第一章 凪
第一章 凪
【出入国管理法第1条】
出入国管理及び難民認定法は、本邦に入国し、又は本邦から出国するすべての人の出入国の公正な管理を図るとともに、難民の認定手続を整備することを目的とする。
【11月8日(火)午後2:45 入国管理局総務課執務室】
「おい潤、ちょっと・・・」
竹下総務課長から手招きがあった。文書を手に、うつむいたまま右手を高々とあげ、手首から上だけを小刻みに振動させる・・・いつもの「こっちにこい」の合図だ。
「大統領官房から御指名だ。大統領府まで御足労を・・・だとよ。」
“緊急打合せ”と書いたLCP(液晶紙の略。メール等で配信された電子情報を、厚さ0.1ミリメートルのプラスティックでコーティングした液晶のA4版紙にアウトプットしたもの。ペーパー内にある、50ナノメートルの磁気を帯びた粒子がドットを形成しており、何度でも上書きが可能で、かつディスプレイと違い、携帯性、汎用性、経済性に優れているのが特徴。)の事務連絡を突き出した。
「内容は・・・行ってのお楽しみだ。」
「・・・何かご存じなのですか?」
友田は聞き返した。竹下の“いかにも俺は大事な情報を握っている”と言わんばかりの含み笑いに、こう聞かねば失礼だ、と反射的に思ったからだった。友田も役所生活10年を迎えようとして、ようやくこの類の処世術が身に付いてきた。
「・・・ここを見てみ。」
差した指の先には、発出先の室名の略称があった。
「官房副極・・・大統領官房副長官補極東アジア対策室ですね。」
「そう、“安危”が動き出したよ。面白い話が聞けるんじゃないか?」
やけに楽しそうだ。こちらは面倒な事務作業が増えるのではないかと気が気でないのに。
【11月8日(火)午後8:30 内閣官房4階401会議室】
件の事務連絡で緊急招集されたメンバーが集まった。
顔ぶれは、“ロ”形の会議机に黒板を背にして座っているのが、取りまとめ省庁の藤原大統領官房副長官補、向かって右が平田同極東アジア対策室長、左が近藤同事務官、窓側上席から陸奥外務省アジア大洋州局中国課事務官、橘財務省主税局総務課主税企画官、後藤防衛総省防衛局防衛政策課事務官、廊下側上席から大塚大統領法制局第二部参事官、中野警察庁生活安全局生活安全企画課企画官、高橋海上保安庁警備救難部救難課事務官、そしてその隣が入国管理庁総務部企画課の友田入国管理企画官となる。
「皆様お忙しいところ緊急にお集まりいただき、大変有り難うございます。この度聞きお及びのことかと思いますが、先月末中国人民解放軍が台湾に侵攻、現在総統府周辺の制空権をを制圧しておりまして、我が国としても各方面への対応を迫られているところです。大儀上台湾内部で興ったクーデターに対する『中国国内における鎮圧』という形での今回の行動(侵攻)であるため、アメリカをはじめ、各国政府の対応は“一応静観”という大調(大統領調査室の略。いわゆるスパイ)からの情報も入っております。しかしながら、既に戦災を逃れるため、台湾人のボートピープルが沖縄本島に接近しつつあるという海上保安庁からの情報も入手していることから、官房長官から今回の緊急打合せの指示があり、皆さんにお集まりいただいた、という次第です。」
藤原官房副長官補は、ここまで一気に口上を述べた後、徐に着座した。阿吽の呼吸で平田室長が続ける。
「今回は、政府としての方針を決める“たたき台”を作るための打合せでして、関係各省庁さんの忌憚のない御意見が伺えたらな、と思っております。・・・あ、それから藤原が所用のため退出いたしますので御了承ください。」
話し終えるや、藤原が慇懃に腰をかがめ、ゆるゆると幕間に消えるとともに、末席の近藤事務官が、集まった各担当者に数枚のLCPを配り始めた。
「皆さんのお手元の資料は、今回の台湾侵攻が、“国内鎮圧”であると想定した際の政府がとるべきスキームをあらわしております。」
表題は、『台湾からの難民に対する政府の対応について』。朱書で“極秘”と書かれている。
「喫緊の想定としては、人道支援であります。国防上の対策・・・所謂対中国との関係ですが、これは関係省庁と既にシミュレーションを重ねておりますので、ここでは割愛するとしまして、この人道支援関係の関係法令の制定を2、3ヶ月の早い時期・・・出来れば通常国会に向け目指していきたいと考えております。」
