死んで、生きる
続きです。
「ん・・・」
目をあける。なんだかまだ寝ていたいけれど、旦那様に折檻されるのは勘弁してほしい。だったら、多少眠くとも起きた方がいい。
おみちさんはもう起きているだろうか。
早く着替えて、顔を洗って・・・、そろそろ水瓶が空だったから汲んで・・・って、あれ?
「・・・なんで着物のまま・・・?」
寝巻きに着替えるのを忘れてました、なんてオチはいやだ。そこで、さらなる異常に気づく。
「・・・ここ、どこ・・・?」
見慣れない、あばら屋と呼ぶにふさわしいぼろぼろの天井・・・天井に空いた穴からは屋根の骨組みがそのまま露出しているのが見えた。板張りの床には穴。屋根の裏と床のシミを見ると、雨漏りもあるようだ。あげく、見慣れない蒲団と合わせに、蝋燭。傍らには私の、・・・旅にでも出るような荷物。
立ち上がり、着物のしわと帯を整えて、障子をあける。
見慣れない囲炉裏のある板の間と、土間。
狭い。
そして、思い出す。
「・・・そっか・・・」
私は、椿屋を出てきたのだ。
昨日の・・・異様な昨日の出来事を、すっぱり一刻で忘れられるのだから、私もなかなかいい頭をしている。いや、異様すぎたから頭が記憶するのを拒んだと言ってもらった方が心が楽かもしれない。
男はどうやらいないようだ。昨日寝入りばなに出ていったのを聞いていたが、あれから戻っていないのだろうか。
「あっと・・・いけない。朝ご飯・・・」
男を思い出して、昨日男に言われたこともついでに思い出す。朝ご飯は私を入れて五人前だと言っていた。今日誰か来るのだろうか?朝っぱらから・・・。疑問に思いつつも、私は台所を物色し始めた。
障子ごしの光を見ると、どうやら明六ツを少しすぎたくらいだろう。いくらも寝ていないというのに、習慣というのはおそろしいものだ。
明るいから、昨日よりもよく見える。よく見えるということは、ボロさ加減もよく見える。これからここで煮炊きするのだから、なんとか少しでもできる補修があったらしておきたい。なんだここ、化け物屋敷か?
そこで、ふと思う。
そう、私はこれから、ここで暮らすのだ。
男がここに連れてきてくれたのだから、ここにいて良いということだろう。後悔なんて、していない。
よし、と気合いを入れて、改めて目の前の惨状を睨み据える。
竈には派手なヒビが入ってるし、釜の蓋にも見事な裂け目。桶はやせていてガタガタだし、まな板もギタギタだ。おまけに、棚に積まれた最下段の土鍋には蜘蛛の巣。ご丁寧に家主まできっちりおいでになって、赤や黄色の鮮やかな足をひくつかせている。この家よりも豪華なんじゃなかろうか。
というか、誰か、最近ここで料理をしたことがあるのだろうか。あ、でも釜と数個の鍋は大丈夫だから、それしか使っていないとか、そういうオチもあるかもしれない。
続いて棚を漁っていて、米を発見。これは問題なさそう。味噌桶の中に味噌と、壷に醤油を見つけ、とりあえず今日は味噌汁が作れそうだと一人うなずく。
五人前か。とりあえず、釜を洗おう。
そう思って、私はうっとつまる。あの戸、昨日びくともしなかったんだっけか。
一応、試してみようと戸の前に立つと、隅に水瓶があるのがわかった。蓋をとってみると、ちゃんと水が入っている。柄杓で掬って指にとってなめてみると、ちょっと塩気があったがちゃんとした水だった。そうよね、と私はひとりごちた。ここまで町からはずれてしまえば、町の方では完備されている上水道が使えない。どうしても庶民の水は、塩気を含んだものになってしまう。
私はその水でもって釜を洗った。洗った水をどこへ捨ててくれよう・・・と悩んで、結局適当な桶に入れておいた。あとで居間から障子を抜けて外へでよう。戸が開かないのは本当に困る。どうにかしてほしい。
米櫃から、適当に五人前米を移した。あとは米を炊いておいて、その間に味噌汁を作ろう。具はどうしようか・・・そんなときだった。
例の戸のガタガタが聞こえ、私は振り返った。あの男だろうか。そして、ぎょっとして持っていた釜の蓋を取り落とした。ごいん、と戸に負けぬ音が響く。
だって、逆光でもって黒く浮かび上がるその影は、あの男の背にちょっと余裕があったくらいの戸口の一番上に、ようやく肩の下しかこないほどの、大男だったのだから。
「・・・・」
ぬ、と身を屈めて、大男が入ってくる。体を窮屈そうにくの字に折って、大男は無言で入ってきた。
天井がないのは、彼のためかもしれない。
この人が、男が言っていた同居人だろうか。
「・・・あんたが・・・天狼が言っていた女か・・・」
「え・・・?」
いきなり問われ、私は固まる。
「おれは牙狼。天狼の部下だ」
あぁ、やはり彼が同居人のようだ。大男で、牙狼。情報とは合う。
「私は秋です。よろしくお願いします、牙狼さん」
てんろう。あの男の名なんだろうか。天狼とは、空に浮かぶあの星の天狼星のことだろうか?だが、とりあえず。
「あの、天狼さんって、ここに住んでいる男の人のことですよね」
こっくりと、牙狼さんはうなずいた。
「天狼は滅多に自分から名は言わないから」
「そう、なんですか・・・」
私はうなる。言わないからったって、どう呼べばいいかわからなかった私の昨日の葛藤を返してください。しかも、質問は嫌いだとかなんとか言って。
「今日は、朝飯の支度は要らないかも知れない、と言われたが」
「・・・かも知れない?」
「女が起きなかったら、おまえが作れと」
「・・・」
何なんだろう、優しい?のか?それとも放っておかれているだけなのか?
