5
フリード・エルレー。それが、男の正式な名前だった。
二大公爵の一つ。ガーウィン公爵家の三男。
――光の柱が、国で確認され、聖女が降臨した日。フリード・エルレー以外、ガーウィン公爵家の人間は、全員が死亡した。
公爵だった父親と次男は、屋敷で何者かに殺害され。
次期公爵だった長男は、数日遅れて、森の中で他殺体となって発見された。ただ、死亡した日は、父親や次男と同じだと判断された。
行方不明で、生死もわからない三男のフリードは、ずっと捜索されていた。
生きていたから――彼が、自動的に公爵を継ぐことになるらしい。
わたしは、ガーウィン公爵家の本邸にいた。
公爵を助けた人間として、恐れ多くも招かれたのだ。
身体を洗われ、磨かれ、服を与えられ、顔の火傷跡には、念入りに化粧を施された。わたしの姿は、よほど見苦しかったのだろう。
客室の寝台に、座る。
こうしていると――陵辱の日々を思い出す。心が腐ってゆくのを感じる。
部屋の扉が開き、わたしは振り返った。
男が――フリードが立っていた。
一時は死にかけていたフリードの怪我は、とうに完治していた。
もちろん、通常では、ありえない。彼が、ただびとには決して受けることのできない最高の治療を受けたからこそだ。
この国には、ごくごくまれに、神治と呼ばれる特別な力を持った人間が生まれる。
神が授けた、あらゆる病や怪我を治す力を持つ者。神治師。遠い遠い存在。
対象が生きてさえいれば、何をも癒やすことができるため、大抵の場合、彼らは有力者に保護されている。治療の恩恵に預かれるのも、選ばれたほんのひとにぎりの人々だけだ。
――王家や、二大公爵家のような。
片手の数で足りるほどしかいない神治師の一人は、ガーウィン公爵家に仕えていた。
その神治師は、あっという間にフリードを治してしまった。
「…………」
わたしの前に立ったフリードを、見上げる。
何の用だろう。
「……口封じにでもきたの?」
畏まるのが、正しい。こんな言葉遣いも、この問いの内容も、ガーウィン公爵家の当主相手に、正気の沙汰じゃない。でも――何も、怖いことなんかない。腹が立ったのなら、邪魔なら、フリードはわたしを殺せばいいのだ。いつだって、そうできる。わたしも、死んでもいい心持ちになっている。失せていた、死ぬ気が、復活している。
「自分の家族を殺したの?」
わたしは無遠慮な質問を続けた。
森でフリードが殺した男。あれがきっと長男。
父親と次男の死には? フリードは関わっている?
「お前も見ただろう? 兄は、殺した」
何の感情も見せず、殺したのは長男だけだ、とフリードは言った。
父親も、次男も、フリードは殺していない。
なら、そうなんだろう、と淡々とわたしは思った。
けれども。
「どうして?」
どうしてフリードは、あの日、森で兄と争っていたのだろう。
「――聖女を呼ぶために、死にたくなかったからだ」
大きく、息が吐かれた。
「嫌気がさした。だから、全部壊してやろうと思った」
わたしは瞬きした。
聖女。聖女は、神のご意志によって国へ使わされる尊き人。
神の啓示が国にもたらされ、そのときに召喚が行われる。
聖女とは、異世界からやってくる、幸運を運ぶ者。
聖女がいる間、そして聖女が幸せであればあるほど、国には繁栄がもたらされる。
だから聖女は大切にされ、愛される。
聖女とは、神から人への大切な預かりもの。
祖母から聞いた話だ。祖母の代にも、聖女様がやってきた。途端、悪天候はたちまちおさまり、作物も大豊作の年が続いたという。
一度、祖母は遠目で聖女様のお姿を見た。だから、こんなにも元気なのだ、というのが祖母の自慢だった。実際、祖母は長生きをした。
フリードは、わたしの――この国の民なら誰もが持っているであろう聖女様に関する常識を、真っ向から否定した。