友田は急に胸が締め付けられる思いがした。“嫌な予感”というやつか・・・間もなく予感は実感へと昇華する。
「自民党税調からの内々のオファーから始まり、大統領諮問機関の答申、財務省さんとの事前協議の結果、我が国に直面している国家デフォルトの危機を回避することができ、かつ、西側首脳が大使館を通じて要求してきている難民対策も解決できる手段として・・・あっ、次のページを・・・」
室長の“次のページを捲ってくれ”のジェスチャーに促されるように手元のLCPの改頁釦を押すと、そこには友田の想定していた最も『なって欲しくない帰結』が記されていた。
表題『出入国管理法の改正とその後の対応について』
・・・その後、外務省が台湾総統府から“侵略”に対する支援要請を受けたがこれを保留していることや、当該法改正後の治安維持に関し、公安当局と防衛当局が連携してこれを行い、省令等の整備の必要性があれば省庁内で検討してもらうなど、事務的なやりとりが小一時間かけて行われたようだったが、友田はあまり記憶していない。
海馬にやや強い痺れを残したまま、4階のエレベーター付近で暫し立ち竦んでいると、不意に後ろから右肩を揉まれた。
「よろしく友田君。・・・まあ、 “あいさつ”というヤツは普通部下からするものだが。」
「すいません!・・・えっと・・・」
友田が戸惑っていると、目の前にいる、先程まで右肩を握っていた、色黒で逞しい体つきの四十男が続けた。
「大統領法制局第二部の大塚だ・・・さっきの話、聞いてなかったのか?」
取り繕う姿勢を見せようとする友田を制するようにして、大塚は念を押してきた。
「そんなにぼけっとしているようじゃ、俺の下で連邦法なんて、とても作れねぇぞ。」
【11月8日(火)午後10:30 入国管理局総務課執務室】
「なぁ、面白かっただろ?」
竹下課長が放心状態で帰ってきた友田を、いつもの仕草で呼びつけた後そう言った。
「課長は御存じだったんですか?」
友田は課長がどこまで知っているのかが分からなかった。連邦法改正案検討、自らの異動の話・・・
「・・・法制局に同期がいてな。」
その後竹下は、2、3秒くらい間をおいて続けた。
「・・・浮かない顔をしてどうした。官僚として生を受けた漢なら、普通運が回ってきたと小躍りするもんだ。連邦法が出来るまで潤、あそこで暫く修行だ。凄いの、こさえてこいや。」
【11月12日(土)午後7:30 シオサイト5区イタリア街】
友田は、今日大学の同級生で彼女の岡島理子と落ち合うことになっている。先日から延び延びになっていた夕食をともにするためだ。
場所は、友田が働いている長久手(旧愛知県愛知郡長久手町;現在『中京都長久手区』)の官庁街から『リニモ』(東京~大阪を結ぶリニアモーターカーのこと。最高時速500km/hに達し、長久手駅から新宿駅まで約1時間で到達する。)で、彼女が勤めている共同通信社に程近い、東京府汐留『シオサイト5区』の通称“イタリア街”にある、イタリア料理屋『FAVOLOSO』というところだ。
イタリア語で“すばらしい”という意味だそうで、理子が文化部の友達から紹介された、うまいと評判の店らしい。仕事を早めに切り上げ、彼女からメールで案内された地図通りにやや早めに辿り着くと、フィレンツェの町並みよろしく、プロバンス風のアパートメントがあった。果たして、スカウター(眼鏡タイプのPDAのこと。最初の発売したメーカーがつけた商品名が一般名称となって今に残る。スカウターは、無線通信で上下最大200Gbpsの速度でインターネットが接続でき、ベルトの蓄電池で人体から随時充電が可能なため、継続して1週間程度使用が可能。ただし一週間超の連続使用及び体調不良等により充電が正常に行えない場合は、外部から電源を供給する。操作は、口の動きでキーパンチを行い、目の動きでカーソルを動かし、瞬きでクリックする。ディスプレイは透明のポリカーボネイト製で、約2m先に100インチのスクリーンが映し出される格好になる。両目用、片目用があるが、連邦法上歩行及び移動機器を操作しての両目用のスカウターの装着を禁止しており、そのため片目用が主流となっている。)で検索したとおりのエントランスからのカットがそこにあった。
「東京も何年ぶりかな。」
