呪いと愛は紙一重
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
ノックが聞こえる。ひゅっと息が喉に貼りついた。けれど侵入者はお構いなしだ。
「おはよう、ミラ。調子はどうだい?」
ドアが開く音に思わず体がこわばる。この部屋に来るのは一人だけ。そう知っているからこそ怖い。
彼の名前はヴァンギール。わたしの幼馴染……と呼べるかも怪しい人。七歳の時に孤児院で出会って以来、なんの接点もなかったはずの人。今は、この世の誰より憎い人。
「見てくれよ。ベーコンエッグ、うまく焼けたんだ。好きだろう、半熟のたまご」
「いやっ……!」
朝食なんていらない。そのおぞましいものを近づけないで。あなたからの施しなんて受けたくない。しかも半熟のベーコンエッグ? 世界で一番嫌いな食べ物だ。そんなものを食べたらお腹を壊してしまう。
「……ごめんね」
わたしがひっくり返しそうになったお皿をなんとか受け止めて、ヴァンギールは悲しそうにテーブルに置いた。
「でも、何か食べないと身体に悪いよ」
「いらない、何もいらない! お腹なんて空いてない!」
これは嘘だ。昨日の昼、口に無理やりシチュー―と呼ぶのもはばかれるもの―を突っ込まれて以来、何も食べていないから。
昨夜ヴァンギールが持ってきた白パンとハンバーグもどきは、テーブルの上に置かれたまますっかり干からびてしまっている。でも、仕方ないじゃない。あんなまずいもの、とても手をつける気にはなれないんだから。
わたしがここに閉じ込められて、今日で二日目。何があったのかはよく思い出せない。ある日目覚めたら、隣に何故かヴァンギールがいて……わたしは、純潔を奪われていた。そして、ヴァンギールに閉じ込められた。
ここはわたしの家のはずだった。どうしてヴァンギールがここにいるのかわからない。
ヴァンギールのいる家は、もう安らげる安全な場所ではなくなっていた。まるで様変わりしてしまっている。二人用に寝室を整えたのは、きっとヴァンギールの仕業だ。気持ち悪い。内側から開けられないよう、ドアにも魔法の鍵がかけられているらしい。
ヴァンギールを押しのけて外に出ようにも、気力が湧いてこなかった。ヴァンギールは魔法学者だから、何か魔法を仕込んでいるのかもしれない。水差しに薬が盛られていたのかも。
「出して……ここから出してよぉ……」
「俺だって本当はこんなことしたくないんだ。だけど仕方ないんだよ、ミラ。君が俺のことを嫌いだと言ったから」
涙が勝手にあふれてくる。ハンカチを取り出して顔に触れようとするヴァンギールの手を払いのけても、彼は諦めてくれなかった。
「ミラ、俺の目を見て」
強引に視線を合わせられる。眼鏡の向こうの緑の目は、感情が読み取れなくてまるで虫みたいだった。
「俺のことを好きだと言って。お願いだ、ミラ──俺を愛して」
「死んでも……言わない……! あなたを好きになるくらいなら、死……死んだほうがましよ……!」
「……そう。そんなに俺のことが……」
ヴァンギールはわずかに俯き押し黙った。でも次の瞬間、彼は陶然とした面持ちでわたしを見つめた。ゆがんだ笑みがただ恐ろしかった。
「俺も君を愛してる。君のためなら死んでもいいぐらいに」
「きゃっ!?」
不意にキスをされた。全身が粟立つ。じたばたもがくけど、簡単に取り押さえられてしまった。けれど次の瞬間、手に何か硬くて冷たいものが握らされる。
「大丈夫。ここに指を添えて引くだけだ。安心して。それで君は救われる。……弾は一発しかないから、よく狙うんだよ」
それは魔導小銃だった。ヴァンギールは笑いながら銃口を自分の胸に押し当てさせた。彼はわたしから目をそらさないまま呪文を唱える。鍵の開く音がした。