「神の啓示? そんなものはない。いつ喚ぶかは、国が国の都合で決める。どこまでも人為的に聖女は召喚される。ガーウィンは、この召喚を密かに担うことによって、二大公爵家にまでのしあがった。だが、セルマ。何故我がガーウィンが、聖女の召喚を行えると思う?」
わたしは首を振る。フリードの語るすべてが、現実離れしていた。でも、嘘とも思えない。だって、わざわざわたしにこんな嘘をつく必要なんて、ない。
――ガーウィン公爵家の先祖が、得体の知れないものと契約し、力を得たからだ、とフリードは言った。
得体の知れないもの? そうではなく、この国の神なのではないか、とわたしは思った。
けれどもフリードは嘲笑した。
また別の問いをわたしへ投げかけた。
「聖女の召喚には、何が必要だと?」
わからない。わたしはまた首を振った。
「命だ。契約ゆえに、生贄はガーウィン公爵家直系の血筋から選ばれる。そういう人間が必ず生まれる。生贄として、最も強い素養が認められたものを殺し捧げることで、得体の知れないものは満足し、聖女を喚ぶ。こうして召喚は成功し続け、この国は聖女を適宜呼び続けてきた」
……生贄。
「フリードが?」
「俺が殺されるはずだった。死ぬために生かされてきたのが俺だ。だから、ガーウィン公爵家の三男は、これまで表舞台に出たことはない。死ぬことが決まっているのに、社交など無駄なだけだからだ」
――フリードは生きている。
――それなのに、聖女様は降臨している。
わたしの心に浮かんだ疑問を読んだかのように、フリードが答えた。
「必要な条件が揃えば俺でなくても良かったということだろう。……俺が兄を殺したとき、光の柱が立った」
直後、一瞬だけ、フリードの顔が歪んだ。兄を殺した後悔? 違和感を覚えた。後悔は後悔でも、理由は違う。なんとなく、そう感じた。
「ただ、聖女が降り立った場所は常とは違った。王城にあらわれるはずがあらわれず、聖女を保護したのはコルエン公爵の子息だった」
ピクリ、とわたしは痙攣した。
その名前は、大きくわたしを揺さぶった。
コル、エン? 子、息?
あえぐように、唇を動かす。
「レイモンド・リオルナー・フィーゼ?」
「……そうだ」
なぜ、奴が、登場するの?
「動向を調べさせた。聖女は懐いているようだ。コルエン次期公爵も、聖女を気にかけている」
祖母の代の聖女様は、王城で最初に出会われ、聖女様を保護された王子殿下と結ばれた。
他の聖女様たちも、はじめに出会った男性が庇護者となり、後に結ばれたと伝えられている。
運命と、人は呼ぶ。
聖女様は、運命の人の前に、常に降りたつのだと。幼い頃、憧れていたおとぎばなし。
今回も、同じように、聖女様と、リオルナーが?
そうして、二人は幸せに暮らしました? そんな夢物語が紡がれるというの?
「――なんで!」
目の前が真っ赤になった。思わず立ち上がって、激情をもてあます。
「どうしてよ! どうしてあんな奴が、聖女様を保護するの?」
「セルマ?」
わたしを落ち着かせようとして腕を掴んだフリードの胸を、両拳で叩いた。
「ふざけるな! 聖女様と幸せになるの? あいつがっ? っ! そんなの! そんなの、絶対に許さない!」
何度も、叩いた。フリードはビクともしない。どうしてか、腕を掴んでいるはずなのに、フリードはわたしの好きにさせていた。
視界がぼやける。
「そんなの……」
涙がこぼれた。悔しい。悔しい悔しい悔しい。
暗く醜いわたしの願い。あの男が、不幸になればいいと全身全霊で願っていた。コルエン公爵家の権力が衰えることはないだろう。でも、あんな男だ。愛のない結婚をするに違いない。満たされない冷たい家庭を築き、せめて、せめて少しでも、不幸であってくれればいいと――。
それなのに、奴が聖女様の運命の相手だなんて。
そんなの。
身体から力が抜けた。
「セルマ」
「…………」
呼ばれて、のろのろとわたしは顔をあげた。