エントランスを通り過ぎて、リザーブ名をギャルソンに告げると、間接照明の漂うパティオが見下ろせる中二階の疑似テラスに案内された。
彼女は店の予約をする時、いつもファーストネームを告げる。ある時、
「なぜ“岡島”じゃなく“理子”っていうの?」
と尋ねたことがある。その時彼女は笑って、
「なぜって、・・・あなたにお店でそう呼んで貰うのが好きだからよ。」
と、そう答えるにとどまった。
彼女と初めて出会ったのは、教養学部一年で履修したイタリア語のクラスだ。友田は、クラスの中で一際目立った、瞳の大きい黒髪の女性に目を奪われた。
クラス名簿を見て、他愛もない質問を思いつき声をかける。
「岡島・・・さとこさん?」
ロートレックの画集を見つめていた理子が、視線を合わせずに友田に返答した。
「“さとこ”ではなくってよ、潤一郎さん。」
このとき初めて、彼女はゆっくりとした調子で友田に視線を合わせた。
「な、なぜ僕の名を?」
友田はやや取り乱してそう言った。自分が気にかけた女性の名を間違えたこともさることながら、相手が過たず自分のファーストネームを知っていたことに対して畏怖したからであった。無論2人が接触したのはこれが初めてのことである。
「これから4年も同じ学舎に集う人たちだもの。知らずにいることが出来ないだけよ。」
彼女は涼やかにこう回答した。が、当然友田にはこの回答に承伏しかねた。如何に同じクラスといえ、ともすれば一度もすれ違う事のない連中も含めどうして知りたいと思う事ができよう。
「欺瞞だ。興味のない人間の事まで記憶する意味が理解できない。」
口に出す必要のない言霊が堰を切って零れ出た。友田にとって『知りたい』という感情は、能動的な意志の触媒として『記憶する』という行動を生むものだと理解しているからだ。
「あら、興味のない人たちの事を“知って”はいけないの?・・・あなたに興味がないとはひとことも言っていないし、別にあなたが私にとって“興味ある人”だと、決まった訳ではなくてよ。」
落ち着いた調子でいながら、それでいてブリザードのように鋭く、友田の心の奥に突き刺さった。友田は、刹那の倒錯の末、以後言葉を失ったまま教室を去った。
彼女は物事の本質を見抜く力を持っていた。やや才気走ったきらいがあったため、周囲からは隔絶した存在であったが、それを差し引いても余りある容姿と才覚を持ち合わせていた。
友田はそんな彼女に接するにつれ、徐々に彼女に対し、『畏怖』にやや近似した好意を寄せるようになった。
彼女とのデートは、主に上野の『ホームワークス』というハンバーガー屋だった。理由は、“喫茶店より格好つけず”に“ファーストフードより落ち着いている”とのことだ。
そこで2人は主にお互いが歩んできた道程、そして今考えている信条、将来のビジョン等を語り合った。
「あの娘はやめた方がいい。お前には荷が重すぎる。」
近所の下宿に棲んでいる、同じクラスの親友の橘琢磨がそう助言を呉れた。彼にしてみれば精一杯の友情の現れには相違ないが、お節介の大半はこの類のものである。
「うるせーな。いいんだよ、人の恋路に軽重なんてあるもんか。」
言われなくても自認している。普通の女性との違和感・・・これは言葉では言い表せないが、つまりは“才女とは得てしてこのようなもの”と割り切れば、存外どうということはない、ストレスは溜っていくが・・・
何とか4年間つき合ってきた2人が卒業を迎え、友田は官僚に、そして彼女は共同通信社に就職が決まった。友田は、彼女がジャーナリズムの世界に生きることが彼女にとっても、また業界にとっても最適であることを感じ、何より喜んだ。
「潤一郎さんらしくないわね・・・官僚なんて。」
理子は就職が決まった後のある日、そんなことを呟いた。自分でも“らしくない”と思った。ただ官庁訪問先に法務省(入国管理局)を選んだのは、省庁の中でも特に先進的でなく、奇を衒わず、硬質的で野心的でないその局の雰囲気が特に気に入ったからであった。
「でも・・・“物産”で顔を真っ黒にしながら中東あたりをバリバリ走り回っているなんて姿はとても想像できないわ。・・・まあ、そう考えると妥当な決断かもね。」
そう言うと理子は小悪魔の微笑を浮かべた。
「そういう理子は、なぜ敢えて共同通信社にしたんだい?」
