五 奥さん
お店の奥さんが亡くなった、翌年だったか、翌翌年だったか、今はもう覚えていない。
主人が、耳が痛いと言っていた。ここ暫くずっと片耳の具合がおかしいと。
中耳炎だといけないから、早く医者に行く方がいい、と話していた。
ゴールデンウイークに、京都の、主人の住む狭い家に戻った。山中の家と違い、五月の京都はすでに初夏と言っていいほど暑かった。
ぐったりと疲れる二時間半の道程の後、泥のように眠った。
翌朝、夢を見た。
たった一度すれ違っただけの、奥さんがいた。
囲炉裏の傍に座って、独り言のように淡々と喋っていた。
私はそれを、ただ眺めていた。
目が覚めて、とっくに起きていた主人の背中に話しかけた。
「奥さんの夢を見たわ。息子さんのことを、すごく心配してはった。それから、耳が、耳がどうとか言ってはった。ちょうど耳が痛いって話をしていたから、こんな夢を視たのかなぁ」
目が覚めたら、夢は曖昧になり、語られていた言葉は朧げなただの音の集まりに変わってしまう。その中で、僅かに記憶に引っ掛かった言葉を拾い上げた。
「奥さん、こっちの耳、聞こえんのよ。旦那に殴られて、鼓膜が破れてなぁ」
主人は、片耳を押さえて言った。調子が悪いと言っていた方の耳だった。
「それに、心配性でなぁ。旦那が話している時でも、いきなりKさんのことを話しだしたりしてはったわ。『Kは身体が弱くて……』、てなぁ。もうええ大人やのに。でも、やっぱり息子さんのことを、心配してはるんやなぁ」
心配しているにしても、どうして私の処へ来るのだろう?
面識もないのに……。
私に話したって、無駄なのに。
主人は、こんな話を他人に話したりはしない。
親切ごかしに、身内の方に話すなんてことはそれ以上に有り得ない。
老舗の丁稚奉公として、うちの主人を十年も店で面倒をみてくれていたのに、そんな事は気にしなかったのだろうか? そんな性格に気付かなかったのだろうか?
それとも、私の周波数が、たまたま奥さんの想いに合ってしまっただけなのだろうか?
その日、私たちは奥さんの墓参りに行った。市内にある有名な寺の墓苑だった。
敷地内の、背の高い木々の濃い緑が落とす日陰を選んで歩いた。綺麗に整備された墓の間を縫うように進んだ。足下の玉砂利の、シャリシャリとした音が耳につく。
たどり着いた奥さんの墓には、供えられたばかりの豪華な花が生けられていた。数日前が命日だった。
私たちの買った粗末な仏花を控えめに隠すように、その花影に差し込ませてもらった。
主人の耳は、「もう少し来るのが遅かったら、聞こえなくなるところだった」、とお医者さまから酷く叱られた割に、すぐに良くなった。