7
「セルマ」
あるじ様が、わたしへ呼びかけた。わたしはあるじ様を見た。あるじ様の双眸は、油断なく、わたしを見据えている。おかしいと、気づいているのだろう。けれども、わたしは言うつもりはなかった。
わたしは微笑んだ。
「帰るぞ。セルマ」
わたしは頷く。
「……はい。あるじ様」
わたしに残された時間は、どのくらい? 何故いまだ、こうしてここに立っていられるのだろう? ただ、あと僅かな間だけだということは、感じている。だからこそ、最期まで、平静であり続けなくては。あるじ様を、騙さなくては。
しかし。
「――待て!」
意外にも、いまだ冷静さを残している声音で、リオルナーが言葉を発した。
「このまま帰れると思うのか、ガーウィン。自分が、何をしたか、わかっているのか」
振り返ったリオルナーの顔を見て、思い違いにわたしは気づいた。冷静なのではない。リンカが帰還した事実に堪えきれないのだ。だから、他のことを、考える。他のことで紛らわせなければ――。
あるじ様は吐き捨てるように言った。
「聖女をあるべき場所へ帰した。聖女は神からの預かりものだ。神は、『聖女を二度と故郷へ帰すな』などとは言っていない。だが、この国は、聖女に与えるべきだった選択肢を隠し続けていた。それを今代の聖女には明らかにしただけだ。……聖女も、帰りたくなければ、帰らなかっただろう」
そう。リンカは、自分の意志で、帰った。
そうであったがために、こんなにもリオルナーは傷ついている。
最高の結果だった。
なおも、あるじ様は続けた。
「そもそも聖女とは、よるべのない存在だ。元の世界から見知らぬ土地へ呼び出され――早々に帰還の術はないと教え込まれる。そうなれば、聖女は、自然と己の庇護者を頼るようになる。――そうするしかない。聖女にできる、せめてもの自衛だからだ。そうして結ばれた関係を、運命、とはな」
「何が言いたい……!」
リオルナーが顔を歪めた。憤怒の色が瞳に宿る。
「このような聖女の状況を、神が許すと思うか?」
「……詭弁だ。ガーウィン、お前はまさか、リンカのために行動したとでも言いたいのか? 笑わせるな! お前こそが神の代弁者だと? 違う! 国を混乱に陥れるためだ。顔に火傷跡のある女――セルマを側におくのも、おれとの過去のせいだったのではないか?」
あるじ様は、答えない。
わたしがリオルナー自身に名前を呼ばれたのは、これがはじめてだった。あの日々、わたしは『おい』であり、『女』でしかなかったからだ。リンカの影響力は、実に素晴らしい、と思った。リオルナーの中で、平民のわたしを、名前のある人間にまで昇格させてしまったのだから。
リオルナーが、わたしへと、話しかけた。
「……セルマ、だったな? 復讐のつもりだったのか」
何をそんな、当然のことを。
「ええ。わたしはあなたを憎んでいます。リオルナー様。だから、聖女様があなたと結ばれるなど、絶対に許せない。あなたがリンカを幸せになどできるものですか」
「おれはあの頃とは、違う。……リンカを愛している。お前にも、すまないことをしたと思っている。非道な行いをしたと。……嘘ではない」
半ばで、リオルナーが項垂れた。
「そうですか。非道だったと自覚したから、何だというのですか」
「……どういう意味だ」
項垂れていたリオルナーが、顔をあげた。
「改心したから、後悔したから、何だというのですか。そもそも、貴族にとって、平民の小娘などは、とるにたらないものだったでしょう。あなたにとっては、そういうものだったのですから。だから、それはそれでいいのです。それがこの国の、貴族と平民のあり方でしょう」
わたしも理解している。
「そして、そういうものだとはわかった上で、わたしはあなたを憎み続けます。呪い続ける。死ぬまで。いいえ、死んでも。決して許しはしない。リオルナー様。この世には決して許されぬ罪もあるのです。だって、リオルナー様。わたしは生きています。では、死んでいった女たちはどうなるのですか。いまのあなたは、あなたが直接手を下したのではないにせよ、彼女たちにも謝りたいと思っているのでしょうね。原因にはなったのですから。でも、どうやって謝ると? 死者と話すことなど生者にはできません。死んで詫びますか? ……無理でしょうね」
リオルナーの立場的にも。
後悔したとはいえ――そこに偽りはないにしろ――死んで彼女たちに謝りに行くほどのものではない。
前向きな後悔、とでも形容すべきだろうか?
