6
この一年――わたしは、多くのものを見た。
あるじ様の『俺が何を行おうとも』という言葉通りに。
まず、聖女様へ手を伸ばす前に、あるじ様は地盤固めをする必要があった。あるじ様の当主就任は、ありえない番狂わせだったからだ。
たくさんの火の粉を払わなければならなかった。
非道と言われる行いもあった。血も流した。
わたしは死に慣れ、表情を作ることを覚え、公爵家に仕えるための作法や、知識を貪欲に習得した。
あるじ様は悪名を欲しいままにし、わたしはあるじ様の側近として認知されるようになった。
二大公爵家の対立も激しくなった。
爵位を継ぎ、公爵となったリオルナーは、聖女様を守ろうと必死になっている。
守りは固く。聖女様への手の者の接触や、誘拐はことごとく失敗した。
けれども、証拠は残していないので、リオルナーはあるじ様を告発することはできない。
わたしはあるじ様と共に、指定しておいた場所で、聖女様――リンカを待っていた。
リンカに会い、祝いの言葉を述べたとき、彼女に渡したものがある。
『もし聖女様が故郷に帰りたいと思っているなら、降臨祭の日、六の刻、聖女様がはじめに降り立った地へおいでください』
そんな文章を記した紙切れだ。
握って、不思議そうにしていた。あとから、読んだはず。
そしてきっと――来る。
リンカが降り立った地は、王都の外れにある遺跡群だった。中心にある泉から光の柱が迸り、そこからリンカは現われたのだという。見つけたのが、コルエン公爵の命令で遺跡の調査に訪れていたリオルナー。リンカが降臨した正確な場所は秘され、一般には遺跡群への立入も禁止とされている。
召喚の場は、帰還の場でもある。
あるじ様に知らされた、リンカの帰還方法は、驚くほど簡単だった。
召喚したのと同じ日、同じ時間帯に、契約の血筋――ガーウィン公爵家の人間が、一滴の血を捧げる。すると、リンカが通ってきた道が、開く。
おそらくは、光の柱が再度出現する。
リンカは、そこへ飛び込むだけ。
そうすれば、自分の世界へ帰ることができる。
今日は、リンカがやってきて、ちょうど一年。
国は、リンカの訪れた日を、新たな祝祭の日として定めていた。
それが今日、降臨祭の日だ。雪だった一年前とは違い、空は晴れ、天気は穏やかで、冬にしてはあたたかい。
この日を無事迎え、終えた後。
明日、リンカとリオルナーの結婚式が行われる予定だった。国中が待ち望んでいる。
「セルマさん!」
息を切らして、リンカはやってきた。しきりに後ろを気にしている。
「護衛の人をまいてきたけど、あまり時間が――」
そこでリンカは言葉を切った。わたしだけでなく――あるじ様の姿を認め、怯えた様子を見せている。わたしは微笑んだ。
「ようこそ、リンカ。こちらは、ガーウィン公爵。フリード・エルレー様。わたしがお仕えしている方です」
「どういう、こと? どうしてその人が」
「『もし聖女様が故郷に帰りたいと思っているなら、降臨祭の日、六の刻、聖女様がはじめに降り立った地へおいでください』。そう書いた紙をわたしはリンカに渡しました。そのために、あるじ様にも来ていただく必要がありました。周囲に何を言われているのかは想像がつきますが、わたしもあるじ様も、リンカを傷つけるつもりなどありません」
あるじ様は、国に安寧をもたらす聖女様が邪魔で、殺そうとしていると、まことしやかに囁かれている。
傷つける? まさか。
わたしもあるじ様も知っている。聖女として召喚されたリンカは、何の非もない少女。いまもって、この国に幸福を奪われ続けている。
そんな存在に対し、どうして危害を加えられるだろう。
もしここにリンカが来なかったら、最後の手段として、あるじ様もこれまでリンカに対しては控えていた、強攻策に踏み切ったかもしれない。だとしても、傷つけるな、と指示は付け加えたはず。彼女の死など望んでいないのだから。
「……うん」
まだ緊張している様子ではあるものの、わずかにリンカが警戒をといたようだった。
「セルマさん。この間も、そう言ってたもんね」
――セルマさんは、嘘をついてない。
小さく、どこか憂いを秘めて、リンカが呟いた。
「はい」
リンカが、わたしへと近寄ってくる。わたしは苦笑した。泉のすぐ側に立っているあるじ様のことは怖いようだ。
「あの……セルマさん」
彼女の澄んだ瞳には、期待と不安があった。
「わたし……わたし、帰れるの?」
「リンカは、周囲の方に、なんと言われていたのですか?」
「――帰れないって。この世界に来た頃、国王陛下から……。他の人に訊いても、聖女が帰った例はないって……。誰も、帰れるって言った人はいなくて……」
わたしは、リンカが、わたしの渡した紙切れを握りしめているのに気づいた。
「セルマさんから貰った紙を、一人になったときに読んだの。――すごく、驚いたよ。でも、信じたいけど、信じられなかった。だから……だからね、もう一度だけ、誰かに『帰れるの?』って訊いてみようって思った。訊く人は、レイしか思い浮かばなかった。わたしはレイを、一番信用していた、から」
