相模平定
今回は難しかった…
文字数少ないですが、これ以上続けたら年内は無理だと思ったので投稿。
語尾やら新領地のくだりの文章が読みづらいでしょうがお許しください。
◾︎相模国鎌倉郡玉縄城
3月に入った頃、ついに三浦が降伏した。
別に首なんていらないので、三浦高救・義同親子を三島城へ連行し、御恩と奉公について教育(幽閉)する。
役に立つようであれば外交なり戦なり政に引っ張り出すつもりだ。
三浦は扇谷上杉への帰参を合図に扇谷の援軍と共に堀越御所領に侵攻する予定だったらしい。
道理で物資が相模川左岸、三浦にとっての最前線に集まっていたわけだ。
しかし、扇谷上杉定正が急死したことでその計画は破綻。お茶を濁すことで寝返りの事実を誤魔化そうとしたところ、俺が逆に進軍してきたと。
これを聞いて最も衝撃を受けていたのは小太郎だった。
風魔衆は三浦が扇谷上杉に帰参するところまでは掴めていたが、実際に三浦家が対堀越御所でどこまでやる気だったのか分かりかねていた。
結果的に堀越御所の勝ちと相成ったが、これで負けていたようでは風魔衆の責任。そう強く思い込んでいた。
一時は自決しかねない勢いであった。
そんなことをされては堪らない。第一、物資の動きなど俺も見落としていたことだ。
解決策として、次は見逃さないように商人となり物資の流れを把握する集団を作る。そのためにはこれまでも情報網をコントロールしてきた小太郎が必要だ。
この時代(1495年)の商人は、戦国時代真っ只中の死の商人の街として有名な堺ほど興隆していない。
それでも遣明船の発着地として賑わう堺は侮れないが。
幸いなことに当家にはチートの産物をたびたび上方へ売ってきたコネがある。それを活かさない手はない。
まずは堀越御所の直営商人として箱根屋を設立。
店主は父方の再従兄朝日助五郎を擁立。再従兄とは言っても向こうは30半ば。
朝日氏は近江出身の幕臣の家系らしいが、7年前の清童子(義高)京都移送事件で元義母に協力したことで助五郎の父を追放。
助五郎は積極的に企みに参加していなかったために追放は免れたが、放逐か残留を提示し後者を選んだため執事である祖父の元で主に内政方面で酷使されることになった。
その甲斐あってか、交渉方面に能力が伸びたようだ。
流行への機敏が欲しいところだったが仕方あるまい。風魔を抵抗なく向かい入れる下地の方が大事なのだ。
その点、助五郎は大した力を持っていない外戚であり、俺の要望を押し付けやすい存在である。
今頃、風魔が見習いとして働いていることだろう。
彼らの努力が実を結ぶのは、堀越御所が再び勢力を拡大させる数年後のことになる。
〇
三浦が降伏したということは相模を平定したということ。
武蔵国の占領地も含めれば以前の石高の倍はあるのではなかろうか。
この時代にはまだ石高の概念は堀越御所にしか存在しないはずなので誤差もあるだろうが。
これまで拡大してきた領地は祖父や手の者を使い中間管理職を置かずに俺が直接統治してきた。しかし、領土が広がったことで俺のキャパも手の者も足りなくなってきた。
そこで俺の理想を理解した者に郡代として一時的に統治を任せることにした。
相模国の三浦郡代に鈴木兵庫助、鎌倉郡代に外山豊前守を入れる。
三浦郡代に兵庫助を入れたのは水軍拠点の整備と東京湾内の敵船警戒のため。豊前守は武蔵と三浦郡への後詰となる。
武蔵国の海側の久良岐郡代に伊東九郎三郎、その北の都築郡代に関戸名右衛門、多摩川右岸に細長い土地柄の橘樹郡代に狩野狩野介を入れた。
3郡の中央にあたる小机城を中心に北の小沢城、南の権現山砦
これら3つの郡は対扇谷の最前線となる。伊豆からの譜代なら協力して事に当たってくれることだろう。
伊東九郎三郎は未来の伊東市辺りを治める国人領主である。源頼朝に敵対した伊東祐親の末裔を名乗っており、同じく工藤氏の流れを汲む狩野介の狩野家とは遠い昔に別れた同族。現在では婚姻関係により両者は義兄弟となっている。
また九郎三郎は海岸線を治めている関係で、東伊豆の水軍拠点の整備に参加したことで水軍衆との仲も良い。海手に配置すれば良い相乗効果が望めることだろう。
そろそろ農繁期が終わる。
常備兵を用いる堀越御所には関係ない話ではあるが、敵勢力に動きがあるとしたらこれからの時期に絞られる。
その様子見と新たな領地の統治体制が整ったら三島にかえるとするか。
久良岐郡と橘樹郡の境界が江戸時代辺りに変更されたようなので権現山砦?は久良岐郡として扱います。
主人公の父政知の母(父方の祖母)は斎藤朝日氏なる近江出身の幕臣一族出身のようですが、作者の力では全く実態を掴むことができませんでした。
後に別の斎藤氏が出てきても困るので朝日氏に統一します。
一応、16世紀後半まで奉公衆として活動記録があるようですが…
頑張って年内にもう1話は投稿したい。