フリードがどんな表情をしているか、ぼやけて見えない。
「お前は、俺の話を聞いた。お前も、俺に話してみるか」
「はな、し?」
「ああ」
誰も、わたしの話なんて――貴族に平民の娘が遊ばれて、捨てられた話なんて、聞きたがらなかった。あの屋敷をたたき出されたときには、わたしが語るまでもなく、わたしの家の周囲には知れ渡っていた。
それに、陳腐な、よくある話だったから。聞かなくても、わかる。どうせ、細部がほんの少し、違うだけ。
そんな反応がすべてだった。
フリードにこうして問われてはじめて、わたしは理解した。
わたしは、ずっと、誰かに、陳腐であろうと、自分に起こった悲劇を、聞いて欲しかった。
そして、可哀想だねと、同情して欲しかった。
共感が、欲しかった。
それだけでも、わたしは、救われたのに。
父さんも、母さんも、誰も。
「つまらない、話よ」
「そうか」
「それでも、構わないなら」
「ああ。構わない」
わたしの、よくある話を聞き終えたフリードは、わたしの顔に手を伸ばした。
最初は、怪訝に思った。どうしたのだろうと。けれども、フリードの意図を理解して、わたしは顔を強ばらせた。
それを知ったフリードの指が、止まる。躊躇い、遠ざかった。
「……待って。大丈夫」
フリードなら、怖くない。――不思議なことに。
節ばった指が、わたしの顔にある、火傷の跡に触れた。
「これは、自分で焼いたものだったのか。汚れた、とお前が自分のことを言ったのも――過去のせいか」
わたしは頷いた。沈黙が落ちる。わたし顔の傷跡を撫で、フリードが口を開いた。
「聖女が――召喚されたのは、予想外だった。聖女召喚の計画が動き出したとき、俺は、俺が死ななければ召喚は失敗すると思っていた」
そうなのか、とわたしは納得した。
光の柱をみたとき、思い返せば、フリードは驚いていたようだった。
「召喚当日までに、逃げ出す準備をしてきた。だが、逃げ出したことが知られれば、ガーウィン公爵家は死にものぐるいで俺を追うだろう。……あの山小屋はその際、一時的に潜伏するためのものだった。逃げ切り、新しい人生へ旅立つために」
『俺を助けても、得るものは何もないぞ。俺には、何もない。放っておけ』
聖女様は召喚され――そして兄を殺していたフリードは、だから、あのとき、ああ言ったのだ。あそこで助かっても、どうせガーウィン公爵家に追われ、殺されると思っていたから。
「ところが、結果はどうだ。俺以外は死に、結局、聖女は現われた」
「誰が――彼らを」
「父たちか」
フリードが嘆息した。
「自滅だ。俺が逃げ、見つからず――父は代用を立てようとした。他の息子で。ところが抵抗され、殺し合いをした。同じ日、俺もまた、俺を探し出した兄と殺し合いをした」
そうして、いまや、フリードは、ガーウィン公爵だ。
「……これが、聖女の召喚で起きたことだ。セルマ。お前は、聖女とレイモンド・リオルナー・フィーゼが幸せになるのが許せないと言ったな」
許せない。許せないに決まっている。
リオルナーの幸せが。リオルナーに幸せをもたらすというのなら、聖女様でさえも。
でも、フリードはどうしてこんなことを聞くのだろう。なぜ、召喚の話などを改めてしたのだろう。
「おかしいと思わないか」
……え?
「こんな方法で召喚された聖女が、何故幸せになれる?」
「それ、は、大切にされて、愛されて……」
聖女様とは、幸福の象徴。
「――召喚された聖女は、幸福を喰われる」
「……喰われる?」
「どんな者が聖女になるかは決まっている。標的となった異世界で、幸せに暮らすはずだった少女だ。おとぎ話のように、両親に愛され、本人も心優しく、満たされた――。その幸福を奪い、国へ降り注ぐよう転化する。召喚の際、第一の生贄として必要なのが、ガーウィンの人間であるとするなら、召喚後の、第二の生贄は、聖女そのものだ」
聖女様が、生贄?