瞳孔が開ききり、異様な熱を帯びた目がわたしだけを見据えている。気持ち悪い。気持ち悪い。震えが止まらなかった。
「こんなことをさせてごめんね、ミラ。全部俺が悪いんだ」
その言葉の意味を問おうと思えたときには。手にしていた銃を投げ捨てたときには、もう遅かった。
視界が まっかに
どうして かれが こんな
わたし いま なにを
うそ
いや
* * *
「わたしはミラです。今年で八歳になりますっ」
「上手よミラ。明るく元気で、とってもかわいらしいわ」
何か嫌な夢を見ていた気がするけど、なんだっけ。でも先生に褒められたから、まあいっか。
「よくやるよ。知らない大人に愛想を振りまいて、一体何になるわけ?」
嗤う声はヴァン君のものだ。わたしのよく知る、幼馴染。嫌悪感はちっとも湧いてこなかった。
……嫌悪? どうしてわたしが彼を嫌わないといけないんだっけ。彼は、わたしの大切な友達なのに。
「そんなことを言わないで、ヴァンギール。ほら、次は貴方の番よ。今日のお披露目パーティーで、里親が見つかるかもしれないんだから。しっかり練習しておかないと」
先生がため息をつく。子供達の視線がヴァン君に集まっていた。わたしは席についてヴァン君の自己紹介を待つ。けれどヴァン君は立ち上がらない。
「俺の名前はヴァンギール・エクセア。母親は “娼姫”リシィ・エクセアで、父親は “間抜けな”ディンレッシュ・エクセア。神罰を恐れないなら引き取れば?」
ヴァン君は手の甲に刻まれた呪いの証を見せながら、にっこり笑ってそう言った。先生は目を三角にして、今日のご飯抜きと反省室行きをヴァン君に通達した。
「ヴァン君、ヴァン君」
「……ミラ?」
職員室からとってきた鍵を使って反省室のドアを開ける。ヴァン君は眩しそうに目を細めた。
光が外に漏れると先生に見つかってしまうので、ドアをきちんと閉める。カンテラがあるから大丈夫だ。
「ごはんだよ。お腹空いたでしょ。これ食べて?」
「それ、ミラの分じゃないのか? 君が食べろよ」
「そうだけど、はんぶんこすればいいでしょう? わたしはもう、はんぶん食べたから」
今日のお夕飯は、わたしの大好物のハンバーグ。普段は食べられないけど、今日はパーティーだからその残り物だ。これならヴァン君も喜んで食べてくれると思って、先生に見つからないようにお皿を隠してきた。
「あのさぁ。いつもいつもメザワリなんだよね。俺のことなんか構って、君に何の得があるわけ? 俺の親が誰なのか、君も知ってるだろ。神罰が怖くないのか? それとも理解ができてない?」
ミラはバカだからね、とヴァン君は嗤う。ヴァン君はそうやって、いつもみんなのことを馬鹿にした。みんなもヴァン君を馬鹿にしている。だからヴァン君に友達はいない。わたし以外は。
「ヴァン君は、どうしてそんなに嫌われたいの? 一人でいるのはさみしくないの?」
「は?」
「わたしだったらさみしいな」
わたしはヴァン君が来るまでひとりだった。さみしかった。珍しくて不気味な黒い髪と、路地裏育ちという出自のせいで、カラスの子と呼ばれていた。その呼び方は好きじゃなかった。
「ひとりぼっちのヴァン君を見るのも嫌。でもわたしがいれば、ヴァン君はひとりじゃないでしょう?」
「それがメーワクだって言ってるのがわからないのか?」
[俺はずっと君に甘えてたんだ。君を失いたくなくて、呪いに抗おうとした。でもそのせいで君を苦しめて、結局こんなことに……]
「わかんないよぉ。わたしをバカって言ったのは、ヴァン君じゃない。だからわたしも、したいようにするの」
あれ、おかしいな。いま、声が重なって聞こえたような。
でも、ヴァン君は聞こえてないみたい。そうだよね。わたし、そんなこと言ってないもの。ヴァン君だって、言ってない。だって記憶と違うから。
……記憶って、なんのこと?
