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ダンの看病は、患部の痛みが引くまで続いた。
動くなと厳命を受けていたので、ダンは洞窟で寝起きを繰り返す。食事に困ったことはなかった。セレクが外に出掛けては、水と食料を用意してくれた。
ダンの暮らす村について彼は聞きたがったので、暇潰しがてらに話す。
村では流行病が蔓延していること。そのため、《紫慈の花》が高値で取引されること。
「そんな時に商売ねぇ」と、セレクが言う。
「そんな時だから商売になるんだ。大枚叩いて買ってくれる金持ちがいる」
「君の家族の病気を治すのに使えばいいのに」
「俺の家は村の外れにあって、人との交流もないから病気の心配はしてねえよ。それより、問題なのは――」
「仲間割れした人だね」
「……そうだ。花が咲いてる場所を見つけた途端、あいつが――」
ダンの背中に怖気が走った。
ふたつの眼が、ダンを殺そうと見下ろしている。そんな錯覚に囚われる。まるで氷水に浸かったように、全身が冷えていく。仲間だった男が腕を伸ばしてくる――。
ダンの頬はぴしゃりと叩かれた。
「しっかりして」
もう三度、彼はダンの頬をぱしぱし叩く。
「せっかく拾ったのに、頭がこれ以上ポンコツになったら困るよ」
ダンはゆっくり目を瞬いて、「ひどい言い方だな」と、眉根を下げた。
「仲間は俺を含めて三人。逃げるのに必死で、あと一人が無事かどうかは分かんねえ」
セレクの瞳を見ながらなら、ダンは落ち着いて話せた。
「そうだろうね。私と出会った時、君は相当慌てていたもの」
「仕方ないだろ! 突然あんたが出てきたんだから」
笑うな、と言ってもセレクは笑ったので、ダンはむくれる。
ひとしきり笑い尽くして、セレクはダンの腹部に巻いた当て布を交換する。
「化膿もないね。明日は散策にでも行こうか」
洞窟以外の景色を見られると思うと、ダンは明日が来るのが待ち遠しくなった。
セレクの手料理で、痩せがちだったダンの身体には肉がだいぶ付いてきた。
というわけで、ダンにとっては久々の運動だ。
明るい場所に出て初めて分かったことだが、セレクの瞳は《紫慈の花》と同じ色をしていた。対して、肌や髪の色素は薄い。
洞窟から歩いて15分で休憩を取り、さらに歩くこと10分。水の音が聞こえてくる。目の前の木々が開け、そこに水場があった。泉だ。
セレクは上流の淵に屈み、白い手のひらですくった水で、何度も喉を潤す。清水が両手から溢れ、彼は口元を拭った。
飲めるほど綺麗な水のようだ。
ダンは頭を水面に突っ込んだ。ごくり。美味い。
「がぶ飲みはしないようにね」
セレクはそう言って外套を脱ぎ捨て、着衣のまま泉に入る。腰が浸かる水深まで進み、数秒潜った。浮上し、泉の脇にぽつねんと立つ古木の根元に引き揚げる。
「もういいのか?」
「水浴びだけで充分。あとは陽の光をたっぷり浴びる」
セレクは目を瞑った。
ダンも久々の水風呂に浸かり、ついでに服も洗った。生き返った心地がする。陸に上がって服が含んだ水気を絞る。置き去りされていたセレクの外套を拾って、枯木へ歩いていった。枝に麻のシャツを干す。
セレクに持ってきた外套をかけてやる。彼は寝息を立てていた。
彼の意識がない今なら《紫慈の花》の種を奪い取れる。
ダンはセレクに忍び寄った。
穏やかな風に晒されて、濡れて艶めくセレクの長い髪は少し乾き始めていた。衣服は肌に貼り付き、肢体の細い線が強調される。瑞々しい生命力がそこにはあった。
ダンの手は躊躇う。
紫の瞳が不意に見開かれる。
「……泥棒しに来たの?」
「っ――」
