あの夜からとこの夜と
お読みいただきありがとうございます。
初の恋愛ものでした。
どうしても刀を出さずにはいられないのです…。
どうして、あんなことを言ったのか。
そう自問してみても、それは所詮は自分という他人をごまかすための偽りの行為にすぎないとよくわかっている。
恐ろしいほど冷静だったように思う。でも、思考は確実に空回りしている。それはよくわかっている。
私は、なにもないがらんどうの部屋の中に、一人座っていた。
黒い闇が広がっている。
どうして、自分はこんなことになったのだろうか。
「女」
呼ばれた。
顔をそちらに向ければ、障子が開くところだった。
黒い闇に、白い月明かりが差した。ふと、さっきの旦那様の死体を思い出して、身震いした。
そう、ここはもう椿屋じゃないの。だから、旦那様の死体なんてないし、若旦那のあの顔も見なくてすむ。
だって、ここは、あの影の家らしいのだから。
「あとはまぁ、適当にやれ。とりあえず朝飯はおまえを入れて五人前だ」
旦那様を殺した男。
それが今、私の目の前にいる。目の前で、私に命じた。だが、それは命令というにはあまりにも単純で明快で、私は男を見上げた。
「・・・やっぱり変な人ですね」
「・・・」
私のつぶやきに、男はかすかに眉を寄せた。
「変なのはおまえだろう。理解に苦しむ」
「・・・」
男にきっぱり言い切られ、私はうつむいた。
そう、変なのは私。
・・・だって、わからないもの。生きていたって、死んだって、どっちも苦しい。
「あのまま椿屋にいたって、あの生活が続くだけ。私は・・・もう・・・」
「俺の仕事は慈悲をくれてまわることじゃない」
「・・・」
そう、私はあのとき、目の前の男に言ったのだ。
「どちらでもかまわない」と。
ただ、どちらかと言えば、死にたかったのかもしれなかった。それは確かだ。
すると男はかすかに眉を寄せ、口を開いた、「それでは困る」と。
口封じというからには、一応確実に口外しないということを約束させねばならないと。
「普通、ああ言えば十人中十人が、口約束でも、とりあえず言わないから命だけは、と命乞いをするのだがな」
「・・・」
男は後ろ手で障子を閉め、蝋燭に火をつけた。蝋燭なんて持ってるんだ、と若干私は意外に思う。結構蝋燭って高いんだけどな。
ぼんやりと橙色の炎が、青白かった世界を押し退けて自己主張をした。脳裏に刻みこまれたあの世界が遠のいて、少しだけ肩から力が抜ける気がした。
***
ならば、とあの時一旦男は刃を構えた。天井で制限された空間の中で、ゆっくりと男の刃が自分に向け降りあげられるのを、ただ私は黙って見ていた。仏に祈り手をあわせる気もなかった。だって仏なんてものがいたのなら、私はこんな人生を歩んじゃいない。
なのに。
「・・・ちっ」
苛立たしげな舌打ちがきこえた。え、舌打ちって何。
そして、男は刃をおろした。
「命乞いはしない、神仏に祈るようでもない、挙げ句の果てには目もつぶらない」
そして男は、刃から滴り落ちていた旦那様の血を拭うと、刀を鞘に丁寧に納めた。以前に見たお侍さま方の刀の納め方とはぜんぜん違って、音もしなかった。
「?」
不思議に思って見つめると、男は眉を寄せた。そんなに男が指摘した点は変だったかしら。
「命乞いを聞きながら殺すのは慣れている。命乞いなら、それこそ殺した奴の数聞いている。だが、命乞いしない奴を殺すのは初めてだ」
そんなに命乞い命乞い言わないでよ。私はどうしても生きたいわけではないのだから、仕方ないじゃない。
「・・・殺さないの?」
「・・・慣れぬことはするものではない」
意気地なし。
口に出そうか迷う。だが、ここで怒らせたとしても、機嫌をとったとしても、どのみち私の未来は好転はしないだろう。
なら、最期くらい、言いたいことを言っておこう。
「・・・意気地なし」
言っちゃった。殺し屋相手になんてこと。わかって言っておきながら、私は妙な楽しさを覚えた。我ながら、とうとう壊れたかと思う。
「・・・意気地なし、か」
「・・・え?」
どうなるかの明確な予想をしていたわけではない。だが、男がかみしめるようにそれをつぶやいたのは意外だった。もっと、少なくとも私に対する文句や手の一つ二つがくると思っていた。
「おまえが言ったんだろう・・・確かに、意気地なしやもしれんな」
「納得されても困るけど・・・」
なんなんだろう、この・・・妙な雰囲気は。
殺し屋と死体と一人の女中が、八畳程度の狭い部屋でもって立ち話。もちろん、死体は寝ているけれど。
本来ならば、おそらく私が悲鳴をあげて人が来て・・・ってことだったんだと思う。
とすると、そうか、私がすべての元凶か。いや、そもそもこの人が旦那様を殺さなければ私が悲鳴をあげる必要もなくて・・・でも殺されるようなことを旦那様がしたってこと?なのかしら?そうだとすると旦那様のせいよね。・・・世の中の出来事の理由なんて、こんな風に全部が絡み合って、根本的な理由なんてないのかもしれない。
そんなことをつらつら思っていると、男が動いた。きびすをかえし、格子戸へと向かう。そういえば、格子戸が閉まってるんなら、どこから入ってきたんだろう?
