3
セレクは二人分の食事を作ることになって、早一週間が経過した。
手料理をたらふく食べて、ミグは生き生きとしてきた。対して、ダンは食事の量はちょっと減った。
セレクはミグの右脛の怪我を看る。水で患部の汚れを洗い流し、傷口に軟膏を塗る。致命傷ではなく、治れば普通に歩けるようになる。
ダンは言った。
「ミグには《花》の種を使わないのか? そのほうが早く治るんじゃ、」
枯葉に横になっていたミグが起き上がった。
「今、花って言ったよな!? それって、紫のあの花だろ? 種があるんなら、それ、おれにくれよ。 増やして売る――なんなら金にして返すからさ」
ミグが花の話題に飛び付いた。その眼は爛々としている。
「だめだよ」
セレクは静かに言う。
「種は君が土に蒔いても育たない」
「んなもん、やってみなきゃわかんないだろ」
ミグは聞く耳を持たなかった。
セレクは仕方なく、服の袂から種を取り出した。細く端が鋭い形状のそれは、ダンの知っている《紫慈の花》の種とは異なる。
「なぁ、セレク――」
セレクがダンに目配せをし、素早く言葉を遮る。
「何かな?」
ダンは手を出した。
「俺にもくれ」
「はいはい、君もか。物好きだね」
セレクから棘状の種を三粒ほど貰い受ける。
《紫慈の花》の管理をしていることをセレクはミグに伝えなかった。
――俺のときは、種をくれたのに。
ミグの場合となると、ダンが頼んで渋々引き受けた感じだった。ダンとミグでは何が違ったのだろう。ダンは種を握り締めた。
翌日、ミグは木の端くれで穴を掘り、分けてもらった腐葉土を土に混ぜ込んで種を蒔いた。水もたっぷりとやる。治療中の暇潰しでもあったのだろう。
数日後、ミグは苛立って、種を蒔いた土台をかたく踏みつけた。植物の芽すら出なかった。
「なんでダメなんだよ、このっ! 全部埋めたのに!!」
「お前なぁ」
「だってよー、その方がまとまって元気に生えてくると思うじゃん」
あほだ。
「少し残しときゃよかったな……」
ミグは足を引きずりながら悄然と洞窟に戻っていった。
ダンは水汲みの途中に通りかかる路に種を蒔いておいた。種子を地面に放り出し、土を被せただけ。もし咲くなら、移動中に楽しめる場所で見たかった。ミグと同様、昨日まで芽すらなかったので期待はしていないが。
ダンは足を止め、思わず呟く。
「……なんだ、この花びら」
妙な花があった。細長い黄色の花弁と、それより幅の広い薄紫の花弁が混ざっている。
ダンの頭は混乱した。この状況をどういうことなのか。
そこへセレクが加熱済みの鴨肉を片手にやって来た。さほど驚く様子もなく、花を見て彼は言う。
「お、《紫慈の花》もどきが咲いてる」
「どういう理由かは分からないんだが……。あんたから貰った種に本物が混ざってたのか?」
「いや、別の種だったよ。まだ不完全か」
セレクは屈んで一つ花を摘み取り、息を吹き掛ける。
花は花弁をはらはらと散らした。
ダンは言葉を失くした。刃物を喉に当てられたみたいに息が詰まる。
「……なんだよ、不完全、て」
「飲んだ種子を君は消化しきれていないんだ」
何か、今、恐ろしいことが。
セレクは薄紫色の眼を細めた。
ダンの脇腹をセレクの少し冷たい手がなぞる。と同時にぞわり、とダンの体内から這い上がる違和感。
「その種が発芽するのは、もうすぐだと思うのだけど」
「――っ」
種の苗床にされていた事実に、ダンは衝撃を受けた。セレクの手を払う。人を栄養分にして咲く花なんて気味が悪い。
ダンの表情は強張った。
それを読み取って彼が言う。
「今の君は、はたして人かい?」