一度目にリンカに尋ねられたとき、リオルナーは『帰れる』とは知らなかったのだろう。
二度目のときは、聖女様の伴侶となると決まっていたのだ。『帰れる』と知らされていたはず。
「リオルナー様はなんと?」
「……帰れないって。でも」
悲しそうに、リンカは続けた。
「前に訊いたときと、ちょっとだけ、レイの様子が違った。好きな人のことだからね、――わかった」
愚かなリオルナー。正直に答えていれば、きっとリンカは、ここには来なかった。
「……リンカ」
「ねえ、セルマさん。わたし、帰れないんだよね?」
帰れるのか、ではなく、帰れないはずだと、念をおすかのような問い。
私は返事を躊躇ってしまった。
愛する人は嘘をついていないと信じたいという想いと、帰りたいという想い。
どちらが、リンカの中で強いのだろう。
「聖女。お前は帰れる」
あるじ様の声が響く。泉に、血が一滴、落とされた。
泉から、光の柱が出現する。
その瞬間、わたしは胸をおさえた。よろめきそうになってしまった。あるじ様の表情が、微かに揺れたのを知る。
胸から手を離し、わたしは足に力を入れた。倒れるわけにはいかない。まだ、倦怠感があるだけだ。立っていられる。
――大丈夫。あるじ様に、悟られてはならない。
「嘘……」
リンカが泉を振り返り、その光景に震える呟きを漏らした。
あるじ様は、リンカに話しかけた。
「帰りたいなら、この光に飛び込め、聖女。――お前は、帰りたいんだろう?」
唖然と、光の柱をリンカは凝視している。
そして、ぐっと拳を握りしめた。歯を、食いしばっている。
「これを逃したら、二度と帰れない」
リンカは、迷っているようだった。それでも、動かない。
――どこかで、馬の嘶きがした。リンカを捜す者たちだろう。
「もうすぐ、邪魔者どもがやってくる。……奴らは、お前を帰さない」
あるじ様の言葉を受けて、リンカが一度目を閉じた。すぐに開くと、わたしに向き直った。
「ありがとう、セルマさん」
言うと同時に、小柄な少女は、泉へと走り出した。
けれども。
「リンカ!」
叫び声に、彼女の足が止まった。馬で駆けてくるリオルナーだ。
わたしは息を呑んだ。忘れもしない。変わらない、その姿。金色の髪。緑色の瞳。若い娘なら、誰もが憧れるその容姿。――わたしの悪夢そのもの。
「リンカ! 行くな!」
凍り付いたようにリンカは動かない。どんどんリオルナーが接近してくる。
邪魔は、できなかった。
この場で選ぶのは、リンカだ。それは、彼女自身の意志でなければならない。
願わくば――。
「聖女。忘れたのか? お前は、故郷で幸せだったろう? すべてを捨てることができるのか? 信頼のできない者のもとで」
あるじ様は――わたしを見ていた。
立ち止まっていたリンカが、迷いから覚めた様子で、キッとリオルナーが駆けてくる方向を睨んだ。
リンカもリオルナーも、互いの姿がはっきりと見える距離だ。
「レイ! そこで止まって! 来ないで、わたしの質問に答えて!」
リオルナーが手綱を引き、馬を停止させる。馬から降りた。
「答える。答えるから、行くな。リンカ」
声も、聞こえる距離だ。
「うん。質問は、一つだけ。――本当のことを教えて。答えて」
「本当のことを教える」
リオルナーが頷いた。
「レイ。わたしは、わたしの世界に帰れるの? 帰る方法はある?」
リオルナーは、心臓を掴まれたような顔をした。この男は、こんな顔をできるのかと思った。ランベール伯爵の言葉を思い出す。変わったのだ、という。――変わらなければよかったのに。
「……帰れる」
「レイは、知ってた?」
「数日前に、知った」
「……わたし、それを、あのときに聞きたかった。……レイは、知ってたのに! わたしが、どんなに帰りたがってたか……! どんなに、家族に……! それなのに!」
「……言ったら!」
リオルナーが叫んだ。
「言ったら、帰っただろう! おれは喪いたくなかった!」
「そんなの、わかんないよっ! でも、でも、もし、レイが本当のことをあのときに教えてくれていたら……もし、そうだったら――」
その先を、なんとリンカが続けようとしていたのかは、想像するしかない。かぶりを振ったリンカは、別の言葉を紡いだ。
「セルマさんや、ガーウィン公爵は、悪くない。ちゃんと、言っておくね。……これはね、これは、わたしが選んだことだから」
彼女は、決意したのだ。
「リンカ?」
恐れを、リオルナーがその顔に浮かべる。喪う恐怖。喪う、予感。
リンカは、未練を振り切るように、動き出した。泉へと駆け出す。
リオルナーが追う。
光の柱へ、リンカが飛び込んだ。
リオルナーがリンカへ手を伸ばした。光の中へ、わずかにリオルナーの手が届く。
けれども、そこまで。
――光の柱が、消えた。
泉は、ただの泉へ。
リンカの姿は、もう、どこにもない。
光の柱があった場所へ――虚空へ手を伸ばしたリオルナーが立ち尽くしているだけ。
残された男は、伸ばしていた手で拳をつくり、がくりとその場に膝をついた。