現状と3年後
遅くなりました。
前半は思考の沼に沈んでいるので場所は適当です。
後半は繋ぎの文章が思い付かず、いきなり3年飛んでいます。
◾︎伊豆国
今川龍王丸の元服が無事に終わった。
堀越御所の世継ぎの俺の名から1字を与え、史実通り“今川五郎氏親”と名乗ることになった。
御所である父ではなく俺から偏諱を与えるということは、今川家は堀越御所の跡継ぎよりも下であると周囲に宣言したも同然である。
そして、“氏”の名乗り。これは鎌倉時代の足利家の通字である。現在の将軍家が清和源氏嫡流の“義”の通字を使用している中、鎌倉時代の足利家の通字を与えることで、嫡流の将軍家に囚われない新しい足利一門を作ろうというわけだ。
現状の父を基準とした堀越御所の一門は、父の足利政知、嫡子の足利義氏こと俺、次男の清童子、三男の潤童子の僅か4人しかいない。そのうち将軍のスペアとして上洛した清童子は除外して残るは3人。
そう、たった3人しかいないのだ。
将軍家を含めれば良いと言われるかもしれないが、応仁の乱後の将軍家なんて、際限なく争い続けているから血縁だと思いたくない。それは古河御所も変わらない。
そこで、今川氏親を取り込むことで一門を強化しよう考えた。偏諱以外でも今川氏親と京の公家の姫との縁組を持ち掛けるなど積極的に今川家を取り込みにかかった。
ちなみに、相手を後の寿桂尼にしようと中御門家を探ったのだが寿桂尼は見つからなかった。
よく考えてみれば当然のことだ。寿桂尼の名前と生年を知らないのだ。仮に生まれていたとしても判別が付かないのだから。
そのため、寿桂尼本人かその姉妹が嫁ぐ方向で話が進んでいる。それでも未だ4歳なので嫁ぐのは10年先の話になろう。
そしてもう1つのアプローチ方法として氏親の叔父である伊勢新九郎を正式に召し抱えた。仲を深めるためにも相手の血縁者を用いた方が良いだろうと思ってのことだ。
新九郎自身も和睦に首を突っ込んできたうるさい将軍家の使者の意向を捌き切り、今川家も説得し、そして管領との渡りも付けてくれたのだ。召し抱えることに何の問題もない。
新九郎の身分は将軍家の申次衆。将軍家の許しを得ての両属となる。そして今川家当主今川氏親の叔父。
両者からすれば堀越御所の内情を探ることができる唯一の人物となる。
将軍家目線では、堀越御所内部で内通できそうな幕臣が8割程度行方不明または追放されており、残った2割も将軍家ではなく堀越御所に尽くすように教育中だ。
今川家からしても、前当主今川義忠が亡くなったことから発生した前回の今川家の家督争い。それに扇谷上杉家と共に介入してきた時からの敵であった堀越御所の内部を知ることができる機会だ。
故に、将軍家、今川家にとって、伊勢新九郎盛時という男はこれ以上ない和睦の象徴となるだろう。
まあ、知られて困ることは新九郎には開示しないし、5年は外に打って出るつもりもない。しばらくは内政に力を入れたい。
征夷大将軍が2回入れ替わったその時、それが俺の動くべき時だ。
〇 〇 〇
◾︎伊豆国堀越御所
ここは堀越御所のある一室。
「やはり歳には勝てぬな…」
覇気のない声で父がそう口にした。知識のない俺には見守ることしかできない。
先程まで身体を起こして潤童子と楽しそうに話していた父であったが、力を使い果たしたのか今は横になっている。死が近いのだろう。
時が経つのは早いもので、今川家と和睦を結んでから3年が経った。元気だった父も数え年で57歳。見るからに弱っている。
伊勢新九郎盛時の堀越御所討ち入りは1490年代前半だと記憶しているので、史実の茶々丸の行いを為す時を考えると既に父の寿命は無いに等しい。
それが分かっていても関東へ攻め入り、父が望む鎌倉御所の地位に就けようとは思えなかった。
息子としては叶えてあげたい。しかし、混沌とした関東を得るには未だ力と大義が足りない。
それでも行動に移してはいるのだ。
近衛家の姫を正室に迎えたことで朝廷とのパイプを手にし、こそこそと朝廷へ献金を行ったり摂関家の仲立ちをしたりと将来への準備を着々と進めている。
その他、俺は拡大した所領を含め堀越御所の支配領域全域の内政に注力していた。
畑の整備や金山の開発、それに伴う貨幣制度の興隆、銭を対価に水害の多い地域で堤防の普請。
増員した常備兵の調練も怠らず、国境の砦守備や領内の治安維持に留まらず、普請に参加して土木工事を行うなどフル活用している。
自分で言うのは烏滸がましいかもしれないが、堀越御所の治める領地は日本一活気づいていると思う。
そんな堀越御所とは対照的に畿内では混乱が続いている。
京の都では一昨年に将軍義尚、昨年に大御所義政と立て続けに足利家の人間が亡くなった。現在は亡き義政の弟義視の息子義稙が10代将軍に就任しているのだが、その父義視も先日亡くなった。
これらの報せには父政知もショックを受けていた。兄義勝は早くに亡くなり、弟2人も立て続けに亡くなってしまった。そして自身の体調も悪い。人生の終わりを感じているのだろう。
しかし、これにて京に根を張る足利家の人間が全滅したとも言える。
現将軍の義稙は26年の人生のうち、生まれてから美濃へ下向するまでの11年と一昨年先代義尚が亡くなった後に上洛してからの計13年しか京の都で生活したことがない。
これは俺の偏見なのだが、足利義稙の征夷大将軍就任が足利将軍家の終わりの始まりだと思っている。
別に義稙本人が悪い訳では無い。
もちろん、天下の畿内で発生した応仁の乱が元で、足利将軍家というブランドの低下と在京守護の下向により本格的な戦国時代の幕開けとなった事実は否定できない。
されど、多くの権力者のいなくなった京の都。僅か数人が態度を変えるだけで義稙の立場は無と帰す魔境だ。
あと2年もすれば義稙を将軍へ押し上げた梯子も他の者に付け替えられるだろう。
俺にとっては楽しみなことだが、父にとっては寂しいことだろう。
せめて最後は幸せに。後悔せずに生き抜いて欲しい。
薄情な息子なりに希望は見せてあげたい。
和睦は丸く収まりました。
主人公はある出来事を待っており、未だ関東に足を踏み入れないことも仕方ないと考えています。