わたしのようになぶり捨てられてきた幾人もの女たちが、そう、中にはただ死ぬのではなく――ひどい死に方をした女だっていたはず。彼女たちは許すすべをもうもたない。
ランベール伯爵の言っていた言葉を思い出す。
変わったから許してやれ?
あの絶望を、屈辱を味わっていない、リオルナーの友人にしかすぎない人間が、どうして知ったような顔をして許してやれなどと言えるのか。許しを請うのか。己の罪が許されたと思いたいから?
なんと傲慢な。
生ぬるい。意識を改めたところで、リオルナーもその友人も、どこまでも中途半端なのだ。
ならば。
――最後まで憎むべき敵であれ。
「……リオルナー様。いっそ、あなたは、わたしのことも、死んでいった女たちのことも、気にするべきではありませんでした」
そのほうが幸せだったでしょうに。
リンカと出会うまでは、わたしの気持ちなど、想像もできなかったのでしょう?
とるに足らない存在だからです。
自分と同じ舞台に立つ人間だとは思っていなかったから。少なくとも、同等の価値の命を持つ存在ではなかった。
でも――不幸ですね。
リンカの影響で、あなたの中で、人間の範囲が広がった。
そこに、気持ちが伴うようになったのでしょう?
昔なら、きっと、あなたは平民を殺しても、何も感じなかった。
逆に平民が何かをしでかしても、せいぜいあなたは不愉快になるだけだったでしょう。とるにたらないものに、良くも悪くも深い感情など抱かないからです。
でも、いま、あなたは、平民を殺したら、なにがしかの感情を得るでしょう。
たとえば、罪悪感?
平民が何かをしでかしたら――心を揺さぶられる。
リンカの残した、優しくて残酷な置き土産。
「リオルナー様。あるじ様の手足となって動いていたのはわたしです。リンカに今回、接触したのもわたし。この場へ誘ったのもわたし。わたしは、リンカがあなたを捨て、帰るきっかけとなった一つなのです。わたしが憎いですか?」
「…………」
リオルナーは押し黙っている。けれども、その瞳には、見え隠れしていた。
「わたしを殺せるものなら殺したいですか? そうすれば、リオルナー様の感じている胸の痛みも、少しは慰められるかもしれません」
「っ!」
その手が、腰に帯びていた剣の柄にかかる。ついに、リオルナーは吐き出した。
「憎いに決まっているだろう! お前たちが、お前が、何もしなければリンカは帰らなかった! お前たちのせいで、リンカは――!」
「――でもきっと、そんなことをしたら、リンカは悲しむでしょうね」
苦悩が、リオルナーの顔に浮かぶ。リンカの残した呪縛は、リオルナーがリンカを愛する限り、リンカがいなくなっても、リオルナーを苛み続ける。
「あなたが何者かを殺めるということに対して。その対象が、わたしであることに対して」
優しいリンカ。
でも、そんなのは、この国では当然のことなのに。
貴族は一時の激情で平民など殺しても構わない。貴族の命は重く、平民の命は軽い。
変わってしまったリオルナーの意識とは、もう相容れない。
リンカのもたらした平等という意識は、とてもとても素晴らしく、残酷だ。
それでも、リンカが側にいれば、この乖離は、どうとでもなったろう。
ところが、リンカはもういない。リオルナーは救われない。
たかが平民を憎んでしまうまでになったのに。
そのくせ、リオルナーはわたしを殺すこともできない。
それもまた、リンカへの想いゆえに。
やり返した。
わたしは、リオルナーに、やり返してやった。
勝利に酔いしれた瞬間、それはやってきた。
ああ。時間なのですね。
――どうぞ。神様。
あるじ様が、得体の知れないものと言った、神よ。
約束しましたね。
思いもよらなかった猶予をいただき、感謝しております。
リンカの帰還のための贄として、どうぞ、わたしの命を――。
お納めください。
これで、あるじ様も……。
身体が、重くなる。
わたしは、倒れた。
でも――誰かが、受け止めた。
……あるじ様?
「セルマ!」
そうして――わたしの意識は闇に沈んだ。
死へと。