「どこ行くの?」
「・・・妙なことを聞くものだ。いつまでもここにいるわけはあるまい」
どうやら、私を殺してはくれないらしい。
若干その気になっていたのに。私は今までにはありえないほど、大胆になっていた。死という具体的なナニカを目の前にしたことで、いろいろな感情がない交ぜになるというか、なんというか・・・とにかく、私はまるで生まれ変わったかのような、新しい自分になったかのような快感を得ていたのだ。
「ねぇ」
「・・・」
私の呼びかけに、男は少し振り向いた。よかった、無視されるかと思った。
男が振り向いていてくれる時間は短いだろうとわかっていた。だから、私は要点だけを言うことにする。
「私もつれていって」
「・・・・・」
「バカなことをって思ってるでしょ。わかってるわ。でも・・・お願い、連れてって!」
「・・・・・」
「連れて行ってくれないなら、私、あなたのことを黙ってる保障をしないわ」
男の表情は見えなかった。
私は、一歩を踏み出した。
この部屋に入ってからどれくらいの時間が経ったのかわからないけれど、初めて私の体は動いた。あんなに逃げようと思っても逃げられなかったのに、信じられないくらいすんなりと一歩を踏み出せた。
斬られたなら斬られたでよかった。もともとその気だったのだから。
殺し屋を脅すとか、私もとうとうどうにかなってしまったのかもしれない。
どれだけの時間がたったのか、わからない。
男はずっと私の目を、睨むでもなくどうでもよさげに見つめていたし、私はその目をそらしてなるものかとしがみついていた。この温度差がおもしろくないけれど、そんなことはどうでもいい。
「・・・だから、俺は鼠小僧でもなんでもねぇってのに」
ふと砕けた口調で、男はため息をついた。つぶやいた独白だっただけかもしれないが。
そして、格子戸を外すと、そこから外に出た。
「・・・」
ここは二階で、格子戸の外は屋根だ。私がまごまごしていると、男はさきに格子戸を乗り越え屋根に降り立ち、ひょいと通りに降り立った。なに、私より一尺以上背が高いくせに、まるで体重なんてないですよ、みないな動き。あんな芸当、私には無理。
「早くしろ。何を勘違いしているか知らんが、表戸から出てこい。うちには余計な草履も草鞋も、ついでに言うと椀も箸も着物もない」
「!」
ぱぁ、と目の前が開けた気がした。
私は走り出した。そっと、音をたてないように。
この屋敷は寝静まっている。そっと、そっと、音をたてないように。
お気に入りの着物だけをとって、母さまの形見のかんざしと、父さまの形見の懐剣を。あとは適当な箸と茶碗。それと雀の涙の自分のお金。それだけを持って、私は丑三つ時の闇へとかけだした。
好転しないと思っていた世界が、くるりとその位置を変えたように思えた。
***
「ただ置いておくのも面倒だし、邪魔だ。家事でもしろ」
道中、そういう話になった。家事に関しては幼いころから鍛えられているから、まったく問題ない。
「どこに住んでいるんですか?」
「質問責めは好かない」
「・・・」
ぶっきらぼうなまま、男は歩き続けた。まぁ、ついていってみればわかるし、いいか。
「私、秋っていいます」
「そうか」
「・・・」
「・・・」
そこで普通、俺は○○だ、とか返さないかしら。
でも質問は嫌だとか言ってたし・・・なんて呼べばいいのよ・・・。
私はここに来て、先ほどまでの大胆さが嘘のようにしぼんでいた。一時の気の迷いっていうのは本当にあったのだ、と初めて知った。
「ここだ」
