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豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1491年〜
16/58

小田原城

〇〇御所と書くと御所本人と御所という場所を混同してしまうので、地の文は〇〇公方にしました。


今回最後の方は支離滅裂かもしれません。



◾︎相模国足柄下郡小田原城


 この時代の小田原城は小さいな。


 後世に上杉謙信や武田信玄を退けた難攻不落の城として有名な小田原城に俺はいる。

 そんな偉大な城もこの時代では形無しだな。わずか2000の兵の奇襲で簡単に陥落したのだから。


 此度の関東侵攻においても速やかな進軍を重視した。いくら前回の戦に比べて兵数が大幅に増えたと言えど真正面から戦うのは愚の骨頂。

 それに今回の侵攻では精々西相模までとなるだろう。

 

 そこで総兵力10000のうち3000を周辺勢力への対応に残し、残った7000の兵で速やかに相模国へ侵攻した。

 

 まず7000の兵を3手に分けた。

 4000の兵を祖父に預け、駿東郡から足柄上郡へ差し向け、敵の注意を北に向けさせる。


 同時に1000を東海道の箱根超えルートに派遣した。率いるは葛山備中守。

 この軍は東海道沿いを制圧するための部隊だ。相模国側の東海道はあまり整備されていないようで迅速な進軍は難しく、この部隊もあくまで敵の注意を引き付けることが目的である。

 今回の侵攻に先立ち、備中守の娘を側室として迎えることが決まっている。

 また、今回の侵攻先である駿東郡北部から西相模にかけて勢力を持っている大森氏は葛山氏の本家であるため、本家と分家が噛み合わないようにとの配慮の結果、この配置となった。


 最後は本命の水軍を含む2000の兵だ。もちろんこの軍勢を率いたのは俺だ。当然、麾下には兵庫助と四郎左衛門を引き連れている。熱海に集結した船に兵を乗せ小田原へ直行。近くの浜で上陸した後、小田原城への奇襲を行った。

 

 北に意識が向いていた小田原城は対した抵抗もなく制圧、開城。城主大森藤頼は制圧の最中に討ち取られた。


 当時小田原城北方の岩原城で隠居していた大森家当主大森氏頼は小田原陥落の報せを受けて兵を集めたようだが、北からの4000の兵と南からの2000の兵の前にあえなく降伏。


 当主なのに隠居とまあまあ珍しいことをしているが、これには大森家内の家督争いが起因していたようだ。

 大森家は元は現当主氏頼の兄憲頼が当主だった。しかし、足利成氏が古河に追いやられた享徳の乱以降、憲頼が古河公方側に、氏頼が室町御所側に分かれたことで大森家は分裂した。後に、憲頼の子成頼を箱根権現に追い払うことで氏頼が大森家の再統一と家督の相続を果たすことになる。

 時が経ち、氏頼も齢80を超えた。嫡男実頼には先立たれ、直系の孫は未だ若い。ならば次男藤頼を後継ぎに考えたが未だ憲頼派閥が箱根山一帯や大森家家中に蔓延っている。今譲ったら再び大森家が割れるかもしれない。

 そんな思いで今日まで至ってしまった、というのが外から見た大森家の歪さの原因だろうか。


 まあ、それが分かっていたからこそ攻めたのだ。氏頼の一族の者は討ち取った藤頼を除き皆降伏。残る大森家の神輿になりそうな人物は箱根権現にいるであろう憲頼の息子成頼のみ。東海道を進む備中守には追加で500の兵を送ったので早いうちに箱根権現と共に堀越御所に膝を着くことになるだろう。



〇 〇 〇


 

◾︎相模国小田原城


 周辺勢力との折衝をしている間に足柄平野及び箱根山の制圧が完了した。


 捕らえた大森家の人間は将来有望そうな人物を除き、ほとんど伊豆の鉱山へ送った。

 浅学非才の身のためあまり詳しくは知らないのだが、伊豆半島は至る所に鉱山があったと記憶している。そこで働く鉱夫の確保はこれからの継続的な発展にはかかせない。だから使える労働力はいくら増えてくれたって構わないのだ。


 それにしてもこの戦では想定外の収穫があった。

 

 当初、足柄平野の足柄上郡下郡は支配下に組み込んでいたが、東の余綾郡や愛甲郡大住郡は東との緩衝地帯として兵までは進めなかった。

 しかし、足利の威光は凄まじく、小田原城にいるだけで次々にそれらの郡の国人や地侍達が挨拶にやってきた。

 

 地理的には扇谷上杉家に従っていた者たちだろうか。まだまだ勢力の小さい堀越御所のスタンスは来る者拒まず。

 それが繰り返された結果、それら3つの郡を支配下に組み込み、扇谷上杉家の城である実田要害に隣接するにまで至ってしまった。


 元々、扇谷上杉家の家臣筋の大森氏を潰して三浦家とも扇谷上杉家とも緩衝地帯を残すつもりが、どちらとも隣接することになるとは思わなかった。


 あまりにも足利の貴種性を軽んじてきた結果だ。これは反省しないと。

 

 そういう意味ではあれも貴種性のなせる技か。

 今回の侵攻にあたり、ある家と同盟に近しいものを結んでいた。


 その家は関東管領山内上杉家。長い関東での戦乱の果てに鎌倉御所の下部組織から古河御所と同格の存在まで登り詰めた家だ。


 応仁の乱以前から始まった関東の戦乱は、将軍家からの独立や将軍就任を目指した鎌倉公方の起こした戦乱であり、鎌倉公方(後の古河公方)vs幕府後援の関東管領上杉家(+扇谷上杉家)構図であった。

 しかし、いざ古河公方と関東管領が和睦すると、協力して戦う敵を失った両上杉家は対立を始めた。


 きっかけは6.7年前の扇谷上杉家家宰太田道灌の暗殺だった。重しとなっていた太田道灌が暗殺されたことで、両上杉家の均衡が崩れた。

 最初は下野国、そこから上野国、武蔵国、相模国と戦場は広がっていった。扇谷上杉家は古河御所を味方につけ、比較的優位に戦ってきた。


 そんな両家はここ数年停戦しているが、山内上杉家と扇谷上杉家&古河御所の対立は誰の目に見ても明らかなこと。

 そして、いくら山内上杉家に越後上杉家という支持母体があるとはいえ、守護家が単体で公方と敵対するなどむずかしい。

 

 そこで堀越御所が山内上杉家の担ぐ関東公方になれば、山内上杉家にとっては最大の援助となるのではなかろうか。そう思って関東管領山内上杉家と盟を結んだ。


 せいぜい古河公方と扇谷上杉家の足を引っ張ってくれれば良いのだが。

 


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― 新着の感想 ―
[良い点] 面白い。主人公が足利をどう扱うのか。続き楽しみ。
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