セレクは紫黄の花を唇の端に含んで、洞窟に消えた。
ダンの体調に異変が現れたのは、その夜からだ。
身体が食事を受け付けなくなり、暗くなると猛烈な睡魔に襲われる。
「おいおい、寝不足か」
ダンは耐える。
「ちが、う――」
セレクがダンのそばに膝をつき、ダンの両瞼を手で覆った。薬草の匂いより、《紫慈の花》の香りが強い。
「眼を閉じるだけでいいから。ね?」
視界が奪われると、ダンから抗う余力が失せた。セレクの声に従うのが自然だと、身体はダンの言うことを聞かなくなっていく。
ダンはセレクの手首にしがみついて、声を振り絞った。
「……あんたの気まぐれで、助けられて、ころさ、れる、なんて、そ、んなのは……」
――いやだ。
裏切られた、と思うのはダンが勝手に期待していたからだ。セレクに人としての思い遣りがあるなどと。
ダンの意識が薄らぐ。
眠たい。眠りたい。早く陽の光を浴びたい。
*
ミグはセレクに向かって言う。
「おまえ、こいつに何したのさ」
「出会った時、すでに瀕死の状態だったから《紫慈の花》を使ったんだけど、分量を間違えたみたい」
セレクはダンを優しい手つきで寝かしつける。
――嘘だ。この子供は涼しい顔して嘘を吐いている。
ミグの怪我だってあの花の薬さえあれば一発で治るのに。絶対だ。
「ミグ、貴方は何の為に花を求めるの?」
「金がほしい。村を出て、豪遊するのさ」
その機会が目の前に転がっているのに掴まないなんて大馬鹿だ。ダンは自分の家族の生活が苦しいのも、分かっているはずなのに。
ダンは絆されたに違いない。
セレクは言った。
「だからきっと、貴方は《花》で破滅する」
セレクのことがミグは気に食わなかった。
人ではない何か。セレクの物言いは幼いが、ミグにはそれが気持ち悪い。狡賢さといい、瞳の色といい、人としての形からあまりにも逸脱している。
ミグは体調が全快すると、ミグは少ない荷物をまとめて洞窟を発った。もちろん、不調のダンを置いて。
ある計画を立てていた。
セレクが隠し持っているであろう、《紫慈の花》の種を奪取するのだ。
**
ダンはふたたびセレクと二人きりの生活に戻った。
朝と夜の始まりを繰り返す。
ダンは気がつくと、セレクの膝枕で寝起きしていた。腹部の傷は、もはや跡形もなかった。
どうにも喉が渇いてしかたなく、日がな一日、夕方になるまで泉に入っていたこともあった。
「あまり浸かっていると、身体に悪いよ」
セレクはそう言うけれど、彼は信用ならなかった。
ダンがその忠告を無視していると、セレクは蔦で強引に洞窟まで連れ戻す。
その出来事を境に、彼はダンに枷を嵌めた。「君のためだ」と彼は言う。
二人の関係は遠くなっていた。
――どうせ死ぬなら、いっそ、種ごと死ぬか。
ダンはそう思う。
けれども、思うだけで身体はそうしない。
セレクが汲んできた水を飲んだとき、ダンは生き返る心地がするのだった。
時折、夜に歌声が聞こえることもあった。子守唄のように優しく、柔らかな。でも、少し物悲しいような。
羊飼いが、大切な人の帰りを待つ歌だった。
*
明くる朝、ダンは鮮明に目が覚めた。
匂い。音。色。身体の感覚何もかもが違う。地面を伝わる震動もはっきりと分かった。大人数で、森に人間が入ってきている。ミグが来たのだとダンは直感した。
セレクは洞窟にいない。
枷は手首だけだったので、ダンは容易に洞窟から抜け出せた。ミグが向かうなら《紫慈の花》の群生地だ。
これで村に帰ることができる。自由になれる。
しかし、群生地に近付くにつれ、ダンは異変を感じ取った。言い争っている。
――まさか、また仲間割れしたんじゃ?!
