梅雨のこころ
前から随分空いてしまいました。
続きとなります。
よろしくお願い申し上げます。
「この戸は、もうこのままの方がよくないか?」
牙狼さんが唸る。
どうにも建て付けの悪い戸は言うことを聞かず、牙狼さんがどこからか大工道具を持ち出してきて二日がすぎた。それは、私がこのあばら屋に来て二日が経ったことも同時に示している。
外は相変わらずいい天気で、私たちが三人であばら屋の戸口の前に突っ立っているのは、ひなたぼっこなのか何なのかよくわからなくなっているようだ。
このあばら屋、陽が昇って外から改めて見てみたのだが、思っていた以上にボロかった。
細い路地を挟んで左隣には、やたらと大きな武家屋敷があったのだが、それがまたひどい。うち以上のボロ屋敷で、夜になれば幽霊だの何だのが闊歩しそうな有様だった。塀には大穴がぼこぼこ開いていて、入りたい放題だ。まぁ、その武家屋敷の井戸を勝手に借りられるから、ありがたいのだけれども。
牙狼さんに聞いたら、昔はそれなりの武家の屋敷だったそうだが、それが一気に没落してこうなったらしい。とは言っても、二人ともこのあばら屋にそう長く暮らしていないそうだから、どこぞの噂好きの町の人に聞いたらしいのだけれど。
右はもう町の終わりだから、なにとして言うべきようなものはなく、前も、うちと似たり寄ったりの物置があるだけ。畑のある裏庭の後ろも、やはり倉。倉とは言っても名ばかりで、二人がここに住み初めてから今までに、誰かが何かを取りに来たようなこともないらしいから、結局このあたりは、忘れ去られたというか捨ておかれたと言っても過言ではないような一帯にあたるらしい。殺し屋の家があっても、おかしくないと言えばおかしくないのかもしれない。
「それは・・・そんな気もしますね」
戸がはずれてからは、私も自由に出入りできた。周りの目もないし、何をしようと自由だし、と私は初めてに近い解放感を満喫していた。基本的に天狼さんも牙狼さんも、私に何かを強制したりはしなかったし、私はどちらかと言えば、三度の食事と掃除、そしてたまに縫い物なんかをやっていたが、それにしたってやらなければやらなくていいといった様子が見て取れた。もともとなかったものだから、必要に思わないのだろう。とは言え、ただ飯食らいになるのはまっぴらごめんだった私は、何を言われずとも、なんとか二人に必要そうなものを見繕っては、それを作ったりなおしたり、となんとか仕事を探そうと躍起になっているのが現状だ。
この間も、転がっていた着古した着物のズタズタになったきれっぱしをみつけ、牙狼さんの着物の擦り切れたところにあてたところ、非常に喜んでもらえてよかった。針と多少の糸くらいはもっていてよかったと、本当に思った。ここまで何もないとは思わなかったもの。
それにしても、このガタガタの戸がないことは、実際のところ非常に楽だった。
思わず牙狼さんの思いつきというか、妥協に同意。
「・・・不用心だな、おまえたち」
呆れの表情を隠しもしないのは天狼さん。
この人の生態は一言で言って謎。いつ寝ているのか、いつ帰って出かけているのか、例のガタガタがなくなって一気にわからなくなった。朝起きてもいないと思えば、次の日は朝から夜まで一日中いたり、と、わけがわからない。まぁ、登城してお勤めをするような仕事をしている訳ではないから、そういう意味で自由度は高そうだ。この生活が普通なのかも知れない。
けれど、なんだかんだで昼と夜のご飯は、毎回食べてくれていた。とはいえ、牙狼さんは三食食べるから、なんだかんだで天狼さんより牙狼さんの方が、この家にいる時間は長い。
昨日なんて、ぽいと私にチャラチャラ鳴る巾着を投げてよこし、市は西だ、と言ってよこした。食材を買ってこいということだろうが、巾着を開いてみて驚いた。こんな大金があるくせに、どうしてもっとまともな暮らしをしないんだろう、この人は、と思う程の額だった。保管に非常に困る。椿屋のときは、やはりある程度の大きさのお店だけあって、ご用聞きが来てくれていたから、実際にお金を握って買い物に行くのは初めてだった。
しかも、こんな大金は生まれて初めて持った。
ぽかんとしていたのだろうか、天狼さんはしばし私をなんとも言えぬ顔で見ていたけれど、結局ついてきてくれた。市にも初めて行ったし、買い物なんてましてや初めてだったことを天狼にはなしたら、妙に納得された。
結局魚とうちにない春大根を買ってきた。
今日の分まで煮物にしてあるから、また明日買い物に行こう。
さて、天狼さんは不用心だと言うけれど、こんなボロ屋に用心がいるだろうか?だって。
「天狼さん、もしですよ?中で火事があって、戸があってでられないのと、こんなあばら屋に夜盗や殺し屋が入ってくるのと、どっちがありえます?」
「・・・・・」
私の問いに、天狼さんは黙る。かすかに見上げるくらいの天狼さんの顔には、苦いものがあった。あれ、もしかして、勝った?