いつまで歩けばいいのだろう、とそろそろ足が棒になったあたりで、そう言われた。示されたのは小さなあばら屋だった。椿屋からは結構歩いたから、私はくたくただった。町を二つは通り過ぎた。少しはこっちのことも考えてほしい。普段からこき使われて体力があったからなんとかなったものの、途中で動けなくなったらどうしてくれるのだ。・・・って、おいて行かれるのがオチだ。想像するまでもなかったような気がする。多少は椿屋での生活も役に立ったというわけか。
だが、想像していたのとはかなりちがう。さすがに長屋だとか屋敷ではなかったが、ごくごく普通に町はずれとはいえ、中に存在している。こんなに普通でいいのだろうか。
「・・・なんか、普通のところに住んでるんですね」
「・・・山の中か何かかと思ったか」
「はい」
素直にうなずけば、男はかるく鼻をならし私を無視して戸をあけた。建て付けが悪いらしく、がたがたと激しい音を立ててようやっとあいた。私にあけられるだろうか、結構男は力を入れてあけていたように思う。
「山中から人が降りてきた方が怪しまれよう。ましてや、そやつが現れたときにかぎって人が死ねばな」
最後は、ほぼたたきつけるように開けきった。近隣に迷惑にならないのだろうか。
「なにをしている」
「え?」
不意に問われ、私は固まる。何をしているって・・・とくに何もしていないのだけれど。そして男が、小屋の中を指したことで、何もしていないのがいけないのだと思い当たる。そうか、入れってことか。
「女一人が、そんなところで突っ立っていては悪目立ちするだろう」
それはご説ごもっともだ。私はとりあえず、男が先に入るのを見て、そろそろと足を踏み入れる。土間特有の足音がした。
「おじゃましまーす」
一応、声をかける。小屋の中は月明かりに照らされて、ぼんやりと浮かび上がる。入ってすぐに土間をあがって一部屋あるのが見て取れた。囲炉裏もある。
私が入るのを、戸のすぐ裏で見ていた男は、またはげしい音を立てて戸を閉めた。しかも、閉め切れていない。下の方はぴったり閉まっているが、上はがら空きだ。今はまだよいが、冬は寒そうだと密かに思う。
「どうした」
「いや、結構片づいてるなーって」
男がどういう暮らしをしていて、誰と住んでいるのかなどわからないが、とりあえず感想。これで男一人で住んでいるなら感心する。男ってとかく汚すのだということを、私は椿屋に奉公する以前からよく知っていた。
「同居人がマメだからな」
あ、同居人いるんだ。どんな人だろう。マメに掃除なんかをする人だったら、軽く私の仕事はなくなりそうだ。女の人かな?というか、私のことをその人に相談しなくていいのだろうか。
「とりあえず上がれ」
「はい」
草履を脱いで、板の間にあがる。私が草履をそろえていると、男はさっさと草鞋を脱ぎ散らしてなにやらゴソゴソやっている。と、すぐに橙色の暖かな光が男から漏れ、男が火をつけたのだとわかった。火打ち石を使う音はしなかったから、囲炉裏の中に置き火していたのだろう。
草鞋も草履も、余分なものはない。同居人というのは、どこかへ出かけているのだろうか。
「とりあえず、おまえの部屋はそこをつかえ」
ひょいと、手にした燭台で、板の間へあがって右手の障子を指した。
「布団は空きが一つあるが、生憎干していない。今日は・・・」
途中で言葉を切り、男は板の間に向かって奥の部屋に入り、さらにまた障子をあけるを音をさせてから、一組の布団を引っ張りだして現れた。
「これで我慢しろ」
私のだと言われた部屋の障子を足で器用に開け、男は布団を投げ込んだ。
「え、布団干してないって・・・」
予期しない突然の来客用にと、布団を干してある家があるとすればそれは宿だけだろう。
「俺のだ。同居人がたまに干す。いくらかはマシだろう」
そんな私の困惑に、男はなんでもないように言う。
私はあわてた。
「そ、そんなご迷惑はかけられません。一晩くらいならなんでもないですから・・・」