理子の学歴その他の資質であればどこにでも就職できたはずだ。ましてや彼女の父が朝日新聞の論説委員であったことを思うと、そこへ行くのが順当な考えではないかと勘ぐってしまう。
「私・・・主義主張を大衆のために変質させたくないの。あそこ(共同通信社)はソースの提供がメインでしょ?だからその分記事に集中できると思うの。」
相変わらずの痛快な傲慢さが、友田の胸に心地よく響いた。
「おまたせ、お久しぶりね。あなたは・・相変わらずそうで何よりだわ。」
友田が着座した5分後に、彼の背後から、懐かしく落ち着いた調子の声音が聞こえた。理子は着座すると、脱いだ『ストラネス』のジャケットを膝の上に、そして『エピ』のショルダーバックを足下に置いた。・・・3年以上、いや、もっとかも知れない。音信不通になって3ヶ月くらい、互いが午前様の忙しさもさることながら、ともに干渉を嫌う性格も手伝って、このような状態でも2人の進展について疑義を抱くことはなかった。それでも久しぶりに再会する理子は、心なしか俗人っぽく(これは必ずしも適切な比喩ではないが、彼女の場合は、特に最初の印象から超越した存在であったことから)感じられ、友田は少しく失望の感があったが、『大人になったのだ』と理解することで納得しようとした。
シンプルなイタリアンのフルコースを食している間、2人を囲むテーブルの上では、『会社のデスクにおいてあるメリッサの花が咲いた』とか、『友人の美紀の飼っている犬がかわいい』であるとか、『ジャニーズがリリースした新しいユニットはCGの書き込みが甘い(最近のアイドルは殆どがCGになっている)』であるとか、とにかく他愛ない世間話で小一時間、花弁の小さな花が咲いた。友田はいつものように、理子のそのチープな話題にいちいち相槌を打っていた。
そしてデザートのティラミスがテーブルに運ばれようとしているその時に、ふと彼女の表情が曇った。
「私・・・しばらく東京を離れる事になると思う。」
友田は手に持ったスプーンを置き、顔を上げた。ひきつづき、「その訳を聞く」という意味の眼差しを送った。
「沖縄に・・・ほら、最近台湾が不安定でしょ?それで取材で沖縄にきている難民とコンタクトをとりたいの。彼らがどんな境遇で祖国を飛び出し、どんな思いで東シナ海を漂っていたのか。それが知りたいの。」
エスプレッソを飲み終え、一息ついた理子は、左手の『サントス』が指し示す時間を確認し、《もうこんな時間》と独言を呟いて見せた後、椅子を引く一瞬のタイミングを計り言葉を発した。
「沖縄の入管から・・・何か情報は・・・掴んでないわよね。」
友田は、自らの心の奥にある、寒さに凍える子犬を見つめながら、こう切り返した。
「久しぶりにお互いに時間が取れたと思ったら・・・残念だが、僕は・・・」
友田はコーヒーに砂糖を入れた後、ゆっくりとスプーンでかき混ぜ、
「僕は今、法務省にいないんだ。法制局・・・大統領法制局に・・・」
と続きを言おうとした時、『守秘義務』という扁桃腺が咽頭を閉塞させ、言葉を詰まらせた。
「・・・そう、ごめんなさい。でも、利用したんじゃなくってよ。本当に逢いたかったの・・・今言うと、ちょっと白々しく聞こえるかな・・・」
理子は奥歯を噛みしめ、こう言った。
「でもね、公務員には解らないかもしれないけど、民間ってね、儲かって初めて一人前なの。特に『ブンヤ』はね、“嘘”か“真実”かが問題じゃないの!“売れる”“売れない”が問題なの!」
一気に捲し立てた理子は、やや落ち着きを取り戻して続けた。
「10年間・・・私は自分を認めてもらう為にがむしゃらにやってきたつもり。でも同期の中間が先を越していくたび、忌々しいくらい自戒の念が襲ってきて・・・潰れそうになったり、もう自分を止めてしまおうかなんて思ってみたり・・・だから私があの場所でこれ以上続けていくためには、自分を偽るか、それとも誰にも真似できない、誰にも否定できないネタを素っ破抜くしかないのよ・・・」
理子は、俯き涙を零すと、柄にもなく他人に弱みを見せた事を悔やんだ。これはこれまで友田にも見せたことのないものだった。
「それじゃ・・・先に失礼するわね。」
ペンダント型のARS(自動認識装置の略。料金決済等の時、あらかじめ法定認証会社に登録している個人情報を持った双方向端末であるARSをリーダーに読み込ませることで、これが完了するシステムである。ARSは、投票の際の投票券になるのを始め、実印を含む印鑑や会社、自宅の鍵にもなる、まさに自分を示す“唯一にして最大の身分証明書”である)でテーブルの隅に埋め込んであるリーダーに近づけ自分の食事の決済を済ませると、彼女はパティオにある観葉植物の茂みに消えていった。
