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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1494年〜
24/58

動く

あまり進みませんでした。

今回雑かもしれません。



◾︎相模国鎌倉郡鎌倉


 ここは鎌倉武士、そして現在に至るまで関東武士たちにとって精神的な拠り所である鶴岡八幡宮。


 亡き父はこの鎌倉の地に入ることを強く望んでいた。古河公方もまた同じように鎌倉に戻ることを強く望んでいる。


 その想いを否定するつもりはないが、未だ理解することができていない。

 ここが観光地として有名な鎌倉の鶴岡八幡宮か、程度の感想しかない。


 先日、扇谷上杉家当主上杉定正が山内上杉家との戦で戦死した。

 戦上手でこれまで何度も山内上杉の軍勢を打ち払ってきた定正も堀越御所の南からの急激な勢力拡大に焦っていたのだろう。山内上杉勢を前に川を渡ろうとして落馬したとか。

 甥の朝良を養子としていたために扇谷上杉家の家督は滞りなく継承され、突然の当主の急死に多少の混乱を生じさせつつもなんとか勢力を保っている。


 こちらに兵を向けられても困るので、適度に混乱が続くよう流言を流してしばらくは様子見だ。


 扇谷上杉家当主の死に伴い、いくつかの波紋が広がった。


 まず、古河公方が扇谷上杉から山内上杉へと乗り換えた。これまでは扇谷上杉を支持し、共に山内上杉と敵対してきた古河公方も、近年の亡くなった上杉定正の横暴な振舞いに心が離れていたようだ。

 重要なのは山内上杉家が堀越公方から古河公方へ御輿を変更したこと。つまりは山内上杉が堀越御所との盟約を破棄したということだ。


 続いて三浦義同の三浦家継承。当主三浦時高の死により家督を継承した三浦義同だが、内々に帰参していた扇谷上杉家の当主定正が家督継承と同時期に戦死。さらに同時期に堀越御所に降伏していた外祖父大森氏頼が死去。

 そこに亡くなった三浦時高の実子高教が不穏な動きを見せるなど不測の事態が重なり三浦家は混乱に陥った。


 この状況を待っていた。

 まさか扇谷上杉家当主が亡くなるとは思わなかったが、盤面は思い描いた通りに動いている。


 堀越御所を型式的とはいえ担いでいた山内上杉は古河公方に鞍替えし、三浦家は主家との関係で家中が不安定。


 各勢力が体制の変化を強いられる現状こそまさに攻め時。


 そう考えた俺は西と北の守りを固め、11000の兵で三浦との領境であった相模川を超えた。


 多少の抵抗はあったが問題なく渡河を終えた。

 今回の侵攻は事前に調略を施しており、従属なり臣従なり好きなようにと鎌倉以北の国人地侍に伝えている。


 周辺を制圧すると、狩野狩野介に矢倉沢往還を、関戸名右衛門には東海道を、それぞれ2000の兵を預け多摩川以西の制圧と扇谷上杉の抑えを任せた。

 

 狩野介・名右衛門はいずれも伊豆の国人。

 

 狩野介の狩野氏は伊東氏と同族で狩野川上流を治めており、狩野川の水運や治水で堀越執事の祖父を通して交流があった。

 

 名右衛門の関戸氏は水軍の拠点の1つ下田の内陸部を治めている。元は名右衛門の父播磨守が関東管領山内上杉家先々々代当主憲実に派遣されてやってきた一族で、なんと名右衛門は憲実の娘を正室としていた。

 憲実は約30年前の人物で、関東管領として室町と鎌倉の御所に挟まれ苦悩した結果、室町に屈し当時の鎌倉公方持氏(現古河公方政氏の祖父)を討つなどし、そんな苦労を自らの子にさせたくないからか子に関東管領を継がせないように差配した程の人物だ。

 現関東管領上杉顕定は憲実の大甥、名右衛門の正室の従兄甥と関戸家に近い関係にあたるが、憲実が亡くなった時に関係は切れている。

 それもあってか、名右衛門は水軍基地建設時にも積極的に協力してくれた。


 2人の登用は国人衆への飴となる御恩の使い所としては最適だったと思う。


 渡河に前後して兵庫助と四郎左衛門は江の島を占拠、水軍を含む2000の兵で三浦半島の海上封鎖と半島反対側への兵の輸送を始めた。


 俺は残り7000の兵を率いて東へ向かい玉縄の地に陣を敷いた。着陣までに大した抵抗は受けなかった。


 玉縄に陣を敷いたのには理由がある。

 南には北東から西にかけて柏尾川が流れ、その流れは少し西の地で境川に合流し相模湾に流れ込む。

 少し東には武蔵国との国境。北には武蔵国からは上り坂の東海道。


 ここ玉縄の立地は扇谷上杉の援軍の進路を境川に沿って下ってくるか、東京湾沿いにここ玉縄を目指してくる進路の2つに絞ることができる。

 

 極めつけは柏尾川の対岸、その山を超えればすぐそこは鎌倉。

 確か北条家もこの玉縄の地に城を築いていたはず。


 この時点で兵庫助・四郎左衛門の両名が江の島を占拠しており、沿岸防衛のために三浦方は玉縄へ十分な兵力を送ることができない状況。

 故に三浦方勢力を三浦半島に追い詰めていたと言っても過言ではない。

 

 あとは徐々に包囲を狭めていくだけ。

 敵が玉縄に兵を寄せれば江の島にいる水軍が三浦の本拠新井城を攻め、逆に各地に兵力を散らせば連携と連絡網を遮断しつつ1点集中。

 

 徐々に戦線を南下させていき、現在は豊前守を大将に水軍を合わせた計5000の兵で新井城を包囲している。


 そんな中、俺は家臣に兵を任せて鎌倉に来ているわけだ。

 

 手に入れた鎌倉の地にある鶴岡八幡宮は源氏の守り神、鎌倉・関東武士の守護神である。

 俺が寺社に対してどのような考えを持っていようが、体裁だけでも手を合わせておかなければ、周囲から鎌倉公方と認めてもらえないだろう。


 ということで手を合わせ、鶴岡八幡宮の保全を約束し、しばらく鎌倉に滞在することにした。


 何かあれば近くの住吉城か玉縄へ逃げるけどね。


 

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