「その心配は無用だったようだな」
「えぇ、一応起きました・・・けど、今お味噌汁の具はどうしようかと思って・・・」
「裏に畑がある。そこに菜物が植わっているから、いつもそこから作る」
「裏・・・畑?」
うぅ、また戸か。
すると牙狼さんは、察したように立ち上がると、バキバキと派手に戸をあけてくれた。しかも、昨日入ってきた方ではない方の戸、つまりは勝手口だ。やはりこっちもだ。昨日のは聞き違いでも勘違いでもない。
「ここからの方が近い。・・・戸はそのうちなおしてやる」
「あはは・・・是非そうしてください・・・」
私は乾いた笑いを浮かべ、あけてくれた戸から外に出てみた。
「・・・・・・」
久しぶりのお天道さまに思えた。梅雨時なんて、もっとお天道さまが見えない日も続くのに、なんでこんなに懐かしいように思うのだろう。あばら屋の中にいたときにも、陽が昇ったのはもちろんわかっていたが、やはり直接に陽の光を浴びるのとは全く違う。
私はしばし目を細め、改めてあたりを見回してみた。
確かに、畑がある。ふつう町中の家には、どんなに小さくとも畑なんてないのに。もうここら辺は、どちらかと言えば田舎の集落に近いのだろうか。小川が近くにあり、その向こうには林というか、森が広がっていることを思えば、それも当たらずとも遠からずと言った気もしないでもない。
示された畑には、適当に菜っぱが植わっていて、うん、確かに今日の具にはちょうどいい。
牙狼さんがまた身を屈めて外に出てきた。なれた手つきで菜をとって、ざるに盛って私に差し出した。彼の手にかかると、なんでもかんでも人形の道具のように見えてくる。物の対比って大切なんだと妙に実感する。
「今日、お客様が来るんですか?」
受け取りながら、私は昨日から気になっていたことを聞いた。
「何故?」
「天狼さんが、今日の朝ご飯は五人前作っとけと仰っていたので・・・」
私の問いに、牙狼さんは首をひねる。
「今日客が来る話は聞いていない。それに、この家には客はこない」
まぁ、なんと言っても殺し屋の家だ。来るものもいないだろうし、仕事の話をするにしたって、もっとマシな場所で密会するだろう。こんな、家を見つけてくださいなんてまねはしないはずだ。じゃぁ、何だ、五人前って。
「天狼さんは、いつお戻りに?」
「あの人はいつもふらふらしていて、きまった時間になんてかえってこない」
「・・・」
なんという家主。
昨日蒲団やらを貸してくれたときに、あまり使っていないと言っていたわけがわかった気がする。要は、この家にあまりいないのだ。
「・・・まぁ、いいいわ。言われたとおり、とりあえず五人前ね」
よし、と私は腕まくりをした。
***
「牙狼さん、牙狼さんのお椀って、どれです?」
私は再び棚を漁りながら、戸をいじっている牙狼さんに尋ねた。どうしても、お茶碗も汁椀も一組しか見つからない。二人分あるはずなのに、と私は躍起になった。余計なものがないから、その分棚も寂しいくらいに何もないのだが、確かに余計な分はないとは言われていたけれど、ここまで何もないとは。というか、人数分も足りていないではないか。
「おれのは・・・」
のっそりと牙狼さんが入ってくる。そして、棚の一番上から二段目に入っていたバカでかいどんぶりを出した。
「これだ」
「・・・・五人前のわけがわかったわ」
何のことはない、牙狼さんが三人前食べるということだ。確かに、こう言ってもらった方が分量は間違えないわね。私は受け取るだけでも重いどんぶりをかかえ、炊きあがった米をこれでもかと入れてやった。釜の割れた蓋だから、その上に手ぬぐいを数枚にしてかけて置いたのだけれど、うまく蒸せたかな。…うん、まぁまぁだわ。
それと、味噌汁も同様。
「これで足ります?」
「もう少し。あれば」
「・・・あはは・・・」
四人分ではなかろうか。天狼さんの分がなくなってしまう。見誤ったか。
とりあえず四人前くらい入れて、私はふうと息をつく。あぁ重かった。
「どうしようかな、天狼さんの分・・・」
いいや、私を少な目にすれば。所詮押し掛けの居候の身。しかも、量を見誤ったのは自分のせいだし。
そう思ったときだった。
「俺の分はいらん」
「!」
いつの間にか、天狼さんが帰ってきていた。
