炎
瞼を閉じると暗黒の一面を炎が覆った。小さいころからこの炎は上山の目蓋の裏に現れた。それが実際に見たものか、映像で見たものか、想像の産物なのかは定かではない。毎回それは彼が暗い中で炎に包まれるような感覚を与えた。その炎に感じるのはそれに焼かれる恐怖ではない。上山は炎に対して恐怖を感じたことがなかった。炎はいつも彼には怪しい魅力を持っていた。特にたき火の炎に彼は惹かれた。勢いのついた火は大きな木片でもビニール製のごみであっても、どんなものでも灰にしてしまう。それは絶対的な力を暗示させた。そして炎は人々を温め、闇を照らし出す。水のようななめらかな動きは人々の目を魅了する。幼い上山はこの炎のような人間になりたいと考えた。
上山はもう子供ではない。企業で働きはじめ、社会的には大人と言われる立場になっている。だが、彼はこの子供のころ漠然と憧れを抱いていた、炎が現す特性を何一つ実現できていなかった。そして、今後それを手に入れることも出来そうになかった。絶対的な力も、人々を温める思いやりも、闇を照らし出す知性や直感も、美しさも彼には無縁だった。そうだというのに彼が瞼の裏に炎を見る頻度は多くなっていた。特に上山が女を抱いたあと、神経を鎮めるため酒を一口あおるときそれは現れた。そしてその残像はしばらく消えず、暗闇を見る視界にうっすらとこびりついた。そのとき上山はその炎が現実に現れ、裁きの炎となり全ての醜い、そして不条理なものを焼き払い、炎の美しい輝きに取り込まれることを夢見た。そして目を閉じる。炎は再びくっきりと浮かびあがる。
「もしそれが起これば、俺も焼き払われるだろう。」
この死の観念は彼を恐怖させなかった。子供のころから見てきた浮かびあがる炎は暖かく親近感に満ちていた。それに包まれることはむしろどこかに帰るような安心感を感じさせた。何より、上山がこれから先美に到達するにはこの方法以外にあるように思えなかった。この炎に焼かれれば、未来の醜い生活すべてを一掃し、美の一部にその構成物になることができるのだ。
暗いホテルの一室のベッドに上山は目を閉じて裸で腰かけている。右手の人差し指と中指の間に空の酒瓶がぶら下がっている。炎がくっきりと浮かび上がっていた。彼は意識を炎に集中させた。この炎は俺を罰しようとしているのか。それとも俺を救おうとしているのか。彼は炎に問いかけた。もちろん返事はない。まるで動きを変えず一定の動きでまぶたの裏でその炎は燃えている。
これに似た炎を彼は実際に多く見たことがあった。一つ目は彼が小学生のとき自宅のアパートから見た近くの8階建てのマンションの一室の家事だ。見慣れたマンションの一室が普段の何倍もの光を放ち黄色く輝いているところに彼は惹かれた。心配し、怖いねなどと言う母親の前で彼はそのことを苦労して隠さなければならなかった。
高校生の臨海学校で見たキャンプファイアーのの火も彼が見る炎に似ていた。それは高く組まれた木の枠組みを覆う、炎の塔だった。草を木の枝を、ビニール袋を、何を投げ込んでも火はひるまずそれを一瞬にして焼き尽くした。
彼の好きなロックバンドのミュージックビデオでも同じ炎を見た。その炎は曲が終わるクライマックスの直前、暗黒の中で画面の左端から発火し、画面を覆う。その中心では長い髪を前に垂らした男が一心不乱に一定のリズムでボンゴを叩いている。
彼は意識を集中させ頭に浮かぶ炎がそのいずれかのどれかに最もにているか観察した。しかしそれは無意味な質問だった。炎は形を変え、いずれの思い出の炎をも平等に反映しているように思えた。それにこれを考えても彼が知りたいと思っていることにたどり着くことはなさそうだと思い、考えるのをやめた。それは何故最近になって突然炎が頻繁に現れるようになったのかということだ。