[今、……聞こえ……ミ……返…………]
[……れ以上……刺激……今、……は戦っ…………、……のじょを信…………今は、……それしかできない]
[……その身体で……するな。……まだお前…………心配…………るが……かの…………時、おま…………どうする]
声がした。知らない大人達の声。遠くてよく聞こえない。ここにそんな人達はいない。だから気にしなくて大丈夫。無視していたら、声は聞こえなくなった。
「わたしはヴァン君に食べてほしいな、ハンバーグ。せっかく持ってきたんだから」
お皿を押しつけてフォークを握らせる。ヴァン君は、何故だか変な顔をしていた。
次の日の朝、無事に反省室から出してもらえたヴァン君は、朝食を配られるなりわたしの隣に座った。
今日のごはんはベーコンエッグと黒パンだ。どきどきしながら黄身を割る。中身がぽろりと崩れた。固い黄身。こんな悲しいことはない。
「どうかしたの、ミラ」
「ヴァン君……。あのね、たまごがね、とろとろじゃなかったの……」
「はぁ?」
「わたしはとろっとしてるのが好きなのに……」
ヴァン君は呆れた顔で自分の黄身をつついた。ぷくりとオレンジ色があふれ出す。ヴァン君は先生がこっちを見ていないのを確認してから、わたし達の皿を交換した。
「生焼けのほうがいいなんて変な奴。こんなの食べたらお腹を壊すに決まってるのに。俺は絶対食べたくないね」
「ありがとう、ヴァン君!」
とろとろのベーコンエッグはとてもおいしかった。これを譲ってくれるなんて、ヴァン君はなんていい人なんだろう。
その日わたしはお腹を壊してひどい熱を出した。先生の話では、ヴァン君が泣きながら看病してくれたらしい。ずっとつきっきりで回復魔法を使ってくれたから、今度はヴァン君が倒れてしまったそうだ。
「もう二度と生焼けのたまごなんて食べるな! 死ぬかと思ったじゃないか!」
「だって、おいしいんだもん……」
「どうしても食べたいなら、俺がたまごを安全に食べられる方法を見つけてからだ!」
「なんでヴァン君が見つけてくれるの?」
「えっ……そ、それは……えっと、ほら、俺は君と違って頭がいいし、なにより光属性魔法が使えるからね。解毒魔法を応用すれば、食べられないものも食べられるようになるかもしれないだろ」
「魚の骨とか、野菜の芯とかも!?」
「そもそもそれは食べ物じゃない」
「そっかぁ……」
孤児院の先生に拾われる前は、それでも食べてたんだけど。
そう言うと、ヴァン君は小さな声で「ごめん」と言った。美味しくないとは思っていたので、「いいよ」と言うと、ヴァン君は安心したように微笑んだ。
「ヴァン君は大人になったら、わたしにたまごを食べさせてくれる人になるの?」
「言い方、どうにかならないのかい? そんな限定的な仕事をするつもりはないよ。俺が目指すのは魔法学者さ。魔法の研究をするんだ」
「そっかぁ。魔法、使えるもんね。でも光属性なら、神殿に……」
言いかけて気づいた。今度はわたしが「ごめん」と言う番だった。ヴァン君は青い顔をしていたけれど、「いいよ」って言ってくれた。
“娼姫”は有名だ。彼女の話は子供でも知っていた。罪から生まれたケガラワシイ子、父親誰だかわからぬ子……だからヴァン君は、いつもそう囃し立てられていた。
でもヴァン君は、“間抜けな”ディンレッシュがお父さんだと言っている。多分その通りなんだろう。『間抜けな神官ディンレッシュ、 “娼姫”に骨抜かれてたら神と鉢合わせして腰抜かした』と、昔、酔っぱらいが歌っていたのを聞いたことがあった。
“娼姫”はとてもきれいな人だったらしい。いろんな男の人が彼女に夢中だったとか。
そんな“娼姫”は神の怒りを買ってしまった。“娼姫”は、神様の寵愛を受けた“巫女姫”で、生涯純潔を守り通して神様に身を捧げないといけなかったのに、人間の男の人を好きになったからだ。
そのせいで、“娼姫”と“娼姫”の恋人だった男の人には神罰が下った。神様は別の女の人を“巫女姫”に選び、何者でもなくなった“娼姫”は王都から追放された。
その時に、“娼姫”の血筋も呪われたと言われた。具体的に何があって、何が起こったのか、わたしは知らないけれど。
知らない? ほんとうに? 教えてもらわなかったっけ。
誰に? ヴァン君しかいない。でも、教わっていない。この時は、まだ。
