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「セルマ」


 あるじ様が、わたしへ呼びかけた。わたしはあるじ様を見た。あるじ様の双眸は、油断なく、わたしを見据えている。おかしいと、気づいているのだろう。けれども、わたしは言うつもりはなかった。

 わたしは微笑んだ。


「帰るぞ。セルマ」

 わたしは頷く。

「……はい。あるじ様」


 わたしに残された時間は、どのくらい? 何故いまだ、こうしてここに立っていられるのだろう? ただ、あと僅かな間だけだということは、感じている。だからこそ、最期まで、平静であり続けなくては。あるじ様を、騙さなくては。


 しかし。


「――待て!」


 意外にも、いまだ冷静さを残している声音で、リオルナーが言葉を発した。

「このまま帰れると思うのか、ガーウィン。自分が、何をしたか、わかっているのか」

 振り返ったリオルナーの顔を見て、思い違いにわたしは気づいた。冷静なのではない。リンカが帰還した事実に堪えきれないのだ。だから、他のことを、考える。他のことで紛らわせなければ――。


 あるじ様は吐き捨てるように言った。

「聖女をあるべき場所へ帰した。聖女は神からの預かりものだ。神は、『聖女を二度と故郷へ帰すな』などとは言っていない。だが、この国は、聖女に与えるべきだった選択肢を隠し続けていた。それを今代の聖女には明らかにしただけだ。……聖女も、帰りたくなければ、帰らなかっただろう」


 そう。リンカは、自分の意志で、帰った。

 そうであったがために、こんなにもリオルナーは傷ついている。


 最高の結果だった。


 なおも、あるじ様は続けた。


「そもそも聖女とは、よるべのない存在だ。元の世界から見知らぬ土地へ呼び出され――早々に帰還の術はないと教え込まれる。そうなれば、聖女は、自然と己の庇護者を頼るようになる。――そうするしかない。聖女にできる、せめてもの自衛だからだ。そうして結ばれた関係を、運命、とはな」

「何が言いたい……!」

 リオルナーが顔を歪めた。憤怒の色が瞳に宿る。

「このような聖女の状況を、神が許すと思うか?」

「……詭弁だ。ガーウィン、お前はまさか、リンカのために行動したとでも言いたいのか? 笑わせるな! お前こそが神の代弁者だと? 違う! 国を混乱に陥れるためだ。顔に火傷跡のある女――セルマを側におくのも、おれとの過去のせいだったのではないか?」

 あるじ様は、答えない。


 わたしがリオルナー自身に名前を呼ばれたのは、これがはじめてだった。あの日々、わたしは『おい』であり、『女』でしかなかったからだ。リンカの影響力は、実に素晴らしい、と思った。リオルナーの中で、平民のわたしを、名前のある人間にまで昇格させてしまったのだから。

 リオルナーが、わたしへと、話しかけた。


「……セルマ、だったな? 復讐のつもりだったのか」


 何をそんな、当然のことを。


「ええ。わたしはあなたを憎んでいます。リオルナー様。だから、聖女様があなたと結ばれるなど、絶対に許せない。あなたがリンカを幸せになどできるものですか」

「おれはあの頃とは、違う。……リンカを愛している。お前にも、すまないことをしたと思っている。非道な行いをしたと。……嘘ではない」

 半ばで、リオルナーが項垂れた。


「そうですか。非道だったと自覚したから、何だというのですか」

「……どういう意味だ」

 項垂れていたリオルナーが、顔をあげた。


「改心したから、後悔したから、何だというのですか。そもそも、貴族にとって、平民の小娘などは、とるにたらないものだったでしょう。あなたにとっては、そういうものだったのですから。だから、それはそれでいいのです。それがこの国の、貴族と平民のあり方でしょう」


 わたしも理解している。


「そして、そういうものだとはわかった上で、わたしはあなたを憎み続けます。呪い続ける。死ぬまで。いいえ、死んでも。決して許しはしない。リオルナー様。この世には決して許されぬ罪もあるのです。だって、リオルナー様。わたしは生きています。では、死んでいった女たちはどうなるのですか。いまのあなたは、あなたが直接手を下したのではないにせよ、彼女たちにも謝りたいと思っているのでしょうね。原因にはなったのですから。でも、どうやって謝ると? 死者と話すことなど生者にはできません。死んで詫びますか? ……無理でしょうね」


 リオルナーの立場的にも。

 後悔したとはいえ――そこに偽りはないにしろ――死んで彼女たちに謝りに行くほどのものではない。


 前向きな後悔、とでも形容すべきだろうか?