上山が腰掛けているベッドでは女がシーツにくるまって寝息を立てている。呼吸に合わせて女の体をかたどったふくらみが微妙に上下している。上山は目を開け、先ほどまで狂ったように求めていた彼女のシーツに包まれた体を冷たく一瞥した。美しかった女の生命力にあふれた肉体は今のKには陶器の風変わりな白い置物のように見えた。陶器を淡い光が照らしていた。その源となっている窓をKは見た。(部屋にかすかな光を入れている窓を見た。)月が見えると思った。だが、見えるのは隣のビルのコンクリート製の壁だけだった。彼は顔を下げ、自分の体を見た。それは、肋骨が浮き出て、胸板は薄く、暗い部屋の中では死体のように見えた。
上山は急に窒息感を味わった。壁が空気を完全に閉じ込めてしまい、徐々に酸素がなくなっていってるように感じた。そして女の体がべっとりと彼の体に張り付き、体内に入り込み、自分の自由をどんどん奪っていっていくような気がした。彼は再び目を閉じた。すると再び見慣れた炎が浮かび上がり、彼を包んだ。上山は安堵の息を吐いた。炎がすべての醜さを消してくれる。そして、そのすべてを美しい輝きに変えてくれるだろう。それは炎が彼を罰しようとしていようと、救おうとしていても同じことだ。上山は根拠もなくそう信じていた。
上山は脱ぎ捨てられた自分の服を拾い集め、夜の街に出た。女には早朝の用事を思い出したとでも連絡を入れておけば良い。炎はもう見えなくなっていた。上山を正面から吹き付ける夜風がそれを消してしまったのだろう。誰もいない町は美しいと彼は思った。そしてそれを目撃することができているのは自分だけだと。一時間ほど歩いて空が白み出した頃に自宅に戻った上山はシャーワーを浴びてから本格的に眠った。
一週間後の土曜日、上山は呼び鈴の音で起こされた。それは彼にとって異常な事態だった。彼の家を無断で訪ねてくるような人は誰一人としていないはずだからだ。来るとすれば通販くらいだが、頼んだ覚えはない。スマートフォンをチェックするが誰からも家に来るような連絡はないし、約束した覚えもない。しかも訪問者はかなりしつこく何回も呼び鈴を鳴らしてきている。不審に思い気配を殺してドアに近づき、のぞき穴を見るとスーツを着た男が二人立っている。一瞬、勤務先の人かもしれないと思ったが、知った顔ではなかったし、電話もなく休日に突然家に訪ねてくるはずがなかった。二人とも赤色の腕章をつけていた。どうせ、妙なセールスだろうと思い、ベッドに戻ろうとすると、ドアの外から声が聞こえた。
「上山さん。警察です。開けていただけませんか。」
警察の前では素人の忍び足など効果がないのだ。だが、上山には警察に目をつけられるような心あたりはなかった。あるとすれば自分の幾分か反社会的な思想だが、それは本などに影響されてできた、気休めのおもちゃのようなもので実際にそれに基づいて行動したことはなかった。表面上は上山は尋常な思想を持った善良な市民に見えているはずだった。少なくとも彼はそう信じていた。
しぶしぶ上山はドアを開けた。相手が警察だからといって休日の朝に急に起こされたことに対するいら立ちが消えるわけではない。上山は不機嫌そうな顔を作り要件を訪ねた。立っていた二人のうち一人は30歳くらいの角刈りの男で中背のがっしりした男だった。もう一方は白髪の多い、世話役の先輩といった感じだ。歳は40後半から50代あたりだろうか。二人とも開いた手帳を手に持っている。角刈りの男が先輩の前で手際を見せつけるように話し出した。
「上山さんでよろしいですね。」
「はい」
「島津麻理恵さんについていくつかお聞きしたいことがあるのですが。」
島津麻理恵…?上山にはまったく聞き覚えのない名前だった。上山の表情を見てすかさず角刈りが尋ねる。
「島津麻理恵さんをご存じないのですか。」
「ええ、ちょっと」
「では、質問を変えます。あなたは先週3日の土曜日の深夜どこで何をなさっていましたか。」
先週の土曜日、それは上山があの女と寝た日だ。そして彼は女が「マリ」と名乗っていたことを思い出した。あいつの名前が島津麻理恵だったのか?