────だから、思い出せない。
*
「サトオヤ、見つからないねぇ」
「あまりに君の食い意地が張ってるから、みんな尻込みしてるんだろう」
いつの間にかわたしとヴァン君は孤児院の最年長になっていた。十二歳。そろそろここを追い出されてしまう。
「君も見た目は悪くないんだからさ。お披露目パーティーの時ぐらい食欲を抑えて、なんにも喋らないで静かに座ってればいいだろ」
「先生にもそう言われたなぁ。でも、前にそれをやった時、本当に引き取られそうになっちゃったの。そしたらヴァン君と離れ離れになっちゃうでしょ。ヴァン君、わたし以外に友達いないのに」
「サトオヤに引き取られる気、ある?」
「あるよ! その時はヴァン君も一緒がいいな」
「……」
ヴァン君は少し黙ったあと、意地悪そうな顔をした。
「君は本当にしつこいな。いつもべたべたしてきて気持ち悪いんだよね。そんなに俺のことが好きなわけ?」
「好きだよ?」
「ッ!?」
確かにヴァン君は口が悪いけど、本当に嫌なことはしてこないから。
それに、ヴァン君はわたしが気づいてないと思ってるけど……わたしの髪の毛をしょっちゅう引っ張るサムを言い負かしたり、マーサが盗んで水たまりに捨てたわたしのぬいぐるみを魔法で綺麗にしてからこっそりもとに戻してくれたりしたこと、知ってるし。いじめられてたのはヴァン君もなのに、助けてくれた。
──ああ、そうか。わたしは無意識のうちに、ヴァン君を盾にしてたんだ。ひとりぼっち同士、ヴァン君がいれば助けてもらえると。孤独を厭ったのは、他ならないわたし自身だった。
「ミラ……今、自分が何を言ったのかわかってるのか?」
「どうしたの?」
「なんで平気なんだよ。俺はずっとひどいことを言ってきたのに、なんで君は俺を嫌いになってくれないんだ。本当に呪いが怖くないのか?」
「どうして嫌いになってほしいの? ヴァン君はわたしのこと嫌いなの?」
「好きに決まってるだろ!?」
ヴァン君は、しまったという顔をして俯いた。縮こまって震えている。
「す……好きだから、巻き込みたくないんだ……。だって、だって俺はミラが好きなのに、ミラまで俺のことを好きになれば、ミラも父さんみたいになっちゃうから……」
「それってシンバツの話? わたしも呪われるってこと? でも、わたしは何にもなってないよ?」
「……確かに。なんでだろう。愛し合ったら呪われるって、母さんは言ってたのに」
「じゃあ、シンバツなんてウソだったんだよ!」
ヴァン君の手を握る。ヴァン君はやっと顔を上げてくれた。
────神罰が下らない理由として上げられる、もう一つの可能性。当時のわたし達は、そのことについて考えもしなかった。信じたいことだけを信じていた。
それからヴァン君は、意地悪なことはあまり言わなくなった。
そしてわたし達は、いつ孤児院を追い出されてもいいように準備をすることにした。追い出されても、二人でいられるなら何も怖くなかった。
わたしは森で摘んできたお花を売って、お金を稼ぐことにした。ヴァン君は読み書きや計算ができるので、写本や代筆でお金を稼いでいた。
ヴァン君はそういうことをお母さんに教わったらしい。わたしも勉強をヴァン君に教えてもらったけど、あんまり好きじゃないということだけわかった。
十三歳になって、わたし達は自立を言い渡された。お上品にふるまえないわたしと、“娼姫”の息子のヴァン君は、どこのお金持ちにも気に入られなかったからだ。
「どうせ俺達を引き取るような奴がいたって、ろくでなしに決まってるよ」とヴァン君は口癖のように言っていた────だからわたし達は、自分が誰からも必要とされていない事実から目を背けることができた。
わたし達は大きな街に行くことにした。二人で一年間貯めたお金があったから、路銀としばらくの間の生活費はぎりぎり足りる計算だ。
辿り着いたのは王都だった。大きな街だから、いつでも人手を募集していた。わたしはすぐに、小さな食堂の給仕として雇ってもらえた。店主さんもほかの従業員さん達もいい人ばかりだ。目立つ黒髪は客寄せにちょうどいいと言ってくれた。
ヴァン君は魔法学校の試験にあっさりと合格した。特待生だから、お金は必要ないらしい。そこでもやっぱりいじめられてるみたいだったけど、ヴァン君は何も言わなかった。