 わたしのようになぶり捨てられてきた幾人もの女たちが、そう、中にはただ死ぬのではなく――ひどい死に方をした女だっていたはず。彼女たちは許すすべをもうもたない。


 ランベール伯爵の言っていた言葉を思い出す。

 変わったから許してやれ? 


 あの絶望を、屈辱を味わっていない、リオルナーの友人にしかすぎない人間が、どうして知ったような顔をして許してやれなどと言えるのか。許しを請うのか。己の罪が許されたと思いたいから?

 なんと傲慢な。

 生ぬるい。意識を改めたところで、リオルナーもその友人も、どこまでも中途半端なのだ。

 ならば。


 ――最後まで憎むべき敵であれ。


「……リオルナー様。いっそ、あなたは、わたしのことも、死んでいった女たちのことも、気にするべきではありませんでした」


 そのほうが幸せだったでしょうに。

 リンカと出会うまでは、わたしの気持ちなど、想像もできなかったのでしょう?

 とるに足らない存在だからです。

 自分と同じ舞台に立つ人間だとは思っていなかったから。少なくとも、同等の価値の命を持つ存在ではなかった。


 でも――不幸ですね。


 リンカの影響で、あなたの中で、人間の範囲が広がった。

 そこに、気持ちが伴うようになったのでしょう?


 昔なら、きっと、あなたは平民を殺しても、何も感じなかった。

 逆に平民が何かをしでかしても、せいぜいあなたは不愉快になるだけだったでしょう。とるにたらないものに、良くも悪くも深い感情など抱かないからです。


 でも、いま、あなたは、平民を殺したら、なにがしかの感情を得るでしょう。

 たとえば、罪悪感?

 平民が何かをしでかしたら――心を揺さぶられる。


 リンカの残した、優しくて残酷な置き土産。


「リオルナー様。あるじ様の手足となって動いていたのはわたしです。リンカに今回、接触したのもわたし。この場へ誘ったのもわたし。わたしは、リンカがあなたを捨て、帰るきっかけとなった一つなのです。わたしが憎いですか?」


「…………」


 リオルナーは押し黙っている。けれども、その瞳には、見え隠れしていた。


「わたしを殺せるものなら殺したいですか? そうすれば、リオルナー様の感じている胸の痛みも、少しは慰められるかもしれません」

「っ!」

 その手が、腰に帯びていた剣の柄にかかる。ついに、リオルナーは吐き出した。


「憎いに決まっているだろう! お前たちが、お前が、何もしなければリンカは帰らなかった! お前たちのせいで、リンカは――!」


「――でもきっと、そんなことをしたら、リンカは悲しむでしょうね」


 苦悩が、リオルナーの顔に浮かぶ。リンカの残した呪縛は、リオルナーがリンカを愛する限り、リンカがいなくなっても、リオルナーを苛み続ける。 


「あなたが何者かを殺めるということに対して。その対象が、わたしであることに対して」


 優しいリンカ。

 でも、そんなのは、この国では当然のことなのに。

 貴族は一時の激情で平民など殺しても構わない。貴族の命は重く、平民の命は軽い。

 変わってしまったリオルナーの意識とは、もう相容れない。


 リンカのもたらした平等という意識は、とてもとても素晴らしく、残酷だ。


 それでも、リンカが側にいれば、この乖離は、どうとでもなったろう。

 ところが、リンカはもういない。リオルナーは救われない。

 たかが平民を憎んでしまうまでになったのに。

 そのくせ、リオルナーはわたしを殺すこともできない。

 それもまた、リンカへの想いゆえに。


 やり返した。

 わたしは、リオルナーに、やり返してやった。


 勝利に酔いしれた瞬間、それはやってきた。


 ああ。時間なのですね。


 ――どうぞ。神様。

 あるじ様が、得体の知れないものと言った、神よ。

 約束しましたね。

 思いもよらなかった猶予をいただき、感謝しております。

 リンカの帰還のための贄として、どうぞ、わたしの命を――。

 お納めください。


 これで、あるじ様も……。


 身体が、重くなる。

 わたしは、倒れた。

 でも――誰かが、受け止めた。


 ……あるじ様?


「セルマ!」


 そうして――わたしの意識は闇に沈んだ。


 死へと。



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