そんな私に、男はじろりと目をむけた。呆れが全面で自己主張するその表情に、私はうっとつまる。
「おまえ、初対面の人殺しに誘拐犯になれと言っておきながら、布団程度でご迷惑はないだろう」
「う・・・」
悔しいくらいの正論に、私は二の句が継げない。うぅ、その通りですよ。私は非常識です、どうせ。
「あまり使ってはいないが、男の布団が嫌だと言うなら、そこに座布団がある。勝手に使え」
あまり使ってないってどういう事?いろいろとつっこみたいところは多々あるが、この男のわけのわからない冷たさと優しさに、とりあえず私は礼を言う。
「いえ、ありがとうございます。使わせていただきます」
頭を下げると、男はそのまま何も言わずに、奥の部屋へとひっこんだ。何かするのかと思うと、男は一組、男物の着物を持って出てきた。これは墨染めじゃなくて、普通の麻の着物らしい。
「川へ行ってくる。適当にやっておけ」
川?と私が問う間もなく、またもやガタガタと派手な音と共に、男が小屋から出ていった。
「・・・そっか、血を落とすんだ」
そう気づくと、私は土間におり、草履をつっかけてなんとか戸を開けようとじたばたした。
・・・あかない。本気であかない。なにこれ。
じたばたしていると、不意に戸が自分で開いた。勢いあまって転びそうになる。
「・・・何をしている」
「あ・・・」
男が呆れたような顔でそこにいた。どうやらじたばたしているのが聞こえたらしい。それで開けてくれたのだろうか。
「帰る気になったのか?」
「いえ、そうじゃなくて、その着物!」
「・・・?」
着ている墨染めの着物を指せば、男は訝しむような顔をした。
「血抜きしますから、出しておいてください。桶とか、勝手に使っていいですか?」
「・・・・」
男は呆れの色を濃くしつつも、驚きの色を混ぜる。何か変なことを言っただろうか。
「血抜きなんぞ面倒だろう。だから墨染めを使っているんだ」
「でも、血のにおいって嫌じゃないですか?固まると気になるだろうし・・・」
「・・・」
建て付けの悪い戸を挟んで、なんとも非日常的な会話が
日常的な形で行われている。内容が酷すぎる。
「・・・慣れている」
「いいですから、とりあえず出しておいてください!それから、春とはいえ、夜中に水浴びは体に悪いですよ」
「・・・・・」
男はしばし私は見つめていたが、私が首を傾げると、男は肩を落としてため息をついた。
「・・・わかった。桶でも何でも好きにつかえ」
「井戸はどこですか?お湯をわかしますから・・・」
「風呂などないし、そんなに薪もない」
「お湯を少しわかせば、暖かい手ぬぐいで体をふけるでしょう?」
「・・・」
私に言葉に、男はぽかんとした。そんなことをすること自体があり得ないという顔だったが、男は不意に私に着替えの着物を押しつけた。
「?」
「水を汲んでくればいいんだろう」
「! はい!」
さっきまでの疲れがどこへやらへとすっ飛んだ気がする。私は勇んで、火の準備にとりかかった。
戸から入って、土間を奥に進むと、小さな板の間があって、そこが台所だった。適当には使われているらしい竈があり、そこに釜が置かれている。私は、囲炉裏の置き火を一つ拝借し、あたりを漁って付け木を見つけた。燃えのこりはまだ竈の中にあったからとりあえず置き火に付け木を押しつけ火を起こし、竈につっこむと、湯を沸かすに足りるくらいの火へと起こした。
「これくらいでいいのか」
「はい、ありがとうございます」
男はすぐに戻ってきた。そりゃぁそうだろう、川はここからすぐのところにあった。来る途中で、橋のない小さな川を見たから、そこへ行ったのだろう。小さな川と言っても、簡単にわたれるようなものではなく、私がわたるには少しばかり骨が折れそうだった。それはそうと、このあたりに井戸はないのかしら?