だからわたしも、何も言わなかった。ヴァン君は隠せていると思っているみたいだったから、それに合わせて知らないふりをした。
────“娼姫”も魔法学校の特待生だった。そのせいで彼はいじめられていたのかもしれない。
────認めよう。いつまでもヴァン君の人生に影を落とし続けるあの女のことが、わたしは心の底から憎かった。
────当時はそんな感情、気づきもしなかったけれど。
わたしとヴァン君は、当然のように二人で暮らしていた。そのほうが家賃が安かったし、ヴァン君は勉強以外のことがほとんどできないからだ。目を離すと家の中はすぐにぐちゃぐちゃになる。放っておいたら本に埋もれて干からびていそうだった。
もともと孤児院でもずっと一緒だったから、二人で暮らすことに違和感はなかった。だけど、兄妹でも恋人でもないと言うと、周囲は変な顔をした。
「ねえヴァン君。わたし達って、付き合ってるのかな」
ようやく訊くことができたのは、ヴァン君の十六歳の誕生日だった。ただの友達だという説明が、そろそろ通用しなくなっていた。
わたしの友達の多くが、ヴァン君のことを素敵だと言っていた。「ただの友達なら、応援してくれるよね?」その時、わたしは何も答えられなかった。答えられないのが嫌だった。
わたしの問いかけに驚いたのか、ヴァン君は食べていたハンバーグを喉に詰まらせた。半熟のベーコンエッグを添えたハンバーグはわたしの得意料理だ。今日のごちそうに食べたいものを聞いたらリクエストを受けたので、腕によりをかけて作った。
解毒魔法の応用がどうたらで、ヴァン君はお金をたくさんもらったり、まだ学生なのにもう国の研究所に出入りしたりしていた。
でも、難しいことはわたしにはわからない。わたしにとって重要なのは、ヴァン君がいつかの約束を守ってくれたから、そのおかげで半熟のたまごをたくさん食べられるということだけだ。
ヴァン君は水をぐびぐび飲み干した。真っ赤な顔のヴァン君は、わたしから目をそらさないで答えた。ヴァン君の緑の目はきらきら輝いていて綺麗だから、ずっと見ていても飽きなかった。
「俺はずっとそのつもりだったけど」
手にしていたフォークをうっかり取り落としてしまった。でも、それは聞き間違いじゃなかった。
その日から、わたしは堂々と彼を恋人と呼べるようになった。
*
最近、道を行く幸せそうな家族がよく目に止まるようになった。わたしに家族はいないし、できると思っていなかったから、これまでは見ないようにしていたのに。
「ねぇヴァン君。ヴァン君は自分の家族のこと、覚えてる?」
手を繋いで隣を歩いていたヴァン君は、わたしが何を見ていたかすぐに気づいたらしい。
「覚えてるよ。母さんは綺麗な人だった。父さんは……お酒を飲んでは俺と母さんを殴ってた思い出しかないな」
「ふぅん。家族って、いると楽しい?」
「さあ。母さんと父さんはいつも喧嘩してたし、父さんは俺をいないものみたいに思ってたから」
「本当に、ヴァン君のお母さんとお父さんは愛し合ってたの?」
とてもそうは信じられなかった。だから尋ねてみると、ヴァン君は自嘲気味に笑った。
「それが神罰なんだよ。父さんにとっては、愛した人を憎む呪い。母さんにとっては、愛した人に憎まれる呪い。父さんは母さんとの幸せな思い出を忘れて、好きだったはずのものまで全部嫌いになっちゃったのさ」
不意にわたしを握る手に込められた力が弱くなる。ヴァン君は不安そうに視線をさまよわせていた。
「でも、だからこそ母さんは父さんに愛されてたことを忘れられなくなった。父さんの愛が本物だって呪いのせいで証明されたから、それに縋るしかなかったんだ。……だからかな。母さんはいつでも笑ってたよ」
────最愛の人に殺されるその瞬間も、きっとヴァン君のお母さんは笑っていたはずだ。だって、ヴァン君がそうだから。
────最愛の人を手にかけて、やっと正気に戻った時の絶望。ヴァン君のお父さんが味わったそれは、他人事だとは思えない。
「母さん達は“真実の愛”を信じて神を虚仮にしたんだ。そんな二人が“真実の愛”に殺されるなんて、最高の皮肉だろう? 俺は、そんな二人の血を引いてるんだ」
頭が痛い。知らない声が響くせいだ。これは、わたしの声?
