現状の予想
今回詰め込みすぎて何を書きたいのか訳分からなくなりました。
◾︎伊豆国三島城
甲斐国といえば山に囲まれた貧しい土地という印象が第1に思い浮かぶかもしれない。
武田信虎が争い続きの甲斐国を統一し、武田信玄が甲斐国の貧しさを補うために信濃駿河と版図を拡大していく。
応仁の乱から戦国時代にかけてはどこの国も戦乱が続いていたが、甲斐国ほど戦のイメージが染み付いた国はないだろう。
石高では甲斐一国で駿河一国に優るにも関わらず、山がちで平地が少なく米を栽培し辛い上に、塩を手に入れることも難しく、極めつけには日本吸血なんとかというお腹を脹れさせてしまう寄生虫もいる。
この時代を生きる者からすると、己の居る所こそが最も酷いと考えるかもしれない。しかし、甲斐国こそこの世に顕現した地獄と表現するに相応しい。それほど劣悪な環境だと思う。
そんな甲斐国の現国主は武田信縄。先述した信虎の父にあたる。
2年前に父信昌から家督を継承したが、父が弟信恵の家督相続を望んだとか国人衆の抗争が起きたとかなんとかで現在の甲斐国は内乱状態に陥っている。
史実だと家督継承と同時期に茶々丸が継母や弟を討って堀越公方となったことで、堀越御所に対する外交方針でも信縄と信昌は対立していたと聞いたこともある。
その堀越御所を支援していた関東管領山内上杉家に近付いたのが当主の信縄。それに対し、後に幕府公認の反堀越御所勢力となる今川家・伊勢家と結んだのが信昌サイド。
そのような背景もあり、当主信縄と先代信昌・その世継ぎ信恵の勢力圏は凡そ北と南に分かれ拮抗していた。
しかし、この世界では少々様子が異なっている。
家督争いや各地で国人が争い、勢力が北と南で拮抗しているところまでは同じなのだが、今川家が我ら堀越御所によって西へ追いやられたことで信昌方の勢力が少々不安定になっている。
今川家が西へ追いやられたことで、今川家の居館今川館と甲斐国を結ぶ街道が興津から甲斐国甲府までを結ぶ身延道のみになってしまったからだ。
その身延道も途中から堀越御所の所領に入ってしまうため、あまり大々的にやり取りもできない。当然兵を送ることも不可能。
それ以前に山道で険しい上に整備されておらず容易に通行できないのだが。
しかし、甲斐国、特に河内地方の様子を見ていると、史実同様、今川家は甲斐国の争いに深く介入しているようなのだ。
その証拠に甲斐南部に所領を持つ穴山氏と今川家の間で頻繁に使者が行き来があることを風魔衆が確認している。
この時期の穴山氏は信昌側についていることから、穴山氏が今川家と信昌方を繋げていると思われる。
うーん。現在堀越御所は関東管領と協力関係にある。その関東管領が支援する武田家当主武田信縄と敵対関係にある信昌方と文のやり取りをするとは。
俺が関東管領と結んだことは極秘の事であった故今川家が知らずとも仕方ないことだが、そもそも領地の接していない信昌と結ぶ行為自体に違和感が有る。
古今東西を問わず家督を継いだ者というのは得てして外へ出たがる。この世界の今川氏親も例に漏れずこれまでに何度か遠江国で戦をしている。
それは責められない。今川家には斯波家に奪われた遠江守護の座を取り戻すという悲願があるからね。
甲斐国の信昌の勢力と連絡を取り合っているのもその一環と考えるとどうだろうか。
信昌方に加担して信恵を武田家当主とする。その対価に甲斐国から河東に攻め入ってもらう。
甲斐からの攻め口は河内と郡内。それぞれ富士郡と駿東郡という富士山を挟んだ遠い両地域に同時に侵攻できる。
そこに今川家の軍勢が加われば河東を取り戻すのはいとも簡単と。
この予想だと失った河東を取り戻したいということになる。旧領、代々の土地。この時代の価値観からしたら旧領の奪還は譲れないはずだ。
そうなると今川家にある綻びはなんだろうな。今川家、一門衆、家臣団、駿河、遠江、遠江今川家。遠江今川家…。
そっか。難しく考える必要はなかったのか。
遠江今川家こと堀越家。堀越御所とは漢字が同じだが読みが違う。
堀越家の初代は今川貞世または了俊の名前で知られている。室町時代初期には九州探題、次いで遠江・駿河半国守護を務めるが、謀反の疑いで全てを失い、今川の名乗りを失い堀越を名乗るきっかけとなる人物である。
後に許され孫の代で復姓が許されるが、我が祖父義教の代に下された天下一苗字の命で再び堀越に戻るのではあるが。
それにこの人は置文伝説の人だ。源義家が残したという7代後に生まれ変わり天下を取るという置文。該当者である7代後の家時は自分には不可能であり、子孫3代のうちに天下を取ることを祈願して自刃したとか。
今川了俊という人物はその置文を家時の孫の足利尊氏・直義兄弟の前で拝見したことがあるらしい。
そんな伝説のある家の人間が大人しく駿河今川家に従うわけないよな。
とりあえず、相模にいる新九郎を呼び戻して今川家に向かわせてみるか。




