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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1494年〜
26/58

将軍職の行方

書けたので投稿

少しストーリーのテンポが悪いかも



◾︎伊豆国三島城


「将軍職ですか…」


 義高が左馬頭になったからには来年中には征夷大将軍に就任することは幕府にとって既定路線。

 なればこそ、それを止めるられるのは今しかない。


 俺こと足利左近衛少将義氏は公家の間で勤皇家だと評されている。義実家の近衛家を通して諸々の支援をしているからだ。


 今上の帝、何天皇と呼べば良いのだろうか。

 後世では〇〇天皇と呼ばれることが多いが、〇〇の部分は帝の死後に贈られる諡号であり、〇仁を始めとする諱は恐れ多く呼ぶことのできないこの時代において帝は帝でしかない。


 信長の時代の正親町天皇、先代の後奈良天皇、さらに先代の後柏原天皇までは覚えている。

 帝がご高齢なことを考えれば正親町天皇の曽祖父か先々々代にあたる御方なのだろうと予想している。


 今上の帝は践祚後3年目となる応仁元年(1467年)、本格的に朝廷が困窮し始める原因となった応仁の乱に巻き込まれており、これまで厳しい生活送ってきたそうだ。


 そこに文明16年(1484年)、継続的な支援が入るようになる。

 ちょうど知識チートが軌道に乗り始めた頃だ。投資や懐に入れて余った資金を近衛家を始めとした公家との関係構築、そして朝廷への献金に使い始めた。


 特に官位を求めるでもなく支援を続けるその様は、穿った見方をする者を除けば好意的に映ったことだろう。


「お上の深き叡慮は有り難きことなれど、心配御無用にございます」


「それは如何なる理由で?」


「奪い取ったものは奪い返されるが世の道理。それは将軍職も同じこと。越中の宰相中将殿も未だ諦めないようで」


 その名を出すと舅殿の顔が苦々しい表情へと変わった。


 越中の宰相中将とは現職の征夷大将軍足利義材、後の義稙のこと。

 義材は明応の政変時に河内国におり、そこから投降、幽閉、越中へ脱出と中々の人生を送っている。


「私のような東国に暮らす者なぞにお上の叡慮を察することなどできませぬが、自らが任じた征夷大将軍が政局によりすげ替えられるなどご不快に思うのは当然のこと」


 明応の政変から早くも1年半の時が経つが未だ義高は征夷大将軍に任じられていない。それは今口にした通りである。

 幕府側はどうにか将軍宣下を行おうと四苦八苦しているようだが、不快に思う帝の気持ちを変えることなどできるはずがない。


 まだ時間がかかるだろうというのが俺の見立てだ。


「如何でしょう、左馬頭を始めとした幕府の上層部に起請文を書かせてみては。『都を守護し、世に安寧を齎す。そのためには一切の出し惜しみをしない』と」


「なるほどの。されど、婿殿。その文言では悪用されかねないと思うのだが?」


「そこは都に住む方々の匙加減でしょう。下々の者は朝廷の権威を借りなければ政を行えぬのですから」


 実際に朝廷に連なる貴き血を笠に着て統治をする国人もいれば、官位を勝手に僭称する国人もいる。


 それはかつて権勢を奮った者たちも同じこと。

 平清盛は武士でありながら娘を使って朝廷に深く介入し、源頼朝もまた娘を使って朝廷に介入しようとした。


 どちらも介入することで朝廷の権威を思うがままにしたかったのだと思う。


 足利だって北朝南朝を乗り回すことで今の地位を築いたと言っても過言ではないのだから。



〇 〇 〇



◾︎相模国鎌倉郡玉縄城?


 お義父上は正月を三島で過ごしてから都へ帰られた。


 俺の出した案に納得しつつも最後まで不満げな様子であった。

 しかし、何に対しての不満なのか最後まで読み取ることができなかったが。


 風魔に近衛家、特にお義父上周りを探るように伝えておいた。


 お義父上の見送りを終えると溜まっていた内政を処理し、今度は四郎を連れて前線に近いこの玉縄の地にやってきた。


 あれから2ヶ月近くが経つが、どの戦線にも変化はない。とは言え、東の戦線の兵力が心許ないのもまた事実。

 故に冬のうちに三浦を降し、田植えまでに東相模を固めようと考えている。


 四郎を連れてきたのは四郎の経験のためだ。

 四郎は数え年で12歳とまだ幼い。しかし、今のうちに戦というものを教えなければ、計画では次の機会は2.3年後になってしまう。


 別に初陣させるわけではない。

 仮にどこかの城代として四郎を置くにしろ、イレギュラーな事態に動揺しない心持ちが必要となる。


 そういう意味では戦はメンタルを鍛えるのに適した場だと俺は考える。個人差があるから絶対というわけではないが。


 そして場所。玉縄の地に築いたこの城。

 

 城といってもまだ縄張りを終えたばかりで城の形を成していない。


 堀に土塁、馬出からの枡形虎口。

 それぞれの目的を築城途中の玉縄城を使って実地研修を行っている。


 馬出は武田流築城術としてよく名前を聞いたはず。

 入口をただの門とするのではなく、その前を門を中心とした半円状の曲輪とすることで、門の中と外の連携を容易にし、防衛側の攻撃ポイントを増やすことにも繋がる。

 最初に考えた人はすごいと思う。


 枡形虎口はその派生系だったのだろうか。

 馬出で備えていた攻撃ポイントの増加の性格を、門の内側の通路を何度も曲げることで備える。前後左右から襲いかかる攻撃は敵の侵攻を効率よく止めることだろう。


 

書けたらまた年内に投稿します

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義材がんばれ!!
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