わたしの最愛の人。そんなの決まってる。だけど、どうしてわたしは知ってるの。ヴァン君のあの笑顔を。あの赤色を。どうしてだっけ。
「ミラは、子供がほしい?」
「んー……まだわかんない」
通り過ぎていく親子は、幸せそうに笑っていた。
ヴァン君とわたしの子供って、一体どんな子なんだろう。
「俺にも母さんと同じ呪いがかけられてるはずなんだ。ミラは平気みたいだけど、俺達の子に呪いが受け継がれるかもしれない。だから、この呪いを解く方法を絶対に見つけるよ」
そしたらその時は、俺と結婚してくれる?
────もしも時間が何度巻き戻ったとしても、わたしの答えは変わらない。だから、行き着く結果も変わらない。
*
ヴァン君は、やると言ったことは必ずやってくれる人だ。神罰から解放される方法も、ヴァン君はきちんと見つけてくれた。
「俺が死ねばいいんだ! だって母さんを殺した後、父さんは正気に戻って自殺したんだから!」
今日もヴァン君は一心不乱に机に向かう。積まれた本も、ペンを走らせるノートも、わたしには理解できない魔法の話が書いてある。わたしは待つことしかできなかった。
「その時俺はもう産まれてた。だから俺は呪われたままだ。でも、子供が産まれる前にこの呪いを解けば、きっと呪いは受け継がれない。起点がないなら広がらない」
ぶつぶつ呟くヴァン君は、傍でお茶の用意をしていたわたしに気づいた。ヴァン君は愉しそうに笑って言った。
「待ってて、ミラ。必ず成功させるから。この魔法が完成すれば、きっとうまくいくはずなんだ」
わたしと結婚するために、わたしと新しい家庭を築くために一生懸命になってくれるヴァン君。そんなヴァン君のことがもっともっと好きになった。
ヴァン君の本が溢れ返るから、わたし達は下宿を引き払って借家に越した。新居の場所も二人で決めた。少し街から離れているけど静かで窓からの眺めがよくて、わたしは一目で気に入ってしまった。いつか子供ができてもいいような、広い家だった。
学校を卒業したヴァン君は、国の研究所に勤めるようになった。お給料をたくさんもらえるけれど、家にいる時間が減ったので、わたしが家にいることにした。いつヴァン君が帰ってきても、おいしいごはんを用意できるようにしたかった。
「いつもありがとう、ミラ」
ヴァン君はいつでも笑ってくれる。「好きだよ」とキスをしてくれる。きっと本当は、「ミラは本当に、俺のことが好きなの?」って訊きたいはずなのに。
だってわたしも訊きたいから。「ヴァン君は本当に、わたしのことが好きなの?」って。
呪いはちっとも発動しない。愛し合ったらいいんじゃなかったの?