『沖縄では体に気をつけて・・・』
そう言おうと準備はしていた。今回の話が唐突で、元来考えが喉元を通り過ぎるのに時間がかかる友田の性格もさることながら、初めてみせる彼女の涙に気圧されたのも事実だ。しかし、彼女に優しさをあげられなかったのは、以上の理由からではなく、むしろ商業主義、大衆主義に洗脳されていく彼女と、国政を統べる役人との埋めがたい溝が生じたのだろうか。または馴れ初めの頃抱いていた理子に対する畏怖感が薄らいできたからなのか・・・友田の目には、彼女がとても小さく、そしてとても切なく映った。
【11月14日(月)午前9:30 大統領法制局第2部調査課】
友田は先週末の突然の辞令交付を受けて、早速こちらに異動してきた。一昔前なら年度末付けであるとか月末付けであるとか、とにかく区切りのいい日付で辞令が発せられていたのだが、いつの頃からか、ある日突然辞令が発せられ翌日には違う部署にいる、なんて事は珍しいことではなくなった。
まあ、今は執務室という部屋は宛われてはいるが、別室組(局長クラス以上の方々)を除き、上下席なく出勤した者から好きな場所に、隅に折り畳んである机を引き出し、事務用の両目スカウターと赤外線で接続しているワイヤレスキーグローブ(スカウターの30cm前方に現れるバーチャルキーボードを操作するためのデバイスのこと。長時間の作業を可能にする新素材で作られており、軽量且つ通気性に優れている。)で執務する。異動辞令に伴う“嫁入り道具類(給与及び待遇面の更改に係る手続用書類のこと)”を庶務担当に手渡すという前時代的な行為は既に行われておらず、友田が所持しているカード型のARSに庶務システムのイントラネットからダウンロードさせるだけで完了する。
「おはようございます」
友田が定刻通り出勤すると、庶務担当係長を除きやや広めのオフィスには誰もいなかった。折畳みのOA机が片づけられたその空間は、ただでさえ広めのオフィスをより際だたせた。
「あ、あああ・・・ああ、友田さんね。よろしくお願いします。私、高橋といいます。」
年の頃で言うと50代半ばの小太りの女性が、慇懃に挨拶してきた。10年程前に公務員制度改革の柱として、国家Ⅱ、Ⅲ種の全ての職員を人材派遣会社(マンパワー.inc)の社員とし、テンポラリースタッフとして再雇用する制度とした。自然相当数の人材が整理、縮小され、任される業務もそれまで以上に限定的かつ定型的なものとなった。彼女はそのマンパワー社の社員の一人で、庶務担当係長として採用されている。しかしながらこの部署での勤務は10年目で、文字通り一番の古株である(因みにこのマンパワー社は、各省庁はもとより、各地方公共団体の課長級以下の事務員や警察や消防の事務官、さらには民間の一般職社員の斡旋も行う巨大人材派遣企業である)。
「あの・・・皆さんは、まだ出勤されていないんですか?」
「ここはいつもこうですよ。調査課の皆さんはあまりここでは働きません。各省庁へいったり、国会図書館へいったり、たまに海外へ行ったりしています。・・・あ、あ、皆さんの行き先なら、私承知してますよ。」
壁に埋め込まれた移動式キャビネットの方へ踵を返したと思ったら、それが保存されているLCPの所在を丹念に探し始めた。
「あ、あああ、ああ、あった、あった、有りました。」
自分に言い聞かせるようにして発見の喜びを噛みしめると、現在の各担当らの調査予定先一覧を友田に見せた。
「大塚参事官の居場所は・・・と。」
友田は指で予定先を示す箇所を辿った。・・・午前中、自民党本部・・・
すると背後から、軽快な音色の革靴の足音が聞こえてきた。
「おはよう、友田君。すまんね、一人にさせて。今回の台湾の件で古老組が狼狽えていてね、朝イチで宥めに行っていたよ。まるで私設秘書だな。」
精神的な疲れを拭うかのように重々しくジャケットを剥ぎ取ると、取り出したOA机の上に無造作に置いた。
「さて、と。まずは早速だが、法制化の下ごしらえだ。先週の資料は持ってきたか?」
