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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1491年〜
17/58

相模国東部



◾︎相模国小田原城


 京の都では弟足利義遐が名を義高に改めた。


 しかし、未だ義高の征夷大将軍就任は難しいと言わざるを得ない。帝が武力による将軍交代に大変お怒りになり、将軍宣下の見通しが立たないからだ。


 そんな内密な情報を現関白の義兄近衛尚通からの文で知った。


 史実はこの後どうなったのだろうか?

 足利義澄が征夷大将軍に就任することは確かだ。それまでどのような過程を経たのかは全く分からないが。

 唯一知っているのは、管領細川政元が自身が烏帽子を被ることを嫌がったため、義澄の元服が遅れたという天狗関連の話くらい。


 幕府の皆様には俺が関東を制圧するまでは畿内で権力争いに勤しんでもらいたいものだ。


 それにしても小田原城はどう改築したものか。

 北は山、南は海、西は早川、東は酒匂川に挟まれた小田原の町。後北条氏の小田原城はこれらを全てを城郭として用いた総構え。

 対して今の小田原城は驚く程に小さい。


 近世城郭としては小田原駅の南にある本丸に天守閣を抱えていたが、後北条氏の小田原城は線路を挟んで反対側にも本丸に次ぐ曲輪があったと言われている。


 さらに、西の早川を越えた先に聳える石垣山は後に豊臣秀吉が一夜城を築いた場所でもある。ここも押えておかなければならない。


 想定だけでもかなり大きな縄張りになりそうだ。

 この分だと、常備兵をも駆り出さなければならないかもしれない。

 

 しかし、焦る必要はない。後北条氏の小田原城は2代氏綱から5代氏直の4代に渡って約70年をかけ、それぞれの時代に合わせて徐々に作られた。それに比べれば5年10年は誤差というものだろう。


「殿」


 その声掛けに思考が呼び戻される。


「小太郎か。如何した」


「山内上杉家、扇谷上杉家の領地に攻め入りました」


 予定通りと。これで長享の乱再開か。両者共に公方を


「三浦は如何だ?」


「動きばございませぬ」


 なるほど。これでも三浦家は動かないか。

 三浦家の現当主は三浦高救。現扇谷上杉家当主定正の異母兄である男だ。だが、現在の三浦家は山内上杉家方についている。


 それは何故か。

 三浦道寸の父高救は現扇谷上杉家当主定正の次兄にあたる。次男であった高救は当時東相模を有し、実子のいなかった三浦家当主三浦時高の元へ養子に出された。

 当主時高の姪で、西相模を治める大森氏頼の娘を妻に迎えた高救は寛政3年(1462年)には養父の隠居に伴い三浦家の家督を継ぎ、それ以来主家であり実家でもある扇谷上杉家をよく支えてきた。


 その間、扇谷上杉家は長兄顕房、早死により先代持朝の復帰、顕房の息子政真と続き、政真が16年前に古河御所との戦により五十子陣で戦死したことで高救の異母弟定正が継いで現在に至る。


 しかし6年前、扇谷上杉家家宰太田道灌が暗殺されたことで状況が変わる。


 道灌はその才故に傲慢であった。されどその才は、戦乱極まる関東の中で扇谷上杉家を山内上杉家に並ぶ家として存続させてきた。

 

 そんな扇谷上杉家内外で絶大な力を有していた家宰太田道灌を疎ましく思ったのか一部の家臣と当主定正がこの凶行に走った。

 

 当然、道灌が暗殺された扇谷上杉家は内外にわたって混乱した。


 内部では、道灌の息子資康は居城江戸城を追い出され甲斐国へ。次いで上野国の関東管領山内上杉家上杉顕定を頼ることになる。

 相模国西部の大森氏頼は重臣として扇谷上杉家内で重きをなしながらも諌言状を当主定正に送るなど、大森家が気軽に次代へバトンタッチができない状態を作り出した。


 外部では山内上杉家との長きに渡る長享の乱開始の狼煙となる。太田資康が山内上杉家を頼ったのもその一因だろう。


 ここまでの有り様を見て高救は弟では扇谷上杉家を導けないと思ったのだろうか。

 自分こそが扇谷上杉家当主に相応しいとして兵を挙げようとした。この時は養父時高が高救・義同親子を追い出し、当主に返り咲くことで扇谷上杉家への忠義を示した。

 追い出された高救は山内上杉家へ。義同は母方の実家の大森家へ移り出家、道寸と名乗るようになる。


 事は収まったかに思えた。


 しかし、今度は三浦家中が割れた。高救は養子とはいえ三浦家の当主として24年問題なく統治してきた実績がある。

 さらに、時高による現当主高救の追放は遅くに生まれた実子高教に家督を譲りたいが故の利己的な行動とも捉えられ、家臣団の反感を買った。


 結局は高救と道寸を呼び戻すこととなり、当主の座も高救に戻ることになった。

 当時は長享の乱が停戦に入る頃。山内上杉家に身を寄せていた高救も扇谷上杉家から正式に帰参が許された。


 とは言っても人の野望が、集団の行動が、こんなにも簡単に終わるわけがない。


 三浦家は次第に反扇谷上杉家化。今では立派な山内上杉家派閥だ。


 それでも西から迫る未知の勢力の我ら堀越御所のことは良くは思っていないのだろう。

 今回山内上杉家と扇谷上杉家が合戦に及んだが、三浦家は兵を挙げなかった。それは堀越御所の動きを警戒したからなのだろう。


 反扇谷上杉家となっても大森家は長年の仲。三浦家当主高救の舅であり、道寸の外祖父。


 歳故に小田原に留めている氏頼に文をしたためてもらうとしようか。


 

今回もご覧いただきありがとうございました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 解説すごくわかりやすい!すごく助かるし情勢が理解できるとより面白くなる。 続き楽しみにしてます。
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