ガタガタの戸が鳴らなかったから、気づかなかった。牙狼さんがいじってくれているから、今は戸がないのだ。ガタガタ鳴ろうはずもない。
「天狼」
「首尾はどうだった」
「問題はないと思う」
「わかった」
私には入れない会話を二言三言。
天狼さんが着ていたのは、昨日はよく見えなかったが、暗い青を基調とした、なんとも地味な格子柄の木綿の単衣だ。さすがに昼日中に墨染めはないだろうと思うから、その点は本人もわかっているのだろう。その上に渋緑の長羽織をはおっており、裸足に下駄、となんとも楽な格好をしていて、これではどう見ても殺し屋には見えなかった。・・・まぁ、昨日の格好だって、決してきっちり「殺し屋」という木札を下げているわけではないのだけれど。
昼の日の中で初めて見る天狼さんは、どことなく改まって見えて、なんだか初対面に思えた。
「おかえりなさい」
「・・・」
なんとも妙な顔された。そんなに変なことを言っただろうか。
右肩の上で緩く縛られた長い髪に、私はちらりと目をやった。
「食べないんですか?」
「朝は食わない」
「体に悪いですよ?」
「・・・」
いちいち黙らないでほしい。
「・・・その分、牙狼が食う。いいだろう」
そういう問題でもないと思うのだけれど。胃の賦でつながっているというわけでもないだろうに。
「さっさと食え」
「あ、はい・・・」
見れば、牙狼さんはもう囲炉裏の前に座っていて、彼にしてみればそれなりの大きさの茶碗と汁椀を前にして待っている。うん、茶碗と言ったが、あれはただのどんぶりだ。
「お茶を煎れましょうか?」
「・・・いいのか」
「いいも何も・・・ちょっとまってくださいね」
私はとりあえずさっき見つけておいた急須に茶葉を煎れ、同じくさっき発掘した湯呑みにお茶を煎れた。水はもったいなかったけれど、この際だからと見つけた食器類はすべて洗っておいたのだ。あ、蜘蛛の住まいはそのままだけど。それにしても、さっきわかしたお湯をとっておいてよかった。お米を蒸らしている間に、余熱でもって熱い竈で味噌汁をつくったりお湯を沸かすのは鉄則だ。
「はい」
「・・・すまない」
天狼さんは軽く謝し、湯呑みを取る。
「・・・久しぶりだな」
「え?」
「暖かい茶を飲むのが」
「・・・そう、ですか」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、私はどこか嬉しくなった。役に立てた!と子供のように思う自分がどこか滑稽だったが、やはり嬉しかった。
「やっぱり、女手だな」
「え?」
今度は牙狼さんだ。お米を示しながら、うなずいた。
「俺がやると、やり方は間違っていないらしいんだが、どうも堅くなる。乾いたような感じになってしまう。おまけに炊き立てのはずが冷たいしな。こんなに柔らかい瑞々しい米はなかなか食えない」
「・・・」
嬉しそうに言ってくれるのは、非常にこちらとしても嬉しいのだけれど。
「・・・たぶん、それ、お釜の蓋が割れているからですよ。最後に蒸らすときに、何か手ぬぐいとかで覆っています?」
「いや」
「それですよ」
なんだ、そうだったのか。と大発見をしたように牙狼さんが目を見開いた。それに、天狼さんがなんともいい難い表情のまま口を挟む。
「・・・どうりでおまえの飯は堅いし冷たいと思った」
「天狼は料理自体しないからわからないが、天狼がやっても同じ結果だ」
「理屈を考えろ」
「まぁまぁ」
不毛な男たちのやりとりに、私は苦笑した。
そんなこんなで、私たちは初めての食事とは思えないほどなごやかにそれを終えた。
水が若干塩辛かったから、味噌を控えめにしておいたが、なかなか良い塩加減になっていてよかった。
私が自分の分の食事をありがたくいただき、手をあわせたときだった。
「女」
「秋です」
「・・・確認しておきたいことがある」
改まった調子で、天狼さんが私に問う。どうあっても、名前を呼ぶ気はないらしい。片胡座をかいて、たてた膝に肘をかけ、なんともだらしない格好だ。だが、その目は鋭い。
「なんでしょう?」
とりあえず、答えておく。
「一晩・・・とはいい難いが、すこしは落ち着いたろう。今ならまだ、後戻りはできる。・・・そっちの方が、おまえのためだと思うが?」
何を言っているのだろう、この人は。え、何、もしかして、要は、私に椿屋に戻れと言っているのだろうか?いまさら?