わたしがヴァン君を嫌いになることなんてありえない。でも、ヴァン君は呪いに苦しめられた両親の姿を知っている。あれこそ愛だと彼の心には刻まれているはずだ。同じ呪いを受けた彼にとって、穏やかなだけの愛はまやかしに思えて当然だろう。
ヴァン君は気づいてない。時折昏い目をしてわたしを目で追ってることを、まるで自覚していない。
だけどわたしは、たとえ演技でもヴァン君にひどいことを言えなかった。どうしよう。このままじゃ、ヴァン君に嫌われてしまうかもしれない。心を疑われて、捨てられる。そんなのいやだ。
「ミラ、待たせてごめんね。その分、絶対幸せにするから」
ヴァン君が跪いて指輪を差し出した時、わたし達は十九歳になっていた。
わたしにこの指輪を受け取る権利はあるんだろうか。わからない。わからないけど、断れなかった。
だって、ヴァン君がくれたんだから。少なくとも、この瞬間の彼はわたしを受け入れてくれている。彼を呪えないわたしでも。それが嬉しかった。
もともとずっと婚約していたようなものだから、結婚式はすぐやることになった。
「呪いを解くのは簡単なんだ。ただ、君に負担を強いることになる」
「どうすればいいの?」
「俺を殺してほしい」
わたしの顔がこわばったのがヴァン君にも伝わったらしい。ヴァン君は慌てて付け加えた。
「心配しないで。俺は自分に蘇生魔法をかけておくから。この蘇生魔法を構築するのに時間がかかってさ、なかなかプロポーズできなかったんだよ」
ヴァン君は照れたように笑った。ヴァン君は蘇生魔法がどんな魔法か詳しく教えてくれなかった。
でも、とても難しい魔法だというのはわかった。ヴァン君がいない時に、こっそり本を読んでみたから。
ヴァン君の蘇生魔法は、死んだ人を無条件に蘇らせるわけじゃない。色んな条件を満たした時に、やっと生き返らせることができる。もし失敗したら……考えたくもない。そんな危険を察してしまわないように、ヴァン君はあえてぼかしたんだろう。
それに、もしうまく蘇生ができたって、呪いの証が復活しない保証はなかった。死んで呪いが消えて、生き返って呪いが戻ったら全部やり直しだ。何をしたって神様の裏はかけない、ということになってしまう。
ヴァン君を喪ってしまうのが怖くて、わたしはなかなかヴァン君を殺せなかった。ヴァン君は強要しなかった。「ミラの心の準備ができたらでいいよ」と言うヴァン君も、やっぱり怖かったのかもしれない。声は少しだけ震えていた。
そうだ……わたしが信じるのは、神様なんかじゃない。ヴァン君だ。
結婚式は、特別仲のいい人だけ招待した。みんなわたし達を祝ってくれた。ヴァン君の手の甲にある神様の呪いの証は、白手袋に隠されて見えなかった。今日ぐらいは呪いのことを忘れたかった。
その日の夜、わたし達は初めて結ばれて────朝がくると同時に、呪いが発動した。
思い出した。思い出した。
────神様は巫女姫に永遠の純潔を望んだ。けれど巫女姫は、自分を裏切って人間の手に堕ちた。
────神様は、そんな彼女の血筋に呪いをかけた。人を愛さないように。人に愛されないように。純潔を失った時に、それを捧げた人間をも巻き込む呪いを。
────神様の所有物を奪った人間も、等しく神罰の対象になる。真実の愛を謳って神様の寵愛を無下にしたから、真実の愛のせいで殺される。
────わたしはヴァンギール・エクセアの妻、ミラ・エクセア。ヴァンギールは見知らぬ他人なんかじゃない。十二年間苦楽を共にした、最愛の人だ。
結婚式の翌日、目覚めたわたしはその十二年間の記憶をほとんど失っていた。わたしの半生にはいつだってヴァン君がいた。いいようにつぎはぎされてねじ曲がった記憶は、ヴァン君をいないものとして扱ったけど。
まだ呪いを解く前だったから避妊こそしていたけれど、身体に残る違和感はごまかせない。