「入れるぞ」
「はい」
男は、釜にくんできた水を入れた。空になった桶をそのあたりに転がし、珍しそうに眺めている。
「・・・おまえは、俺が恐ろしくないのか」
「へ?」
不意に問われ、私はきょとんとしてしまった。恐ろしい?冷たいとは思うけど・・・とそこまで考えて、思い出す。そうか、この人、殺し屋だったっけ。けれど。
「・・・今ふつうに話していて、怖いなんてちっとも思いませんけど・・・」
思ったことをそのまま言えば、男はため息をついた。
「変な女だ」
「秋です」
「そういう意味じゃない」
再度、ため息。失礼な奴だなぁ。
「あ、いい感じかな」
蓋をとると、いい具合に沸いていた。私は、突っ立ったまま腕組みしている男に目をやりつつ、先ほど男が転がした桶を拾い上げた。
それに先ほど物色して見つけておいた柄杓でもって湯をうつし、同じく先ほど見つけた手ぬぐいを出した。
「これ、使っていいですか?」
一応、確認。
「使ってまずいようなものはおいていない」
「はい」
まったく、ひねくれた返事しかできないのかしら、この人。
私は桶に手ぬぐいを浸す。完全に沸かしたらしばらく手なんて入れられないから、早めにあげた。手を入れてみて、うん、大丈夫。
「はい、これでいいですよ」
「・・・」
黙って桶を受け取ると、男はそれを持って自室へと引っ込んだ。ちゃぷ、と水の音がする。中で着替えているのだろう、衣擦れの音がして、ふいに障子が滑り、細く開く。そこから。墨染めの着流しが放り出された。
「あ、着替え・・・」
さっき押しつけられた着物を置いたあたりをみたが、ない。衣擦れの音はやまないから、きっと持っていったのだろう。いつの間に。
墨染めの着物を拾い上げる。残ったお湯で血抜きをする。行灯の障子をあけ、裸火のもとで丁寧に血を抜いていくが、古い血の跡が多々見えた。洗ってはいたのだろう、そこまでひどい固まりにはなっていなかった。新しい血のしみを見つけて、とんとんとたたくようにして抜く。すぐに湯がどす黒くなった。これが、椿屋の旦那様の血か。と思うと、妙な気分になってくる。怖いなんてちっとも思わなかった。それよりもむしろ・・・もうあの男がいないのだ、と思うと、自分でも信じられないが、笑いがこみ上げてくる。私も大概狂っているのかもしれない。
なんだろう、この感情は。
私は、狂っているのか。
いや、狂ったのか。
たぶん、ついさっきまでは何ともなかった。椿屋の旦那様の死体を見たときから、壊れたのか。
・・・だとしても、いいだろう。
もう、私は後戻りはできないはずだ。
人殺しの家に上がり込み、家事をするなどと。
「・・・なかなか良いものだった」
そんな考えにふけっていると、背後から男の声がした。
桶を小脇にかかえ、さっき渡された着物をまとい、男が立っていた。
「でしょう?お湯の方が汚れも落ちるし」
私は振り返り、笑った。
自分でも、自分が信じられない。
一端の殺し屋にでもなった気分だ。そしてそれを、おぞましいと感じている自分も確かにいるのだが、全体として私は今、この状況を楽しんでいた。
「はい、血抜きも終わりました。全部見ておきましたけど、もしかしたら見落としがあるかも・・・」
「かまわない。干しておいてくれ」
男は興味なさそうに言うと、私の手元の桶をとり、自分で持っていたそれとあわせて、さっきとは違う戸から出ていった。あ、勝手口はそっちか。水を捨てる音がする。そっちも建て付けは最悪らしく、バリバリ音がした。隣の家はよく文句を言わないものだ。
男があけた戸から、かすかに見えた空は橙になりかけていた。もう、朝か。
「もう寝ろ。少ししか寝られないかもしれないが、全く寝ないのはよくないだろう」
「・・・はい」
ひょいと入ってきた男に言われ、私はとりあえずうなずいた。寝なくてもいいのだが、あぁ言われては仕方ない。
私は、与えられた部屋へ引っ込んだ。