「・・・むしろ、殺し屋ここにいるしな」
牙狼さんのツッコミがさえ渡る。そう、ここの人口の六割以上が殺し屋だ。
だが冗談はともかく、実際のところこんなボロ屋に盗みに入る夜盗がいるだろうか?それよりも、ボロ屋特有のすきま風に行灯が倒れたり、蝋燭が倒れたりと、そういった可能性の方が大きそうだ。
「・・・今はいいが、冬は寒くないか?」
「もともとこのうち、寒そうですよ?」
「・・・・・」
あ、黙った。
腕組みをして鼻でため息。最近よく見るこの行動だが、天狼さんはがしがしと右手で後ろ頭を掻いた。
「まぁ、好きにしろ。俺は出かけてくる」
不意に下駄を鳴らし、天狼さんはきびすを返した。
負けを認めたのかどうなのか、よくわからないまま終了。好きにしろってことは、やっぱり私たちの勝ちかしら?
だが、そんなことを気にしている場合ではない。台所番として、聞いておかねばならぬこともある。
「お帰りはいつですか?」
「明日以降」
なんと簡潔な。というより、答えになっているんだか、なっていないんだか。
そう言い捨てると、本人は意に介さぬようにスタスタ歩いていく。道へ出て、ただの散歩だとでも言うように歩き去る。もう見えなくなってしまった。あの服装のままいくのだろうか。
「・・・仕事だ。仕事の後は足がつくことがあるから、すぐには帰らない。いつもそうだ」
「・・・?私が来たときは、すぐに帰ったけど・・・」
牙狼さんの小声の説明に、私は彼を見上げてきょとんとする。どうでもいいが、彼と話をするとき、いつも私は木に成っている柿と話をしているような気分になる。まぁ、仕事というのは、ずばり殺しのことだろう。そんなことをさらっと流せるようになったのはなんとも言い難いが、この生活に順応してきた証拠だと言えば聞こえが多少はいいいかもしれない。
「おまえが来たときは、おまえを引き連れてあちこち歩き回るわけにはいかなかったからだろう。実際、おまえを寝かせたあと、あの人はいろいろと見て回っていた」
「・・・」
そっか。
あの人、何も考えていないようでいて、実はすごくいろんなことを考えているもんな。なんだか、申し訳ないことしちゃった気分。
「・・・でも、お仕事で帰ってきたときくらい、ちゃんとおかえりなさい、って言って、暖かい食事を出してあげたいのに」
それは本心だ。だが同時に、お仕事と言うことで、私は何かを忘れようとしているのを自覚していた。
そんな私をよそに、牙狼さんが教えてくれた。
「・・・だいたいいつも、二日もすれば帰る」
「ほんとう?」
こっくりと、牙狼さんはうなずいた。
じゃぁ、二日後が目安か。
「よし、なら明日のお買い物は控えて、明後日に新鮮なお魚買ってこようっと。そうだなぁ・・・」
何の魚にしようかな。やっぱり、顔見てから焼き魚かな。干物もいいけど、やっぱり新鮮なやつがいいかな。あとはお吸い物もいいし。
作った食事を、おいしいと言ってもらうことには慣れていたと思ったのに。
なんだかんだ言って、椿屋の旦那様は私を愛人みたいな扱いにしていたから、言葉だけはやたらと甘かった。けど、あいつに言われる「おいしい」とか、「おまえの料理は天下一品だ」とか言われるのよりも、天狼さんのごく希な「悪くない」とかや、牙狼さんの「うまい」の連発の方が、よほど嬉しいのは不思議だ。牙狼さんはまだしも、天狼さんなんてほとんどなにも言わないのに。まぁ、たまには言ってほしいけれど。
「刹那は毎日楽しそうだな」
「そうですか?」
私が思案しながら、裏の畑に出て雑草を抜くのを見ながら、牙狼さんが笑う。
「楽しくないのか?」
「ううん、楽しいですよ」
そう、それは本心。まったくの。
「そうか、・・・刹那」
「なんですか?」
