縁で堀越御所にやってきた。

 それが我が父政知が亡くなった年だった。


 左近将監は俺の5つ上。かつて国人の当主や幕臣として務めた経験、そして関東に地縁がないことから側近として重宝してきた。


「以上のことから御所様の本陣は玉縄城に置くことになります」


 ぽつぽつと質問が出されたが反対意見が出ることなく軍議は終了した。


 斥候の報告によれば兵糧や武具が山内方の前線武蔵国由井城に運び込まれているらしい。

 由井城は八王子(現在の元八王子町・八王子城)のすぐ北。武蔵国守護代大石氏の居城だ。この時代にはまだ八王子城は築かれていないため、由井城が山内の武蔵国における拠点となっている。

 

 風魔からは、扇谷との連携する様子は見られないが、古河公方の家臣が由井城に入ったことが確認されたので油断はならないと聞いている。


 この報せから山内勢の攻め手は武蔵国だと判明した。

 もちろん甲斐国からの侵攻に備え、祖父や葛山の舅殿を甲斐国郡内の小山田への援軍として三島城・葛山城に残していく。


 おそらく敵の目的は勢力を急拡大させて勢いに乗っている堀越御所に一撃入れること。

 最小でまだこちらの地盤が柔らかい東相模・武蔵3郡への侵攻、次点で鎌倉の占拠、最大で堀越公方である俺の首といったところか。


 敵も俺の首が簡単に取れるとは思っていはいまい。


 それでも古河公方の号令の下、扇谷を動かせば勝算ありと関東管領が思っていてもおかしくはない。


 まあ、なんだっていい。

 山内単体、古河公方が加わった軍勢、古河公方と扇谷が加わった軍勢。どんな軍勢が来たって追い返すしかないのだから。


 出来れば古河公方・山内上杉・扇谷上杉の連合軍で来て欲しいものだ。

 

 作戦は簡単。

 関東一円に中央(京)が任命した正統な関東公方は長年内々で争い続けた偽関東公方と関東武士を侮っていると噂を流す。それだけだ。


 あとは相手が勝手に憤って怒りのままに俺の首だけを目指して動いてくれる。


 この作戦、軍議に限らず側近との話し合いでも当然反対された。

 せっかく自分達の主が関東公方になったのに、その主が死に急ぐようではこれまでの奉公が無駄になってしまう。


 それに堀越御所はこれまでまともな戦をしたことがない。ほとんどが速攻からの制圧戦だった。


 不利と分かれば逃げるし、第一正面から戦うつもりはない。

 そこを説明してなんとか納得してもらった。


「小太郎。例の件、頼んだぞ」


「抜かりなく進めております」



○ ○ ○



◾︎相模国玉縄城


「期日さえ分かれば挙兵いただけるとのこと」


「よくやってくれた。期日は敵次第のため追って伝えることになるが、『関東管領は引きつける故、存分に戦われよ』と左衛門尉に伝えてくれ」


「はっ。承知いたしました」


 これで山内に対するカウンターを用意できた。古河は空然を当てるとして、扇谷はやはり背後を取るしかないか。四郎左衛門率いる水軍に裏を付かせるのが効率的かな。


 こうなったのも軍議から数日後、古河公方・扇谷が挙兵の支度を始めたと風魔から報告があったからだ。


「四郎左衛門。そなたは水軍を率いて権現山砦に入り、本軍が敵軍を破りし後に品川湊並びに江戸を落とせ」


「恐れながら御所様」


「なんだ?」


「もう少し御身を大事になされませ」


 はて、何か自分の身を疎かにするようなことをしたかな。首を傾げていると続けてお叱りを受けることになった。


「御所様は気付いておられないのかもしれませぬが、戦を経るごとに本陣の兵が少なくなっております」


 確かに、四郎左衛門の申す通りかもしれない。

 三浦攻めの時など最終的に数百の兵しか率いていなかった。


「我ら御所様が幼い頃から仕える者がおそばを離れる中、御身を護る兵が減ることはあまりにも不測の事態を軽視し過ぎにございます。某心配で別行動などできませぬ。本陣に置いてくださいませ」


「そうか。それは済まないことをしてしまったな」


 まさかここまで心配されているとは思わなかった。


「うむ。四郎左衛門を本陣に残すとしよう。して、代わりの将は如何したら良いと思う?」


「お認めていただきありがとうございまする。代わりは蒲原左衛門尉殿がよろしいかと。御所様の一門にあたる御方で、一応幕臣でもあるのです」


 左衛門尉か。臣従して9年が経つことを考えれば、俺の強引な中央集権のせいで重臣の少ない堀越御所において古参たりうる。


「左衛門尉の居場所は、確か…本隊におるな」


 辺りを見回すとちょうど良い人物がいた。


「宮内少輔。そなたの父をここへ呼んで参れ」


「ははっ」


 宮内少輔こと蒲原左衛門尉満氏の息子氏徳はスキップしそうな勢いで走り去っていった。


 

○高橋左近将監高種さん。この頃は高種ではなく武種と名乗っていたようですが、高種に統一します。

※主人公は将軍が義高名乗ってるけど諱の字の被りは全く気にしてません。そもそも義高のことをお山の大将だと思っているほどです。


○滝山城はどこぞの軍神の侵攻対策に築かれたとも言われているので、由井城(浄福寺城)を武蔵西の山内の拠点とします。


○最後に登場、蒲原宮内少輔氏徳さん。投稿が遅くなった原因。

父の満氏さん含め生年没年が分からないんですよね。活動年代が結構後ですし。

満氏は1493年の伊勢新九郎の堀越御所の討ち入りに参加したという記録がある上で1536年死去。氏徳は1560年桶狭間で討死なのに今川義元(生年1519年・近年は母は寿桂尼でない説がある)の外祖父説がある。

今作では満氏1460~66年、氏徳1480〜85年としました。これだと、氏徳は桶狭間80近くで出陣したことになりますが許してください。

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