「聖女は、誰一人として、故郷へ帰ったことはない。何故だ?」
知っている。聖女様は、誰もが、運命の人と結ばれ、この国に骨を埋める。帰った方はいない。
「こちらを、選んだ、から?」
「全員が、望郷の思いを完全に捨てたというのか? 幸せだった故郷を?」
それなら――聖女様たち本人にも、帰りたいと思っても、どうにもならなかったのかもしれない。
どうにもならないこと。
「帰る方法が、なかったから?」
フリードはかぶりを振った。
「帰る方法はある」
あ、る?
「先祖が契約した際、召喚の方法と共に、聖女を帰す方法も教えられた。ただし、聖女を帰すことに利点はない。国にとっても、ガーウィン公爵家にとっても。だから、聖女は帰らせない。帰れることを知らず、帰ることはできないと伝えられ――聖女はやがて諦め、順応する。この国が聖女をことさらに大切にするのは、そのためだ。哀れな存在だ、聖女は」
フリードは、死にたくなかった。けれども、それだけではないのだろう。
きっと、聖女を、呼びたくなかったのだ。
「リオルナーは……聖女様を帰せると、知っているの?」
「聖女の伴侶と決まれば、知らされる。だが――歴代の聖女の伴侶は、聖女に真実を知らせてはいない」
あの男が……あの男が、聖女様と心を通わせたとして……真実を伝えるだろうか?
――伝えるはずが、ない。
「フリード……。フリードは、聖女様を、帰してさしあげることが、できる? わたし、わたしは、聖女様が、もし真実を知って、帰りたいと仰ったのなら、帰してさしあげたい」
言葉だけなら、美しい申し出のように聞こえるかもしれない。
でも、そんなものじゃなかった。
聖女様を帰したら、わたしは、勝てる。
何かに。リオルナーに。
少女を一人救い、善行に酔いしれることができる。
国への影響? だって、召喚は、人間の都合で決めて、人間が行っているんでしょう?
聖女様の召喚は、絶対のものでは、ないんでしょう。
なら、いらないじゃないの。
「――できる。帰還の方法自体は召喚よりも簡単だ。だが、難しいぞ。その行為は多くを敵に回す。国にとって、俺たちがなすのは悪行だ。それでも、俺の共犯者になれるか?」
――もちろん。もちろん。
わたしは、顔の火傷跡に置かれたフリードの手に、手を重ねた。
そしてそっと、自分の手ごと、顔の傷跡から引き離す。
「セルマ?」
わたしが、わたしから、フリードに触れるのは、これが、最後。
わたしは、フリードから手を離し、一歩下がった。
わたしに起こった、貴族と平民娘の、よくある話について。
――己の非として、認めておかなければならないことがある。
わたしは、リオルナーと出会ったとき、間違えた。
平民の娘が、貴族と対等になれるかもしれないと、夢を抱いてしまった。
そんなこと、ありえないのに。
貴族は貴族で、平民は平民なのだ。
それを見誤っては、ならない。
だから――今度は、けじめをつけよう。
「あるじ様」
わたしは、言葉遣いを精一杯、丁寧なものに、まず変えた。
「喜んで、共犯者に。ですから――これより以後は、あなた様をあるじ様、とお呼びします。わたしのお仕えする方として」
「……何?」
「ご存じでしょう。わたしは平民です。そしてあるじ様は貴族。あるじ様は、公爵となられました。この関係こそが、最もふさわしいかと思います」
そのとき、フリード――いや、あるじ様の顔に浮かんだように見えた感情が何だったのか、わたしにはわからない。
「それが、お前の望みか。セルマ」
「はい」
貴族と平民が、同じ目的のために戦うなら、それは主従としてであるべきだ。
それなら――わたしも心から信じられる。
この、胸の内に芽生えてしまっていた想いの根を殺し、かわりに盲目の敬愛を捧げることができる。
「――わかった。お前の、好きにするがいい」
「ありがとうございます。あるじ様」
「そのかわり、俺もお前に望みがある」
「何なりと、あるじ様」
「俺の側から離れず――俺が何を行おうとも、決して裏切るな。セルマ」
「はい。わたしは常にあるじ様のおそばに」
そして、裏切りません。
こうして――あるじ様とわたしの、反逆が始まった。