すっかり、この刹那という名にも慣れた。おそろしいほどに、この刹那という名は私にとってあるべきところに収まってしまった。いとも簡単に、私は刹那なんだと納得し、かつ満足できる。不思議だ。
私は足元の雑草をむしった。
結構この雑草という奴はしつこく生えてくる。ぺこぺこ抜いていっても、すぐに次の日にはぽこぽこ生えてくる。これ、そのうち殺意を抱きやしないかしら。
「・・・おれが、怖くないのか?」
あー、前にも天狼さんに聞かれたな、それ。
「怖くないですよ?だって、牙狼さんはこんなに優しいじゃないですか」
「・・・」
黙った牙狼さんに、私は逆に問う。
「それ、天狼さんにも聞かれましたよ、俺が怖くないのかって。なんでかなぁ?」
「・・・」
そりゃぁ、喉に刀突きつけられれば驚くけれど、私はもう死ぬ覚悟を決めた。それなら、もう死なんて怖くないはずだもの。そういう意味では、私にいま怖いものはないのかしら。
「・・・変な人だな」
「うーん。それも天狼さんに言われました」
どうしてか、牙狼さんがふと泣きそうな顔になった。どうしたんだろう?ていうか、私のせいか?
「ご、ごめんなさい、なにか気を悪くさせるようなこと・・・?」
「いや、違うよ」
かぶりをふると、牙狼さんは笑い、ふと私の頭を、釜の蓋ほどもありそうな手でもってぽんと撫でた。
「わっ」
たぶん、本人は相当力をいれずにやってくれたのだろうけれど、私にしてみれば大問題だ、ちょっとびっくりした。
「あんたは、いい人だな」
「変な人だったんじゃないんですか??」
ちょっとからかえば、牙狼さんは笑う。
「そうだったな」
柔らかく笑い、私のよこに腰を下ろすと、牙狼さんも草むしりを始めた。
「・・・刹那」
「はい?」
「さん、はいらない」
「ふえ?」
三はいらない?雑草三つ要らないってこと?
私がどうしようもないぼけをかましていると、牙狼さんは続けた。
「牙狼、でいい。敬語もいらない」
「・・・」
そういうことか。
でも、本当にいいのかな。
けど、私を見つめる目が、すごく真剣だったから、私は笑ってうなずいた。
「わかった。よろしくね、牙狼」
「あぁ、改めてよろしく」
いい天気だった。
***
天狼さんが帰ってくるらしい日。
予定通り、朝のうちに市に行って、ちょうど仕入れたという鰆を買ってきた。がんばって交渉してやすくしてもらって、私はご機嫌だった。こんな経験もはじめてだ。
私と同じように、今日の魚を求めての人たちかと思ったら、案外女の人は少なくて、ほとんどが魚売りの棒手振りさんたちだった。みんなやっぱり長屋住まいだとか、お武家さんとかだと、棒手振りさんの方から行くらしい。お得意さまだものね。かく言う椿屋だってそうだった。
棒手振りさんたちの天秤棒につるされた魚入りの桶をよけながら、私は買った鰆を抱えて帰ってきた。まるまる一匹の鰆が二匹を持って帰ってくるのは大変だった。結構重かったけれど、牙狼だったら一匹軽く消費するだろうから、がんばった。・・・うん、実際結構きつかった。
「さーて、さばくかっ!!」
やたらと気合いを入れて、私は鉋で削ってマトモな状態にしたまな板の前に立つ。ついでに包丁も研いだから、よく切れる。このあばら屋には何もないのに、鉋やら砥石やらを、牙狼はどこから持ってくるのかと思っていたら、隣の武家屋敷跡からだということだった。近所にはあまり人は住まっていないし、やたらと廃墟で薄気味悪いから、悪党の類も入ってこないのだという。だからいろいろな道具が残っているらしい。
町が違うと、雰囲気もぜんぜんちがう。椿屋からはかなり離れているから、見つかる心配もなさそうで、私は想像すらしたことのないような自由を満喫していた。
「・・・なにしてるんだ?」
「ん?鰆さばいてるのよ?」
不意に牙狼が、私の手元をのぞき込み、眉を寄せる。
「これ、切ってるみたいだが・・・焼かないのか?」