飛び退こうとしたダンの両足首は、地面から生えてきた蔦によってすでに縫い止められている。ダンは身体の均衡を崩して、セレクの方へ倒れ、彼に受け止められた。
セレクは口の端でダンの愚かさを嗤う。
「誰かの命を救うためじゃないなら、《花》を手にした者には猛毒になる」
「そんな話、俺の村じゃ聞いたことないぞ」
「聞いても信じない人間は、森で死ぬから」
「ただの憶測だろ――っ、冷てっ」
ダンは声を上げた。セレクがダンの脇腹に手を置いたのだ。
「……あれ、あんた」
ダンは動きを止めた。セレクの熱も、心臓の鼓動も感じ取れない。死んでいるのに生きている。人の理を超越した、人ではない何か。
セレクがダンの胸に頭を擦り寄せる。
彼を振り払えないのは、侵し難いその美しさ故か。
ダンから《花》奪取の意思がなくなると、蔦の足枷もいつのまにか解けていた。
――すべてお見通しかよ。
セレクは手を離した。
ダンは彼の隣に腰を下ろす。このまま彼のうたたねに付き合うことにしよう。服も乾いていないことだし。
太陽が中天へ昇りきるまで、二人は日向ぼっこを満喫した。
その翌々日。きっかり一日の休養を挟んで、ダンはとある場所へ案内された。
先日行った泉を水分補給地点として通り、木桶に水を汲んで、さらにそのさきへ。片道1時間以上かけて森の中を進むと、見覚えのある路に出る。《紫慈の花》の群生地に辿り着いたのだ。
ダンは村の仲間がうろついていないかと警戒する。
「……いない、よな」
「そうだね。この辺りに人の気配はないよ」
ダンは息を切らして水桶を置き、その場に倒れ込んだ。病み上がりで桶持ち2つは厳しすぎる。
セレクは水撒きを始めた。
花の開花時期は春から秋。雪に埋もれるまで、一日も欠かさず水をやるのが、花守りとしてのセレクの日課らしい。冬場は洞窟に篭り、雪解けを待つ。「私は花守りだからね」と彼は言った。
ひと通り作業を終えたセレクは、ダンの額に濡れた指で、とん、と触れる。
「運んでくれてありがとう。すごく助かった」
「これって、俺がやる必要なくないか?」
「長時間蔦を出し続けて移動するのって、結構疲れるんだよ」
「俺は怪我人だったんだが……」
「大丈夫、君はそんなにヤワじゃない」
セレクは断言した。
何を根拠にそんなことが言えるんだか。
群生地で二、三時間ほど昼寝をすると、空に重そうな雲が広がり始めた。
セレクは指でダンの頬をつついて起こす。
「そろそろ洞窟へ帰ろう。雨の匂いがする」
その帰り道、セレクが険しい顔で足を止めた。
人が地面に倒れている。
ダンは手頃な岩の瓦礫を拾って、構えた。
セレクがゆっくりと近寄り、生死を確認して通り過ぎる。
「死んでるのか?」
「その人寝てるだけだから、放っておいて」
ダンもその人物を遠目から見る。知っている顔だったので、近付いた。
「――おい、セレク待ってくれ! こいつ、俺の仲間だ!」
男はすでにボロボロ。ろくに飯も食えていないようで痩せこけている。
男――ミグが瞼をぴくりとさせる。
「……あれ、おま、え、ダン……?」
「おう、お互い生きててよかったな。歩けるか?」
「わりぃ、それがさ、できねえんだわ」
見ると、ミグの右脛を布で絞ってある。斬られたのだろう。
ダンはセレクに頼む。
「あと一人くらい洞窟に入るだろ? 俺はもう少しで出て行けるしさ。俺もこいつの面倒見るの手伝うから。薬の擂り粉木とか、食糧採りに行くのとか」
「……わかった」
セレクは溜め息まじりに了承した。
彼の動きに応じて、蔦がミグの体を包むようにして籠を編んだ。
二人がかりで、ミグの入った籠を洞窟へ運搬した。
その間、セレクは無言だった。