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結婚式の前に、聖女様はわたしと会う機会を所望なされた。招待状を受け取ったことを理由に、わたしから申し出る予定だったこと。
女同士、二人だけの時間を持ちたい。聖女様は自ら赴くと――つまり、あるじ様の屋敷を訪問すると訴えたが、王妃派側から却下されたようだ。
危険だから、と。
だから、かわりにわたしが聖女様を訪ねることになった。
――そこへ着いて、変貌ぶりに、なんだか、ふふ、と笑いたくなってしまった。
リオルナーの持つ屋敷の一つ。
再び、この屋敷を訪れる日が来ようとは。
それも、客人として。
かつてわたしが悪夢の日々を過ごした場所に、聖女様は保護されていた。いまも居住を続けていらっしゃる。
聖女様の召喚は不完全で、聖女様は当初、本来現れるはずであった王城とは異なる場所に呼び寄せられたという。そんな、迷子の聖女様をはじめに保護したのが、レイモンド・リオルナー・フィーゼだ。
使用人たちは一新されていた。わたしの知る顔はない。仮面でもつけているかのように無表情だった使用人たちは消え、溌剌として、表情豊かな者ばかりがいる。
聖女様の影響なのだろうか。
静かで陰鬱だったと記憶していた屋敷は、笑い声と、華やかで明るい空気に満ちていた。屋敷内の廊下に飾られた花々は、薫り高くみずみずしい。
事をなすための寝台だけがあった、わたしがあてがわれていた部屋は、壊されていた。薔薇の咲く美しい庭の一部となっていた。
客人として、わたしは丁寧にもてなされた。
聖女様のお部屋に通され、柔らかな座り心地の椅子をすすめられる。いるのは、聖女様と、聖女様付きの侍女と、わたしだけ。あとは万が一のために、廊下側の扉に護衛の兵が待機しているぐらいだ。
――聖女様は、別の世界から来られた。
一年前は、十六歳。ジョシコウセイ、という職業に従事しておられた。黒い髪に黒い目。くるくると表情がよく動く。決して、美貌の持ち主だというわけではない。けれども、とても可愛らしい方だ。わたしの顔を見て絶句したのに、なんとかそれを隠そうとしていらっしゃる。感情が素直に顔に出るお方。
「……それで、聖女様。わたしとお話ししたいこととは?」
わたしから切り出すと、聖女様の侍女が不快げに顔をしかめた。身の程をわきまえない女め、という意味だろうか? それとも、あるじ様へ仕えるわたし自身への警戒だろうか。
あるじ様は――彼女から見れば悪だ。そしてわたしも。
「えっと、話の前に、その聖女様っていうのじゃなくて、名前ね、私、リンカっていうんだ。リンカって呼んでくれる? どうもね、聖女様っていうの、柄じゃなくて」
聖女様がそうおっしゃられるからには、わたしに異論はなかった。聖女様の地位は、特別なものだ。一平民ごときが逆らっていいものではない。国の規則や慣習より、聖女様の意思こそ尊重されなければならない。
「では……リンカ」
「うん! セルマさん! ありがとう!」
「お礼を言われるようなことでは……」
「だってね。たいてい、みんな、様、とかつけてくるし。不敬だからって。身分とか、ここはそういう世界だって、わかってはいるんだけど」
「……そうなのですか」
聖女様の願いなのだ。叶えてさしあげればいいのに。それをせず、自分たちのしきたりを通すのは、聖女様を軽んじているのと同じこと。
聖女様に対するなんたる不敬。
不愉快だ。
だが、わたしははっとした。
わたしがそう感じるのはおかしなことだ。
「私の世界はね、身分……は、ないっていうか、まったくないってわけでもないんだけど……基本的には、みんな平民でね、封建制度って昔のことなんだよね。あ、ごめんなさい。セルマさんに言いたいのは、それじゃなくて……」
聖女様はおっしゃる。
「ガーウィン公爵にかかっている疑いのことは、知っている?」
ガーウィン公爵――あるじ様。
ガーウィン公爵家の三男。表舞台にあがるまでは、目立たぬ、ただの意志薄弱な無能者としてしか認識されていなかった。
しかし現在は、異なっている。
聖女様が召喚されたのと同じ時期、実の父と兄弟の暗殺疑惑を背に、現在の当主の座を手に入れた血塗れの公爵。
聖女誘拐、および殺害未遂事件の首謀者。
王妃派貴族の連続不審死に関与する黒幕。
権力を振りかざす、悪趣味な金の亡者。
不審を浴びながらも、捕縛されることも、追求されることもない。どの件でも、あるじ様が首謀者だという証拠が見つからないからだ。
けれども、あるじ様はこう思われている。
国の暗部を象徴する人間。
聖女様が善であるとすれば、あるじ様は悪。
国に巣くう、打倒すべき邪悪。
「――はい」
わたしは頷いた。聖女様が、困ったように眉を下げる。
「あなたが、ガーウィン公爵に利用されているんじゃないかって、レイ……レイモンドが」
「何故でしょう」
「セルマさんには、レイモンドを恨む理由がある、から」
言いづらそうに、聖女様は、それでいてしっかりと言葉を紡いだ。可愛らしい方。心からそう思う。
「聖女様は、ご存じなのですか?」
わたしとあなた様の恋人の間に起こった、平民娘と貴族の、よくある話を?