自民党が示した要望案を参考にして、本法の改正動機を固めるための調査を開始しなければならない。まずは、
①直面している現状について
②このため発生する問題点について
③あるべき理想的な状態について
④この理想的な状態にするためどの条を改正する必要があるかについて
⑤その条をどのように改正するかについて
⑥詳細を政令、規則にどのように示すかについて
⑦通知でどのように補完するかについて
⑧逐条解説の完備について
と基本的なスキームを示し、これに乗っ取ってスケジュールを組み、提出する会期を逆算する。
「・・・と・・・で・・・だから、来年206常会(通常国会)だな。3月18日〆で国会提出だ。こりゃ一日25時間労働だなククク・・・」
どうやら友田の周りには人が苦労するのを楽しむ輩が多いようだ。
【11月17日(水)午前10:30 国立国会図書館】
まず手始めに友田は、現在我が国が直面している現状について整理するために、図書館内にある資料室に隠った。そして今回台湾で起こった事件及びそれに至る背景を検証する。
台湾は、人口約2,200万人、面積3,600平方キロメートル、現在21の部族で構成されており、大別すると「原住民(11部族)」、「先住民(平埔族)」、「本省人(漢民族)」、「外省人(漢民族)」に区別され、それぞれの構成比は、本省人85%、外省人13%、それからその他が2%となっている。
また台湾は、外夷をして統治と殺戮を繰り返されてきた痛々しい歴史を持つ。つまびらかになっているものでも、大航海時代のスペイン、オランダによる統治から始まり、清、日本、国民党と支配者が転々と入れ替わってきた。特に鄭成功以後の漢民族による支配に伴う先住民との混血が進み、次第にそのアイデンティティが希薄化していった。
ところが太平洋戦争後、“真の台湾人とは?”の命題に彷徨いながら1世紀を迎えようとしていた今から40年程前、一人の男がこの世に登場した。名を楚友朋(通称;アレックス)という。建国中学在学中に台湾のアイドルグループ『猛虎隊』としてデビュー。その後台湾大学へ進学し、空白の7年を経てカリスマ的な人気俳優となる。それから急遽民進党から出馬し、立法院委員に初当選。間もなく台北市長を経て、若干40才にして総統の地位まで上り詰めた。
彼は先住民族平埔族の出自で、細別するとケダカランの一支族バサイの民の子孫である。
楚は、主に本省人で構成する『台湾会議(台湾人による台湾の独立運動団体;会員数100万人)』の総裁として、これを背景に党内での権力を次第に蓄えてきた。
折しも仮想敵国中国では、深刻な経済不況から、元来抑圧されていた貧富格差、環境汚染への民衆の不満が爆発、中国共産党軍事委員会をして辺境の人民解放軍を抑制することが不可能となり、時同じくして、中国民主化運動の伝説的英雄である劉暁波が、『中華報国党』を名乗る北京人民解放軍の一派に暗殺されたことを端緒に、予備役及び人民武装警察を含めた約300万人の軍人等が各方面の軍閥の下に参集、さながら2千年前の群雄割拠、戦国時代へと風雲急を告げる様相を呈してきた。
特に南東の沿岸部に位置する江蘇省、浙江省、福建省及び広東省付近のいわゆる『上海幇』を統べる軍閥である陳炳德陸軍大将(元中国共産党軍事委員会委員、人民解放軍総参謀長)がいち早く行動を起こし、『中国共産党改革会議』を創設、その議長となる。
彼は、出身地である江蘇省にその本部を置き、当該地の経済的優位性を背景に、最新鋭の武器とモチベーションの高い統率された軍隊によりエリア内における戒厳令を敷き、『中華人民共和国改革基本方針』の名の下、誘致された外資系企業を次々接収のうえ、在留外国人を強制送還し、自らが息の掛かった一族並びに郎党に分け与えたことにより、門閥による一大帝国を、まるで『シナリオ通り』に瞬く間に築き上げることに成功した。
中国共産党の温家宝主席は、さきの『中華報国党』の鎮圧のため、陳炳德陸軍大将に1個師団の派遣を要請のうえこれを鎮圧する。
しかしながら党本部は、以後これら軍閥による横行になす術なく、さらに国際的なエキスキューズに対応する余裕もないことから、少なくとも国内の世論をかわすことを目的として、国家アイデンティティに盛り上がっている台湾を『反乱鎮圧』を名目に制圧することを画策、陳炳德陸軍大将にその総指揮を依頼した。
温家宝には策略があった。