「ええっと、先週の土曜日と言われると心当たりがあるのですが、一応島津麻理恵さんの写真などもしあれば確認させていただけるでしょうか。」
白髪の男があきれたような顔をしていったん手帳を閉じ、スーツの内ポケットから写真を取り出した。免許証の写真を拡大したような背景が青の写真だった。それは確かに先週上山が寝た女だった。
「ああ、はい。そうです。土曜日の夜は島津麻理恵さんと会っていました。」
すかさず角刈りと白髪が目くばせしあったのを上山は見逃さなかった。再び角刈りが質問を続ける。
「失礼ですが、深夜2時ごろ島津麻理恵さんとどこにいらっしゃったかお尋ねしてもよろしいでしょうか。」
プライベートな問題をいきなりずけずけと聞いてくる見ず知らずの人間に上山は気を悪くした。
「あまり、答えたくないのですが。」
再び二人は目で合図をしあった。さっきから白髪のほうはうなずいたり、手帳に何やら書き込んだりするだけだった。
「実は我々火災事件の捜査をしておりまして。」
「火災?」
上山の背筋を冷たいものが走った。
「2015年10月3日土曜日深夜3時頃に台東区上野のホテルクイーンで火災がありました。」
使ったホテルの名前を完全に覚えているわけではなかったが上山には聞き覚えがあった。
「その火災でホテルの3階部分の三部屋が焼けました。死亡者は1人、負傷者は2人。死亡したのは島津麻理恵さん27歳です。」
「は?」
白髪の方はほとんど表情を変えない。だが、角刈りの顔には一瞬だけ予想外だといったような表情がよぎった。今度の上山にはそれに気づく余裕はなかった。ホテルが燃えてあの女が死んだ。確かにあの女からは早朝の用事を思い出したといううそのメッセージを送ってからなんの連絡もなかった。おいて行かれたことに腹を立てているのだと上山は勝手に思っていたがそうではなかったのだ。
「火災の原因は?」
「それに関してはメディアではいろいろとコメントがなされていますが、公式の発表としてはまだ不確定で、現在調査中でございます。」
もし、原因が放火だったとすれば…。上山はもちろん火を放ったりはしていない。だが、あの日の上山の行動は客観的に見て放火犯と疑われても文句が言えないようなものだ。Kがホテルを出たのと同じ時刻に火が発生している。これほど疑わしい人間はいるはずはない。そもそも放火の疑いがなければわざわざ警察が自分の家まで出向いてくるだろうか。
さらにそれだけではない。あの日彼の意識にはあの炎がくっきりと浮かび上がっていた。そしてその炎が自分の醜い部分をすべて焼き払ってくれることを望んでいた。その炎が上山の意識から飛び出して具現化したのだとしたら…。
上山は正直に話すかどうか迷った。自分の瞼の裏に浮かびあがる炎の話はしないにしても、あの日の行動を正直に話せばその瞬間自分は容疑者として逮捕されるのではないかと思った。ただ、今警察が自分の家の住所を突き止め、聞き込みに来ているということはおそらくスマートフォンの履歴や防犯カメラの映像などで自分の行動の見当はついているのだろう。その場合、虚偽の発言は致命的なものとなる。上山は腹を括って正直に話すことにした。
「はい。ホテルクイーンには確かに島津麻理恵さんと行きました。入ったのは深夜0時頃だったと思います。」
二人の警官はうなずきながらメモを取っている。
「そしてこれもかなり疑いを深める行動だと思うのですが、深夜3時ごろホテルを出ました。麻理恵さんには早朝の用事があると言ったのですが、実際はそうではなくて、その、僕たちは知り合ってまだ間もないのですが行為をして、僕のほうでは、その、あまり彼女に親近感とかいったものがまだあまりなくて、一緒に寝て夜を過ごすということが少し耐えられなくて、それで歩いて午前四時頃この自宅に戻りました。」
上山はずっと下を向き警官たちの靴を見ながら話していた。
「上山さん、我々としてはこの聞き込みはまだ捜査の段階でして、あなたを今ここで容疑者として確保するという段階ではございませんのでご安心ください。」
角刈りが白髪のほうを見ると白髪はうなずくように目線を一度下げた。
「では、上山さんご協力ありがとうございました。今後も引き続き協力をいただければ幸いです。」
二人は短い礼をして、ドアの前から去っていった。
心臓の鼓動が収まらなかった。上山はすぐにインターネットで事件について調べた。角刈りが言っていた通りの火災の記事がいくつもあった。ホテルクイーンも彼が女と寝た場所で間違いなさそうだった。彼は混乱していた。自分が行ったホテルで火事があり、自分と寝た女が死んだ。その炎は自分の意識にくっきりと浮かんでいた炎に望んだことを実現してしまった。この事実すべては上山が火を起こした犯人であるとすれば全て辻褄がある。もしかしたら俺は無意識に自分で火をつけたのではないだろうかと上山は思った。俺の中のもう一つの人格が俺の気づかないうちに火をつけたのではないかと。
だが、そうだとすれば、火は自然にはつかない。もし上山が火を着けたのだとすれば、火をつけるための道具、灯油だとかマッチだとかがあるはずだ。上山は服や本屋や雑誌が散乱した部屋をかきまわした。部屋が空き巣に入られたあとのような状態になってから彼はようやく安心した。妙なものは何も出てこなかった。