かしてもらった蒲団に座り込む。
ほぅ、と息が漏れた。
何か、疲れているはずなのに、興奮していた。
興奮にまかせて、今日・・・というより先ほどから続いていたとんでもない出来事について、思い返していた。
どうして、あんなことを言ったのか。
そう自問してみても、それは所詮は自分という他人をごまかすための偽りの行為にすぎないとよくわかっている。
恐ろしいほど冷静だったように思う。でも、思考は確実に空回りしている。それはよくわかっている。
黒い闇が広がっている。
どうして、自分はこんなことになったのだろうか。
「女」
呼ばれた。
ゆるゆると顔をそちらに向ければ、障子があくところだった。
黒い闇に、白い月明かりが差した。ふと、さっきの旦那様の死体を思い出して、身震いした。
そう、ここはもう椿屋じゃない。だから、旦那様の死体なんてないし、若旦那のあの顔も見なくてすむ。
ここは、あの男の家だ。
「あとはまぁ、適当にやれ。とりあえず朝飯はおまえを入れて五人前だ」
やっぱり、単純明快な言葉。
先ほど寝ろと言ったのに、何をしにきたかと思えば。
って、五人前?誰か来るのだろうか?そう思ったが、とりあえず私は流すことにした。質問責めは嫌いだそうだから。だけど何も言わないのは微妙だったから、とりあえず言ってみる。
「・・・やっぱり変な人ですね」
「・・・」
私のつぶやきに、男はかすかに眉を寄せた。
「変なのはおまえだろう。理解に苦しむ」
「・・・」
男にきっぱり言い切られ、私はうつむいた。
そう、変なのは私。
・・・だって、わからないもの。生きていたって、死んだって、どっちも苦しい。
「あのまま椿屋にいたって、あの生活が続くだけ。私は・・・もう・・・」
「俺の仕事は慈悲をくれてまわることじゃない」
「・・・」
慈悲、か。そんなものが実在するのかも怪しい。私にとって、確かなものは何もない。父さまも母さまも、さっさと私をのこして死んでしまった。そのあと、私を母と思いなさい、なんて言っていた叔母さまも、暮らしが苦しくなると私を売って金を得た。その買い手が椿屋の旦那様だ。
そうなると、もう私はただの金で買われたモノにすぎず、旦那様も若旦那も好き勝手に私を使いだした。
「・・・とにかく、伝えることはそれだけだ。今日はもう休め。一刻でも寝た方がいい。明日・・・といっても今日か・・・朝には同居人も帰ってくる。牙狼という大男だ」
「がる・・・さん?」
「そうだ」
自分の名前より同居人の名前が先か、この男は。
私は苦笑して、でも素直にうなずいておいた。
「もう寝ろ」
そう言い捨てると、男はさっさとたちあがり、部屋を出ていく。障子を後ろ手でしめると、すぐに行灯が消えた。私の部屋の蝋燭だけが、このあばら屋の灯りとなる。そして、また例のがたがたが聞こえ、男が出ていったのがわかった。もう夜明けなのに、結局あの人は一睡もしていないだろう。殺し屋業は夜の仕事だろうから大丈夫なんだろうか。
寝ろと言われたからには、仕方ない。とりあえず横になろう。蝋燭を消して、貸してもらった蒲団の上に乱雑に置いてあった合わせに潜り込む。今もちょっと寒いそれでは、冬はさぞ寒かろう。余った合わせと綿があれば、簡易掻巻きを作ることができる。はなしてみようか。まぁこれから夏だから、すぐという話ではないだろう。
冬が来る。
そんな先のことを、私は今や自分の時間として見ることはできなかった。
これから、どうなるんだろう。
自分で選んだとはいえ、先行きは不安だ。
ふぅ、と息をつく。
まぁ、先行きは全く見えないが、とりあえず暗転はしてないだろうと思う。いや、世間的には暗転なのかもしれないが、私としては全く好転だ。って、これから何が起こるかわからないのに、好転だって判断もできないか。
ふと目を閉じた。その瞬間、私は眠っていた。
まだ続きます。よろしくお願いいたします。