「焼くけど、丸焼きにするには、腑が大きいでしょう?」
「・・・」
「・・・?」
なんだか、わからない顔をしている。・・・もしかして・・・と私は一つの可能性を覚えた。
「牙狼、もしかして、焼き魚って丸ごとだけだって思ってる?」
「・・・違うのか?」
あはは、やっぱりかー・・・。
私は多少がっくりしながらも、仕方ないか、と納得する。この身長と仕事じゃぁ、そう簡単に店に入ることもないだろうから、知らなくて当然かぁ・・・。なにしろいろんな意味で牙狼は目立ちすぎる。しかし、幼少の頃はどうだったんだろう?けど、聞ける雰囲気じゃない。
「あ、でも鰻は焼いてあるがまるごと一匹じゃないな」
「でしょ?鰻食べたことあるんだ?」
「前に、天狼が土産にくれたことがある」
なるほど。でも実際、牙狼くらい食べる人がいちいち店で食事してたら、たぶん財布の方も日々軽々と過ごせるに違いない。
「いろいろと料理方法があるのよ。ま、見てなさい!おいしいの、作ったげるから!」
襷をぐいと締め直し、私はまた鰆へと挑んだ。
天狼さんが帰って来たのは、夕方だった。
無くなって久しい戸に悲しげなため息をつき、無言で入ってくる。声くらいかけろと言いたくなるが、台所で仕事をしていた私にはすぐにわかったから、まぁよしとする。
もうお米も炊けてお味噌汁も出来て、さっき豆腐屋へ行って買ってきた豆腐も準備できているし、何より丁度鰆を焼いていたところだから、本当にいい時に帰ってきてくれた。
出ていったときの服装のままで帰ってきたから、お仕事をしてきたのかと疑問に思ったけれど、とりあえず挨拶。
「おかえりなさい!」
「・・・あ、あぁ」
振り返って言えば、一瞬驚いたような顔をして、しばし逡巡した後、天狼さんは手元の二つの包みのうち、ひとつを開いた。
「なんですか?」
「・・・また、血抜きを頼めるか。一応、水洗いはしてあるんだが・・・」
「二日前の血抜きかぁ・・・大丈夫だとは思いますけど、これくらい濡らしてあるんなら。やってみますね」
受け取って、私は状態を見てみた。あぁ、例の墨染めの着物だ。一部がぐっしょり濡れていて、若干生臭い。まぁ、大丈夫だろう。桶でぬるま湯につけて置いて、夜にでもやろう。あとはにおいを落とさないとなぁ・・・やっぱりすぐに洗いたいものだ。
というか、血抜き、気に入ったのかな?
聞いてみると、あっさりと答えが帰ってきた。
「ああ」
素直にうなずく天狼さんに、私は苦笑する。
「それと・・・おまえが好きかは知らないが」
「?」
天狼さんが、もう一つの包みを開いた。中からは、おいしそうな醤油の焦げたにおいと、甘い匂い。
「あ、お団子だ!」
そこには、三色団子と焼き団子、それからきな粉団子がたくさん入っていた。
「土産だ」
ぶっきらぼうに突き出すそのつつを、私は受け取る。
「ありがとうございます!あとでみんなでいただきましょうね!」
「・・・あぁ」
表ではちゃんと返事できていたけれど、内心はぽかんと口をあけたままみたいな状態だった。
天狼さんは本当にわけのわからない人だ。
冷たいのだか、暖かいのだが、優しいのだか・・・いや、たぶん優しいのだのけれど、その分彼の仕事内容が引っかかってしまう。でも、まぁいいか。
というか、血だらけの着物と一緒に土産だといって団子を出すあたりのズレてる感じが、またこの人をいっそう理解させにくくしているのだと思うけれど、ま、仕方ないだろう、たぶん。
それよりも。
「お湯沸いてますから、また手ぬぐい出しますか?」
「・・・頼めるなら」
「頼めないなら、こんな提案してませんよ」
苦笑しながら、私は沸かしておいたお湯を桶に汲むと、水瓶から汲んだ水を混ぜて、丁度いいくらいの熱さにして、干しておいた手ぬぐいと一緒に渡した。
「はい」
「・・・すまない」