見えた。
群生地の手前で、セレクは村人の男達数人を相手に佇んでいた。
*
その少し前のこと。
ミグを筆頭とした村人は斧や弓矢、長剣、持っている武器を構えていた。
「お引き取りください」
「断る。すこしくらい恵んでくれてもいいじゃねえか。こんなに咲いてるんだからよ」
ミグは「なあ、みんな?」と周囲の男に訊いた。男達はそれに同意する。
「さっきも話したと思うけど、《花》は君達が育てても少しも金にもならないよ。それどころか、不要な者は持っているだけで死に至る」
ミグはセレクに唾を吐いた。
「そんな話、信じられるかっての。それに、おれのことは見捨てようとしただろうが」
ミグが吼える。
セレクは冷静だった。
「だって、貴方から血の匂いがしたから。ダンとも、貴方自身とも別の誰かのね。怪我も大したことなかったし」
「バケモノの言うことだぞ、全部嘘っぱちだ。ダンはこいつに殺されたんだ」
セレクは嘆息した。
「なら、私も態度を改めようか。――〝命が惜しいものは、ここから立ち去りなさい〟」
セレクの足元から幾数もの蔦が頭を出した。
*
男達がセレクに襲いかかる。
彼に刃先が触れる直前、地面から発生した蔦が男達を薙ぎ払う。蔦自体に斬りかかる村人もいたが、新しいものに生え変わって終わり。際限がない。
「おい、火で燃やせ!」
ミグが怒鳴った。
村人は火打石を荷袋から出し、松明を掲げた。
彼らを掴まえようとする蔦の根元から焼いていくと、蔦は嫌厭するように村人に近付くのをやめた。セレクは苦々しい顔をする。
ダンはその現場へ飛び込み、ミグを庇った。
「やめろ!」
大きく声を張ると、誰もがいっせいにダンを見た。
ダンの心臓すれすれに、鋭利な形状にまとまった蔦が止まっている。
数瞬の驚きののち、ダンの生還に喜ぶ者たち。反して怒りに満ちる者。
セレクは落ち着いている。
呻きつつ起き上がろうとする男達の姿。ミグの言動と事実の相違を知り、彼らはミグに従うことに対して疑念を抱いていた。セレクと戦う意思はすでにない。
ミグは怒りに打ち震えていた。
「なあ、ミグ、《花》は諦めて村に引き上げよう」
「………この、クソが」
ぎろり、とミグはダンを睨め付ける。
――ドスリ。
「え」
ダンは自分の腹に突き立てられた短剣を見下ろした。
「おまえのせいで台無しなんだよ、このクソが!!」
ダンを蹴飛ばし、ミグは荷袋を抱えて逃走した。
村人達も呆然とそれを見送る。
「馬鹿だね。君が出てこなくたって、事は片付いたのに」
セレクが膝を折って、ダンの傷に触れる。
深く刺されたはずだが痛みはなかった。傷は修復されていく。
「ミグのこと、あんたは殺そうとしてただろ」
「彼は例外でね。こうなるとは思ってた」
ダンはそれに納得した。ミグのあの眼は、最初に仲間割れした男と同じ、執着と独占の欲望の眼だった。
セレクは残った村人達に向けて言う。
「貴方がたにとって大切な誰かが治らぬ病に伏しているのなら、《紫慈の花》はその病を癒します。ここに咲く花をひとつ摘んで、その花びらだけを食べさせて」
流行病で家族を救いたい者達は、群生地に駆け寄った。セレクの忠告どおり、採るのは一本だけ。
「それ以外の利益をこの花に求めるのなら、それは即刻、死を意味します。今すぐ森を離れなさい。夜道では火を絶やさず、灯を身につけて帰るように――」
セレクは言葉を切り、空を見る。
つられて、ダンも空を見上げた。黒い煙が匂いとともにどこからともなく流れてくる。
村人の一人が青褪めた顔で呟いた。
「そうだ、ここに来るとき、ミグが森にたくさん油を撒いてたんだ。アンタの逃げ道がないようにするって言ってて……」
森が火焔に飲み込まれようとしていた。
*
ミグの心は憤懣で満たされていた。
――楽して暮らす、それのどこが悪い?!
