1
その男は逃げていた。
「クソっ――…!」
思わず悪態を吐く。あと少しで花に手が届くはずだったのに。
脇腹を片腕で抱えて走る。ズキズキと痛む傷の手当てをしたいところだが、まずは距離を取ることが必要だった。
売れば絶対に金になる、妙薬の《紫慈の花》。その噂を聞きつけて、森深くまで入り、岩場を3日かけて探し見つけた。だというのに採集する段階で1人が裏切り、そこで仲間は散り散りに。
こんなところで死ぬなんて冗談じゃない。
男は来た道を戻るのではなく、逸れることを選んだ。あと1人が無事かどうかは不明だ。
鬱蒼とした高木が空からの陽射しを遮っていて、辺りには身を隠せそうな茂みはない。足元にはごろごろとした石が転がっている。しばらく走り続けて足を止めた。その先は崖。降りるのは難しいだろう。せめて崖沿いに歩いて行けば奴と鉢合わせずには行けるだろうが、一晩森に野営することを覚悟しないと。
――カサッ。
落ち葉を踏む音が響く。かなり小さい音でも、今の敏感な耳は拾ってしまう。
その男――ダンは木の陰に身を潜めた。相手から木陰からはみ出たダンの半身が見えてしまうとしても、そうせずにはいられない。短剣を手に警戒を強めた。そこにいたのは青い野鳥。鳥は木の実を落として遊んでいる。
「……まったく、驚かせるなよ」
その安堵も束の間。
「そこにいては危ないぞ」
背後から声が降ってきた。
ダンは短剣を声の飛んできた方向へ投げる。一直線に刃が閃き、崖下に向かって落下した。
「なんだ、あ――?」
右手をついたが最後、そこから腕が地面を突き抜ける。穴だ。身体は右に傾いた。地面に穴がぽっかりと口を広げ、男の意識もろとも飲み込んだ。
*
「だから、そこは危ないと言ったのに」
全身茶色のローブを纏った何者かが穴の淵にしゃがみこむ。
返答はない。
鼻を利かせると、土と枯葉に混じって血の匂いがした。
これで今日、会った人間は2人目だ。そちらは死んでいたが、こちらは生きている。
「花を巡って争ったのか。まったく、難儀な生き物だなぁ……」
罠に掛かったこの人間を放置していくこともできたが、その場合、夜を越す前に失血死するだろう。
最近、変化のない暮らしに退屈し始めていたところだ。ちょうど良い頃合いだから連れ帰るか。そろそろ花の株分けをするのもいい。
「よし、そうしよう」
彼の頷きに呼応して、何かが蠢く。土より出でしもの――植物の蔦だった。
**
静かだった。
薄闇が瞼を覆い、ぽたりと水滴が当たる。湿った土と青臭い葉の香り。ごつごつとした感触が落ち葉を通して背中にあたる。ひんやりと冷たいのは、自身の体温が高いせいか。
――生きているのか。
ダンはゆっくりと瞼を持ち上げる。乾燥していたのは喉だけではなかったらしい。くっついた皮膚を剥がすような抵抗があった。何度か瞬きを繰り返し、焦点を合わせる。
岩場だろうか、ダンの斜向かいに人がいた。外套で全身を覆い、覗くのは腕だけ。それがダンの知り合いじゃないことは確かだ。
「……あんた、だれだ」
「私はセレク。君は随分と運が良い」
その声は、森の中の――。
恐怖が鮮明に蘇った。ダンは咄嗟に起き上がる。
「あ、あんたはっ、……っごふ」
ダンは噎せた。腹部に痛みが走る。
「無理に身体を動かさないで。傷は洗浄しただけで治療はこれからなんだから」
痛みのもとにダンが手を触れると、左脇腹にかけて布が巻いてあった。
セレクが移動してダンの肩に触れようとしたので、ダンはその手を払う。
「来るな」
ダンは身を反転させ、匍匐前進を始めた。得体が知れない相手の世話になるのはごめんだ。とにかく、光が差す方へ向かう。
「こらこら、逃げない逃げない」
そう言いつつ、セレクは追いかけてこない。
不意に足音――ではなく地面を這う音がして、ダンは振り返った。人の姿はない。
――じゃあ、何が?
それにダンは足首を絡め取られる。
「――どわっ?!」
蔦だ。大量の蔦がダンの身体を巻き取り、元いた方向へと引きずり戻した。
「やぁ、おかえり」
ダンは蓑虫の状態で地面に丸まっている。
「こんなの病人にすることじゃないだろ……」
「この種を飲んでくれるなら、解いてあげるとも」
セレクがしゃがみ、ダンを見下ろした。フードの下からその顔が覗く。村中の女達と比類のないほど、端整な顔立ちだった。
彼の手元には小指の爪ほどの丸い種子。
「なんだよ、その種っつうのは」
「飲めばたちどころに万病を癒す《紫慈の花》の種さ。知らない?」
ダンは目の色を変える。
それなら話は別だ。自分で効果を確かめておかない手はない。売る時の喧伝話にもってこいだ。
「もらう」
「素直でよろしい」
ダンは口を開けて種が放り込まれるのを待った。まだだろうかと、セレクの様子を窺う。
セレクは種を自身の口に含んだ。
「あんたっ、どういうつもりで――」
ダンの言葉が途切れる。
セレクの瞳が、頬が間近にある。唇同士が混ざり合う。深く吸い尽くされ、ダンは混乱した。むっと漂う植物の香りに気が遠くなる。
やがて、セレクが舌先で何かをダンの口腔内に転がし入れる。
唇が離れた。
「飲み込んで」
ダンはその囁きに従う。
いい子だね、とセレクがダンの頭を撫でると、拘束が緩んだ。
「しばらくは動けないだろうから、眠って」
掛布の上に枯葉を盛られ、今度こそダンは見事な蓑虫になったのだった。