表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
豆州から飛び立つ  作者: 練習中
1491年〜
15/58

明応の政変

今回キリが良いところで切ったので短いです。



◾︎伊豆国三島城(延徳3年1491年)


 あれから1ヶ月後。父は息を引き取った。


 遺体は三島城東方にある2代征夷大将軍足利義詮が建立した宝鏡院に葬られた。


 あの会話以降、1度危篤状態に陥った父であったが何とか持ち直した。

 そこで潤童子を急遽元服させ、俺から“氏”の偏諱を与え“足利四郎氏時”と名乗らせた。

 まだ数え年で8歳だが、年齢にしては凛々しい姿を見せている。


 そんな四郎の立派な姿を見て父は涙を流していた。


 父足利政知の子は元服した嫡男の俺と上洛して出家した次男清晃、そして四郎の3人。足利将軍家の慣習に従えば三男四郎は出家することになっていたはずだ。

 また継母の件もあり、俺が四郎を丁重に扱うとは思ってもみなかっただろう。


 足利家の慣習なんてどうでもいいと思っている俺と違い、父は最後まで足利の家に縛られていた。

 それこそが足利将軍家の業が生み出した幻影なのだろう。


 それでも総じて満足そうな最期だったと思う。


 そんな父の最期に清晃は1度たりとも顔を出さなかった。報せを何度も送ったのに使者すら来なかった。

 葬儀に将軍家の使者と京兆家の使者がそれぞれ来たのみであった。

 出家の身はそれほどまでに忙しいのか。それともこれがもまた戦国の世の習いなのか。


 まあ、清晃は将軍家のスペア故に簡単に動かせないのは分かるが、これではね。


 継母のせいで顔を合わせることも少なかった清晃。潤童子はここ3年生活を共にしてきたからこそ兄弟の情も湧くのだが、会ったことすら数える程しかない清晃には何の情もない。

 だから足利義澄はどうなっても仕方ないよね。



 父上。必ずや日ノ本を統一するついでに鎌倉を手に入れるので、母上と共にどうか見守っていてください。



〇 〇 〇



◾︎伊豆国三島城(明応2年1493年)


 今年遂に、京の都で10代将軍義材を廃位し次の将軍に清晃を擁立することを目的とした明応の政変が発生した。


 主犯格は日野富子に前政所執事伊勢貞宗。管領細川政元は従犯的立ち位置に留まる。


 明応の政変以前の幕府内の勢力は大きく2つに分かれていた。

 1つは大御台と呼ばれる日野富子とそれに従う政所執事伊勢氏。対するは10代将軍足利義材とその近臣であった。


 元々、日野富子と将軍義材は義材の父系母系どちらを通しても伯母と甥の関係であることから関係が深かった。義材が将軍になれたのはそんな伯母の後押しがあったからである。


 とはいえ、義材は応仁の乱を戦った父義視の近臣を継承しており、反日野富子に近い政治色を持っていた。


 次第に両者は対立していく。義材側が今までの幕政を覆すような動きを立て続けに行い、さらには日野富子の所領すら横領に至ったからだ。

 

 それでも両勢力は日野富子や前政所執事伊勢貞宗が隠棲していたことでバランスをとっていた。


 当然義材に言い訳もあるだろう。

 義材には京での地盤がなかった。応仁の乱後、父義視と共に京を出奔。4年前に京へ戻って来るまで実に12年もの間美濃国に滞在していた。

 故に既得権益を崩して己の物とすることで相手を弱体化させ、それらを近臣に配ることで自身の立場を強化した。

 

 しかしその間も幕府の威光もとい権力は日野富子が握り続けていた。それは応仁の乱によって莫大な富を得ていた日野富子だからこそできたことだ。


 それが今回の明応の政変へ繋がったのだろう。

 

 ちなみに、細川京兆家は清晃を次期将軍に推していたことから近年影響力を低下させていた。

 

 つまり、管領は今回の政変にて省かれ気味であった。


 だからこそ、俺は先の和睦にて縁を得た管領細川政元を窓口に政情不安定な将軍家と交渉し、堀越御所が正式な鎌倉御所であるという御内書を得た。


 先々々代将軍義政の頃にあった“兄弟で将軍と鎌倉御所構想”を復活させた形だが、父政知の願いでもあった鎌倉御所就任を「認めてくれるよね?」と管領を通して圧をかけた形である。


 御内書が得られなかった場合、祖父の犬懸上杉家の名を借りて攻め込むつもりだったので得をした気分である。

 

 これにて細川政元は発言力を取り戻すことができ、俺は関東に攻め入る大義名分を手に入れることが出来てwin-winだ。


 この主張が通ってしまうのも足利将軍家の終わりの始まりなのだと思うが。



〇 〇 〇



◾︎伊豆国三島城


 現在、三島城の大広間には多くの家臣が詰めている。


 これより行うは戦評定。

 

 伊豆の国衆や6年前に攻め取った駿河の国衆が顔を揃え、それら武士が集まった様はまさに壮観である。


「京より堀越御所が正当な鎌倉御所であるとの御内書を受け取った。よって、これより我らは関東へ攻め入る!」


 

ご都合主義なので仕方ないですが、主人公の動きの強引さを拭えないことに自分の文章力の低さを感じます。


そして、足利義稙&義澄の諱の変遷を全く考えていなかったことに今回のお話を書いていて気が付きました。


それに義澄(義遐)は元服しただけの人間なので御内書ではないけど何と書けば…。もどき?


そして、伏線を張りまくった割にはアッサリしてしまいました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 関東編楽しみです!
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