牙狼さんは、音を立てないようにしているらしいが、ただ黙々と食事を続けている。
「昨日は、状況が状況だった。非常事態に、おかしなことを口走ったり、やらかしてしまうことはよくある。引っ込みがつかないなどという阿呆な考えは捨てろ。おまえは、本当にここに居着く気か?」
淀みなく言い放つ天狼さんに、私はぎくりとした。昨日確かに、早まったかなーと思わないでもない場面があった。そのことを言っているのだろうか?うん、確かに思わないでもなかったけれど。
けれど、だ。
「・・・はい。ここに置いてください」
囲炉裏を囲んで横にいた天狼さんに向き直り、私は手をつき、深々と頭をさげた。
天狼さんは、例の呆れたような表情を隠そうともせずに私を見ているのだろう。見えないけれど。
「仮に本当に居着くなら、おまえの「秋」としての過去を消すくらいの覚悟をしなければならんぞ。どこまでわかっているか知らんが、俺もこいつも、殺し屋だ。人を殺すことが仕事の外道だ。いつ死ぬかもわからん。おまえに危害が行くやもしれない。下手をすればおまえとて、いつ死ぬかもわからん。そして何より、我らは人の道にはずれた者だ。そんなもんと一緒に暮らすということは、おまえ自身が手を下さずとも、そういう汚れた世界に入ることに相違ないんだ。本当に後悔しないのか?」
初めて名を呼ばれたのが、これか。
思わないでもなかったが、私はうなずいた。
確かに、昨日一瞬、そんなことを思った。本当にこれは正しい選択だったのか、と。一瞬の気の迷いって奴ではないのか、と。
それこそが、一瞬の気の迷いのはず。
天狼さんは、私が多少寝て落ち着けば、後悔をし出すと思ったらしい。だが、そんなのはとんだお門違い。
だって、私は今、この上ない解放感を得ているのだから。
どこか面倒そうな表情の拭えない天狼さんだが、そのなかには確かに真剣な響きが見える。そんな彼に、私は顔を起こしてきっぱりと言った。
「構いません。なんなら、この名前ごと、今までの私を殺したらいい。椿屋に戻るくらいなら、本当に死んだほうがマシです」
私の目をじ、と見つめる天狼さんに、私は背筋が寒くなる。それでも、見つめ返し続けた。目をそらしたら負けだと、本能が言っているような感じがした。
「ずっと、ただ流されるままだった私から、私は決別したい。確かに、秋の名をくれた両親を私は大切に思っています。でも、だからこそ、道をはずれたと天狼さんがおっしゃるなら、私はその名を、道にそれないままで終わらせたい。「秋」はもう、いない方がいい。私は、「秋」を殺す覚悟があります。だから、お願いです。ここに居させてください」
一気に言い切ると、私は一段と深く頭を下げた。
「なんでもやります。家事だって、内職だって・・・だから・・・!」
だんだんと必死になり、声高になっていく私の頭の上から、ばかでかいため息が聞こえた。
「・・・後悔しても知らんぞ・・・」
また、視界が開けた気がした。
がばりと頭をあげると、片あぐらをかいだ天狼さんが、想像に違わず呆れたような顔をして私を見ていた。
「そうだな。・・・刹那だ」
「え?」
せつな?と私は思わずきょとんとする。
天狼さんは、そんな私を無視して続ける。
「秋という名の女は死んだのだろう。なら、おまえはこれから、刹那だ」
「・・・せつな・・・」
せつな。刹那。これが新しい私の名前。
「おまえはどうも、刹那主義のようだからな」
「・・・・はい」
う、否定できない。
だが、そんな居心地の悪さよりも、ここに居させてもらえる安心感の方が大きい。明らかに。
自然頬が緩むのを止められない。
「よろしくな、刹那」
牙狼さんが、がたいに似合わぬ優しい笑みでもって迎えてくれる。
さようなら、秋。さようなら、父さま、母さま。
「はいっ!よろしくお願いします!!」
そしてこの日に秋は死に、この日、この瞬間に、私、刹那は生まれたのだった。
牙狼は、天狼の部下、狼の牙という意味合いの名前です。今で言うところの、巨人症くらいのイメージです。