天狼さんはそれだけ言うと、部屋に引っ込もうと土間から板の間に上がった。そして、そのまま立ち止まる。
「刹那」
「?」
「俺が、怖くないのか?」
振り返りもしないで、天狼さんが問う。というか、またこの質問か。
「だーから、怖かったらこんなとこで魚焼いてませんって。今日のお夕飯は鰆ですよ。大丈夫でした?」
「・・・大丈夫だ」
あ、変な女、が出なかった。
ただ了承の意だけを示す天狼さんに、私は首をかしげつつまた鰆の様子を見にもどった。
「天狼、帰ってきたのか」
「うん、今ね」
勝手口の方から、牙狼の声だけが聞こえた。それに声だけで応じておいて、私はまた火加減をいじる。
「さてと」
牙狼の膳が一番厄介なんだよね。重いから。
よそうだけよそって、あとは牙狼に運んでもらうのがいつもの流れになっている。
切り身にして焼いている鰆を、一匹分が牙狼、四分の三が天狼さん、残りが私、という風に割り振って、私は皿に盛っていく。うわ、やっぱり一匹分は迫力あるわ。
なにげに天狼さんも量を結構食べるから、いつもこの家の食卓はにぎやかというか、迫力があるのだ。
天狼さんの膳を用意していたところで、丁度障子があいた。本当に、この人は全部計算して行動しているのではないだろうかとたまに思う。というか、実はこの人、すごく頭がいいとか、そういうオチだろうか。・・・あるいは、ただ単にカンがいいとか、ご飯のにおいに敏感とか、そんなんなのかもしれないが。
「丁度できましたよ」
「・・・捨ててくる。先に食っていてくれ」
手の桶を示して、天狼さんは勝手口からでていった。
勝手口からでて残り湯を捨てるだけでどれだけ時間をかけるつもりなんだろう、先に食べていろなんて。やっぱりあんまり考えてないかも。
まぁいいや。とりあえず。
「牙狼ー、自分のお膳運んでー!」
「む」
かるくうなって、牙狼が入ってくる。私では当然びくともしないお膳が軽々と移動する。
天狼さんの分はふつうより少し多いくらいだから、私が持っていく。そんなときに、案の定天狼さんが入ってきた。
「・・・」
「じゃ、いただきます」
私の膳も用意して、手をあわせる。
久方ぶりの三人の食卓である。
「・・・これ、なんだ」
天狼さんが、箸でちょいと鰆をつついた。
「鰆ですよ。さっき言ったじゃないですか」
「・・・さかな」
「さ・わ・ら」
「・・・ふぅん」
興味があるんだか、ないんだか。
まぁ、ぱくぱくとそのまま口に入れていくのを見ると、気に入ってくれたのだろうか。気に入ってくれたのならいいのだけれど。
本当にこの人はわからない。
というか、ウナギみたいだ。ぬるぬるしていて、つかめない。塩でもかけたらつかめるようになるのかしら。
「刹那、うまい」
そんな私を気遣ってくれてか、牙狼が言う。あー、本当に牙狼って良い人って思う。こういうときに特に。
「よかった。たくさん食べてね」
「む」
・・・三人そろったからと言って、とくに話すことはない。無言の食事が続く。
けれど、今まで、私はどうやって食事をしてきただろうか?
ふと、思う。
なのに、不思議と何も思い出せない。
今まで、私はどういう生活をしてきたのだろうか。
・・・そう、旦那様がいて、若旦那がいて、椿屋は布を扱うわりと大きな店で、それで・・・・。
すべてがもう、遠い昔のことのようで、私はふと自分が誰だかわからなくなる。いや、誰だか、というよりもむしろ、何だかわからないと言った方が、しっくりくるかもしれない。
「・・・刹那、どうした」
「!」
天狼さんの声で、現実に戻ってきた。
いけない、ぼんやりしていただろうか。
「疲れたのか」
「い、いいえ。そうじゃなくて・・・」
うわ、説明しづらい。けれど、私をまっすぐに見つめてくる天狼さんの目がなんとも深すぎて、私は一瞬だけ動けなくなる。蛇ににらまれた蛙?って、こういうのかなぁ?