「……うん」
それでも。
「レイモンド・リオルナー・フィーゼ様を、愛しておられますか」
「うん」
わたしにとって、レイモンド・リオルナー・フィーゼとは悪夢そのもの。
しかし、聖女様にとっては、愛する人間なのだ。
では、聖女様。
吟遊詩人の歌う、あなた様の、恋人に捧げるその愛は。
「ご自身の世界へ帰れるとしても、それをなげうってまで、選ぶほどに? 故郷よりも、その愛は」
重いのですか?
「……え?」
返されたのは、幼子のような、頼りない一声だった。
「無礼者が! なんということを! ――リンカ様、惑わされないでください! この女は利用されてなどおりません! ガーウィンの手の者なのです! 顔に火傷跡のある女――ガーウィンの側近と呼ばれる女です! リンカ様。ガーウィンとも和解したいというリンカ様のお心は立派です。ですがいくらリンカ様が慈悲を示されようと無駄なのです」
侍女が、守るように、聖女様の前に立った。隠される前に見えた、聖女様の瞳は揺れていた。
「そう、なの? セルマさんは……」
「わたしは、あるじ様には、心からお仕え申し上げております。ですから、リンカがお気になされるようなことは、何一つございません。また、あるじ様が、リンカを害しようとしたことも、一度もございません。――この命にかけて、誓うことができます」
「よくものうのうと……! 幾度となくリンカ様を誘拐しようとしたのがガーウィンだということは明らか! ただ、証拠がないだけ!」
「…………」
「言い返せないのでしょう?」
「あるじ様は、聖女様を傷つけようとしたことはございません。それは、今後も」
嘘偽りのない、真実だった。
侍女がまた何かいいかける。それを聖女様が制した。
「止めて」
そして、わたしのほうへ歩み寄った。
「……セルマさんが、望んでガーウィン公爵のところにいるのは、わかったよ」
「ありがとうございます。――リンカ。リンカは、わたしがあるじ様に無体を働かれているのではないかと心配なさっていたのですね。あるじ様の実像がどうあれ、無責任な噂が流れているようですから」
「……うん。セルマさんがもし、逃げ出したいと思っているなら、手助けしたいと思っていたの」
「まあ……。リンカは、優しいのですね。だからこそ、リオルナー様の凍てついた心を溶かすことができたのでしょう。ランベール伯爵様からお聞きしました。わたしがお会いしていた頃とは、違うのだと。――償いをしたいと思っていらっしゃると」
口元が歪みそうになった。
そんな必要はないのに。
無意味だ。
「レイを、セルマさんは恨んでいると思う。それは……当然だよ。でも、」
聖女様が何と続けようとしていたのかはわからない。わたしが遮ったからだ。
「リンカ」
「……何?」
「過去よりも、未来を語りませんか? ご結婚、おめでとうございます。この世界の人間として、祝福を。僭越ながら、その手を握らせていただきたく」
「リンカ様!」
叫んだ侍女をなだめるように見て、聖女様が頷いた。
「もちろんだよ」
ほほえんだ聖女様に近づく。
聖女様は平和な場所から来られたと聞いている。男と女は等しい立場で、貴族と平民の間にも、ほとんど差がない。聖女様を見て、接していればわかる。聖女様の侍女はおそらく貴族だ。だが、わたしと侍女に対して、聖女様からの接し方に違いはない。
知識としては理解していても、その意識は染まっていない。
聖女様の意識の中には、貴族も平民もない。
――それはとてもすばらしく、そしてなんと残酷なことだろう。
聖女様の手を、上から両手で包んだ。
「…………?」
不思議そうに聖女様が顔をあげた。
問いかけるかのような。
それに対し、わたしは口上を述べた。
「異世界から降臨なされた聖女様。……リンカ。きっと帰りたかったことでしょう」
聖女様がかすかに動揺したのを感じる。やはり、と思った。
聖女様は、知らない。
柔らかな、白い手を包み直す。
「――ですが、この世界にとどまってくださった。心から感謝を。そして、リンカの行く末が希望に包まれたものであるように。リンカの心からの願いが叶いますように」
聖女様との面会を終え、屋敷に戻ると、すぐさまあるじ様に呼び出された。
書類に目を通したまま、あるじ様が口を開いた。
「首尾は」
わたしは一礼してから答える。
「成功いたしました」
「聖女は来ると思うか」
「誘拐は不要かと。リンカは自らの意思で出向くでしょう」
あるじ様が顔をあげた。
皮肉げに笑う。
「リンカ、か。聖女はお前にも心を開くか」
「――はい。お可愛らしい方です」
疑うことを知らない。
空気が動く。椅子から立ち上がり、あるじ様がゆっくりと歩を進める。わたしの眼前に立ち、手を伸ばした。かたい、剣だこのついた手が、わたしの焼けただれた顔面の半分に触れた。――誰かに触れられるのは嫌いだ。火傷の跡に触れられるのはもっと嫌いだ。
でも、あるじ様にこうされるのは好きだ。触れ方が、とても優しいから。
「セルマ」
「はい」
「お前は来るな」
わたしは首を振った。あるじ様が眉をひそめる。
「あるじ様。わたしとあるじ様は、共犯者ではないのですか?」
ならば、途中で退場などできない。
「結末は、見届けます」
そのために、わたしは生きてきたのだから。
「最後まで」