床に打ち捨てられた服をのけてスペースを作り、腰かけた彼はふと自分が寝た女にも親や兄弟や友人がいたに違いないということを思った。彼女の葬式はどうなったのだろう、俺は行かなくてよかったのかと。彼は死ぬ前に彼女を見た最後の人間なのだから。香典を送るくらいはした方がよかったかもしれない。上山はとりあえず女の携帯に電話をかけてみた。誰も出ない。そこで上山が女の家族に連絡する手段は早くも尽きてしまった。もともと3回しか会ったことがないような仲だ。警察を経由して彼女の家族の連絡先を教えてもらうことを考えたが、やめることにした。大体彼女の両親の前でどんな顔をしてどんなことを言ったらいいのか上山にはまるで見当がつかなかった。麻理恵さんとは3回しか会ったことがありませんが非常にいい人でした、とでも言うのか。おそらくどんなことを言おうと白い目で見られることは確かだった。ならば彼らには近寄らず葬式の邪魔をしないほうがいいだろうと思い、上山はそれ以上考えないことにした。
その時上山は視界の隅に部屋に溶け込まず、自分を主張する緑色の輝きを認めた。だらしなく開いた数か月前の漫画雑誌と畳んだTシャツの山の間から彼が持っているはずのないライターが怪しく顔をのぞかせていた。
翌翌日、上山は緑色のライターをスーツの内ポケットに入れて通勤した。
ライターは常にもともとの倍の重さと大きさを持っているように彼には感じられた。一日中上山はそのライターの存在を忘れることができなかった。ライターは常に彼の内ポケットの中で存在を主張していた。彼は何度もそれを触り、トイレの個室で実際にそれを見て、本当にそれが重くなっていたり、大きくなっていないことを確認しなければならなかった。トイレに行く回数があまりに多くなり、上司に体調の心配までされる始末だった。
その日の午後、上山はエレベーターで中丸美香と乗り合わせた。彼女は上山の先輩にあたるの同じ部署の社員で彼はは彼女と2日後に一緒の食事をする約束をしていた。
上山はエレベーターに彼女の姿を見ると微笑を見せた。彼女も微笑む。美香は大きなファイルを2つ両手で抱えていた。上山が階数のボタンを押してエレベータが動き出すとエレベーター内の送風になびいてファイルの上に乗っていた書類が数枚上山の前にひらりと落ちた。薄いクリアファイルしかもってなかった上山はそれに手を伸ばした。その時何かペンのようなものが床に落ちる音がした。上山が書類を拾い上げると、その落ちたものを美香が拾う気配がした。美香の方に向かい書類を渡そうとすると2つのファイルを無理やり片手にかかえている彼女のもう片方の手にはライターが握られていた。
「あれ、上山君、タバコ吸うんだっけ?」
「あ、いや、吸わないんですけど。」
思わず正直に答えてしまうが、吸うことにしておけば、よほど自然であることに数秒後に気づいた。彼は数秒どもってしまった。その間美香は不思議そうな顔をして上山を見つめながら首をかしげている。29歳にもなって9歳のガキみたいな仕草をしやがって、と彼は思った。
「いや、なんかタバコ吸う友達が部屋にライター忘れちゃって持ってきてくれって言われまして、ライターなんて安いし、新しいの買えよって感じなんですけど、そいつすごいケチで、どうしても持ってこいって言うんですよね。今日の夜会って渡す予定なんです。」
へーそんなんだ、と納得したような返事をしてから美香はライターを上山に渡し、安堵した彼は美香に書類を持たせた。
美香が降りる階に先についた。降りる直後彼をいくらか責任を求めるような目で見つめ、
「明後日楽しみにしてるね。」
と言った。彼はその目に自分を取るに足らないものに束縛する意思を感じた。上山は一瞬ゆがみそうになった顔を微笑で覆い、美香を見送った。
「あの店おいしいんで、期待しててください。」
おそらくこの調子で美香に色目を使っていれば、彼女と付き合い、結婚することになるだろう。それは社会も会社も歓迎するだろう。住宅手当てや出産手当をもらいながら、企業が理想と掲げる家庭を築いていくのだ。上山の両親もそれで喜ぶだろう。そして仮に今上山が美香を拒否したとしても、彼は会社が歓迎する家庭を築く以外に今後生きていくすべはない。もちろん彼自身もそういう環境で親に育てられたのだ。
だが、本当にそれが上山が望んでいたことだったのか。その未来には炎のような美しさや激しい熱があるのか。
上山の意識に炎が浮かびあがった。目をつむらなくともそれは見えた。彼の視界の裏にそれが燃えて熱をゆらゆらと放っていた。右手が内ポケットのライターを握りしめていた。
仕事が終わり上山が自宅に戻っても炎は視界から消えなか。
「今俺は惨めだ。」
彼は思った。すると美香の姿が脳裏に浮かんだ。彼女は安心し切って自分に優しく微笑みかけている。それは彼をつなぎとめる鎖だ。
「舐めやがって。ふざけるな。」
上山はライターを取り出し、何度も親指をはじいた。5回目にようやく火が付き、彼はそれを部屋の雑誌の上に投げつけた。炎は一気に燃え上がり、部屋の端から端へ駆け抜けた。予め灯油が撒いてあったに違いない。上山は壁にもたれて腰掛けて炎を眺めた。もう出口に辿り着くことは出来ない。黒煙が炎から舞い上がり、部屋を曇らせた。目にそれが入り彼の視界は滲んだ。
「思ったより鮮やかじゃないな。」
上山は目を閉じた。
暗闇だけがそこにはあった。