「・・・ただ、昔、私どうやって食事してたかなぁって・・・」
「?」
素直にそう言えば、牙狼が首を傾げた。猫背気味の彼がそうすると、なんとも微妙な姿になる。それに苦笑すると、天狼さんがふと目をそらした。
「・・・昔が、良いか?」
「覚えてないんです」
「・・・」
天狼さんの言葉に即答すると、鰆の最後の切り身を口に入れながら、天狼さんはちらりと目だけで私を見た。このちらり、が天狼さんの癖だ。
「なんか、今の暮らしをずっとしてた気がして・・・おかしいですよね。まだ数日しか経ってないのに。けど・・・」
ふつうに考えれば、きっと奉公人同士で食べていたのだろうとは思うけど、そこで何を話していたのかとか、ほとんど覚えてない。
椿屋のお台所でどんな料理を作っていたか、とかだったら覚えているけれど、そういった生活については、ほとんど覚えてない。なんなんだろう。
「なんだか、不思議な感じですけど・・・あ、それより、天狼さん」
「・・・なんだ」
思いついたときに聞いておかないと、と私は箸をおいた。
今思ったけど、あぐらをかいて椀、箸を持つ手をその膝について、とかなり行儀の悪いことになっているけれど、その背もかなり猫背だ。長い髪はいつも通りにゆるく縛って前に垂れているから、か、よけいにどこかだらしなく見える。いや、どこか、どころじゃないな。
「お釜の蓋、買っていいですか?」
「・・・ことわりが要ることか、それ」
「えー、一応・・・」
だって、一応ただ飯食らいだし、それに、ぽいっと預けられたお金だって、食費には使うけれど、ほかのことに使うには気が引ける。
ましてや今まではみんなこの釜で炊いていたわけだし、今だって手ぬぐいでなんとかしてるし・・・まぁ、そんなにおいしくないけど。
「好きにしろ。おまえがここの台所番だろう」
あはは。台所番か。
思わず苦笑がでる。まぁ、仕方ない。それよりも、とりあえずお釜の蓋を買う許可がでたことを喜ぼう。
「じゃぁ、明日買ってきます。ずっとお米がおいしくなりますよ!」
「ほう」
「そんなに大切なのか、蓋・・・」
思い思いのことをつぶやいているが、いろいろとつっこみどころが満載だ。まぁこの二人の生活能力に関してはいろいろと問題があるので、その分は十分に考慮しなきゃならないと思う。
「天狼さん、明日はうちにいますか?」
「んー・・・明後日は仕事だが、明日はいる」
「そっか、じゃぁまた朝市行ってー・・・それから蓋買ってー・・・」
明日の予定を考えはじめると、天狼さんはなぜだろう、くすりと柔らかく笑った。
「っ」
どきっとする。意外すぎる一面に、私は正直おどろいた。あんな顔をして笑うんだ、とかなり意外。こんなことを言ったら、天狼さんは結構いやな顔をしそうだけど。
まぁ、とにかく。
私は鰆の最後の一切れを口に入れた。見れば、もう牙狼の皿は綺麗にからになっている。うわー、豪快!むしろ気分がいい。
「牙狼、足りてる?」
「む、大丈夫だ。ちょうどいい」
おそるべし牙狼の胃袋。足りなかったら悪いからたびたび訪ねているが、どうやらだいたいいつもちょうどいい、という返事が多い。今日もよかった。
そんなときだった。
「・・・あれ?」
なんだろう、音がする。
「雨だろう。おまえたちが戸板をはずすから・・・」
ぶつくさと文句が聞こえる。そうか、雨の音か。
そこまで思って、天狼さんの文句の意味を唐突に理解した。そっか、戸板がなかったら、思い切り雨が入ってくる!
「どうしよう・・・」
「大丈夫だ、刹那」
「牙狼?」
いきなり牙狼が立ち上がると、その辺に放り出してあったらしい戸板を担いでやってきた。
「どうすんだ、それ」
呆れたように問う天狼さんに、牙狼はにやりと笑い、その戸板を、本来戸のあるべき場所に、なんと立てかけた。
「なるほど」
「おー・・・」
立てかけて・・・それで終了。
なんとも安易な、でも使える方法。
「牙狼、さすが!」
「ふふん」
得意そうに牙狼が鼻をならす。
そんな牙狼に、天狼さんは笑った。
「雨か、これから梅雨だから、戸板もござも入り用だろうよ」
「そうですね」
炎のはぜる音と、雨の音。
混じり会う二つの音は、この上なく私たちをゆるませた。
「明日は、晴れるかなぁ・・・」
市に行くことを考え、私はぼやく。天狼さんが、小さく「さぁな」と応じる声も、夜の闇に溶けていく。あんどんの暗い明かりが、ぼんやりと瞼を刺激した。