最初、《紫慈の花》を採りに行く計画を立てたのはミグだった。ダンとあともう1人に声を掛けて、ようやく見つけたというのに。どうして自分だけ。
誰にも渡すものか。森に火を放て。どこもかしこも燃やしてしまえ。
さあ、これで《花》はおれだけのものだ。
抜け道なら考えてある。あのガキの邪魔も入らず、摘み放題。火傷なんて大したことはない。
群生地の花を摘み取って、むしゃむしゃと口に含む。思わず噎せた。
口元を覆った手には吐血の痕が。火傷は治るどころか。その痛みを全身に広げていった。
炎は舐めるように群生地を包む。
男は笑った。狂ったように笑い続け、最後は焼死した。
*
熱い。あちこちで木が爆ぜている。地を這うように炎が進み、煙が立ち上る。
ダンたちは少しずつ居場所を失っていく。
「なぁ、まずいんじゃないか? 火を消さねえと、花が――」
セレクはわずかに逡巡する。
「……泉までの道は私が確保する。少し退がっていて」
炎の壁を目の前に、セレクは腕を振るった。
地響きがダン達の全身を伝う。
大量の蔦が土を抉り、燃える木々は根元刮ぎなぎ倒された。豪快ともいえるその荒技でできたのは、地割れのごとき道。
「――ま、こんなものかな。この道に沿って行けば泉まで辿り着けるよ」
村人達が先へ進むなか、セレクは溜め息を吐いて、その場に蹲った。
セレクが伸ばした蔦が、黒く焦げていく。
「いつまでもここも安全ってわけじゃない」
ダンは彼の片腕を引く。冷たいはずのセレクの身体は、燃えるように熱かった。
「なぁ、あんたも早く」
セレクに立ち上がる力は残っていなかった。先程の突貫工事で体力を消耗しすぎたのかもしれない。
「いい」
「は……?」
「今の君なら理解できる。《花》は私の一部なんだ。泉へ行ったとしても、私は助からない」
彼の言葉を無視して、ダンはセレクを横抱きにする。
「……馬鹿だね、君」
「そうだよ、俺は馬鹿だ」
セレクは困ったように笑い、ダンの首にしがみつく。ダンの肩越しに、群生地の終末を眺めた。
ダンはセレクを抱える腕に力を込めた。
泉に到着すると、ダンはセレクごと水に身体を沈めた。しないよりはマシだろう。
泉の周囲にも火の手が回っていた。ここで行き止まりだ。
セレクがダンの肩を叩き、泉の脇の古木を示した。
「そこに座らせて」
セレクは古木に背中を預け、懐から軟膏を取り出した。彼手製の薬はよく効く。
ダンはそれを受け取り、村人達の打ち身に塗るように伝えた。セレクの横に腰を下ろす。
セレクは頭をダンの肩に寄せた。慣れたセレクの匂いがひときわ濃くなる。
彼は欠伸をした。
「こんなに眠いのは、いつ以来かな。種を飲んでからだから…………もう、覚えてないや」
セレクはダンの腕にくるまった。
彼の手の力は弱く、呼吸は小さく浅く、薄弱に。
「君の《花》が咲くの、楽しみに、して……たん、だけ、ど……」
薄紫の瞳が徐々に色を失っていき、セレクはゆっくりと瞼を下ろした。
炎は煌々と空を紅く照らし、夜の森を焼いた。雨が降ることはなかった。
翌朝、セレクの姿はなく、代わりにダンの横に温かな灰がひと掴み分、散り積もり、外套が残っていた。群生地の《紫慈の花》――彼の半身とともに燃え尽きた。彼はダンと同様、元は人間だったのだ。
ダンは灰まみれになった外套を泉で洗い、古木に掛けて干した。
村人達も泉で夜を明かしていた。腹拵えをして、昼には村人達と泉を出発。ダンが森の出口への最短距離を先導する。
森と村へ続く道の境界。
ダンは自身の家族への言伝を頼んで、道を引き返した。
セレクはダンに種を植え付けたが、種が芽吹いても死ぬことはなく、この身を変えた。
泉に辿り着き、ダンは水を浴びた。古木に寄りかかり、陽の光で眠る。
不意に強風が吹き、ダンのそばの灰を巻き上げた。
粉を思い切り被って灰まみれになり、ダンは目を開けた。そして、驚く。
声が震える。
「これは、俺の……」
芽が古木付近の根元から出ていた。彼の懐に残っていた《花》の種が落ちて、根付いたのか。
森が再生するには、まだまだ時間がかかるだろうが、今の彼にとってそれはどうでもいい事柄だった。
――大事に育てよう。
ダンは《花》の芽に水を与えた。
次の花守りは、彼なのだから。
少し、涙で視界が滲んだ。
セレクが最期に《紫慈の花》の管理を放棄した理由は、新しい花守りがいるから。
彼自身、自分をもう必要ないと思ったのだろうか。
「……なんだよ、あんたも馬鹿だな」
誰にともなく、ダンは言った。