世界で一番嫌いな人に、強引に純潔を奪われた。そう思い込んで泣き叫ぶわたしを見て、ヴァン君はさぞ困惑しただろう。けれど、呪いが発動したとすぐにわかったはずだ。
逃げ出そうとするわたしを、ヴァン君は閉じ込めておくしかなかった。わたしの頭がおかしくなったと思われるのは明白だったし、呪いのせいだとわかれば引き離されてしまうかもしれない。十二年間の記憶がぐちゃぐちゃだから、うかつに一人にするわけにもいかなかったんだろう。
そして、彼は覚悟を決めた。わたしは解呪の方法すらも、忘れてしまっていたけれど。
「……ヴァン君……」
不意に視界が暗くなる。幻想の世界が消えていく。心の奥底に眠る記憶を辿る旅が終わる。これは、神様に奪われていたものを取り返すための追想だった。
大丈夫。わたしは、全部を思い出した。
「ミラ!?」
ずっとぼんやりしていた現実が視える。白い部屋だ。病院かもしれない。
車椅子に乗ったヴァン君が身を乗り出そうとして、後ろの白衣の人に止められていた。たぶん、ヴァン君の同僚の人だ。結婚式で見たことがある。
「おはよぉ……ヴァン……くん……」
「よかった……あのまま意識を取り戻さなかったら、どうしようかと……」
ヴァン君はわたしの手を取って泣いている。その手の甲に呪いの証はなかった。どうやらわたし達は、神様に勝ったらしい。
「ヴァンギールを撃ったあと、貴方は気を失ってしまったんです。それから目を覚ましたあとは、意識が混濁したような状態が続いていて。大体一日ほどでしょうか」
白衣の人は三人いた。光属性魔法の学者さんとお医者さん、それから看護師さんらしい。ヴァン君と一緒に蘇生魔法の研究をしていたという。呪いが発動したとヴァン君から聞かされてから、いつでも駆けつけられるように待機していたそうだ。
蘇生魔法の後遺症で、ヴァン君はまだ一人で立ち上がれないらしい。本当ならまだベッドで寝ていなければいけないところを、無理をして来ているとか。そのうち普通に歩けるようになるから心配はいらないそうだ。
ヴァン君の同僚の人達は、今後の簡単な説明をすると病室を出て行った。検査と経過観察の必要はあるけど、わたし達は数日で退院できるらしい。
自分で自分を蘇生したヴァン君は、光属性魔法のさらなる発展がどうたらでこれから忙しくなるそうだ。彼を殺したわたしが言うことではないかもしれないけど、病み上がりなんだからあんまり無理はしないでほしい。
「……ヴァン君。元気になったら、ヴァン君の料理が食べたいな。半熟のベーコンエッグがいい。いつの間に作れるようになったの?」
「卵を割って、ベーコンと焼くだけだからね。ミラが作ってるところを見て覚えたんだ。シチューとハンバーグは……あんまりうまくできなかったけど」
「ううん。わたしのほうこそ、ちゃんと食べられなくてごめんね。せっかくわたしの好きなものを作ってくれたのに、それも嫌いになっちゃった。……昨日……じゃないや、一昨日のハンバーグ、もう捨てちゃった? 温め直したら食べられるかも。昨日のベーコンエッグは?」
「やめておけよ。お腹を壊しても知らないぞ」
「えー? わたしがいろんなものを安全に食べられるようにしてくれるんじゃなかったの?」
「そこまで約束した覚えはないんだけど」
ヴァン君は笑いながらわたしの頭を撫でた。温かくて、優しい手だった。
身体を起こしてヴァン君に抱き着く。ちゃんと鼓動が聞こえた。当たり前か。ヴァン君は生きているんだから。
「ねえ、ヴァン君。呪いは解けたんだよね?」
「ああ。もうあの呪いが受け継がれる心配はないよ」
それなら、これからは安心してヴァン君を好きになっていいんだ。ヴァン君との子供がほしいって、ちゃんと言えるんだ。
憎めないことを悩んで、傷つけられないことを嘆かなくてもいい。ヴァン君に疑われていると怯えなくていい。ヴァン君の心を疑わなくていい。
────そんなことをしなくても、あなたを愛していると胸を張って伝えられる。あなたに愛されていると、胸を張って信じられる。