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 わたしは平民だ。王都の平民街で生まれ育った。


 幸せだった?


 ええ、そうよ。幸せだった。幸せな娘だった。でも、少し傲慢な街娘だったかもしれない。わたしは器量良しだった祖母の容貌を受け継いでいた。美しさは、自慢だった。周囲もわたしに優しかった。それを鼻に掛けていた。ここは王都。もしかしたら、この容貌で、貴族に見初められることもあるかもしれない。


 貴族に平民の娘がひどい目に遭うこともある、とは耳にしたことがあった。

 でも、どこか遠い話。わたしは話半分にしか聞いていなかった。貴族に会う機会が滅多にないもの。逆に、被害に遭った娘に会ったこともない。

 噂でしょう? それに、わたしがそんな目に遭うはずがないわ。貴族にだって優しい方はいるはず。

 そうして、愛し愛され、父さんと母さんのように仲むつまじく暮らすのよ。


 十六の時だった。結婚を意識してもおかしくない年頃だ。

 わたしは生まれて初めて貴族と言葉を交わした。

 若く美しい青年と。


 青年は、大貴族、コルエン公爵の長男だった。

 レイモンド・リオルナー・フィーゼ。

 わたしはリオルナーに恋をした。そして見初められ、さらわれた。馬鹿なわたしは、リオルナーに連れて来られた屋敷の部屋で胸を躍らせていた。

 寝台しかない部屋――それを不思議とも思わずに。

 ただただ貴族に招かれたことに浮かれ、舞い上がり、それどころか椅子代わりに寝台に頬をそめて腰掛けて。


 自分の思い描いた、何の根拠もない、明るい未来にだけ目を向けていた。


 レイモンド様とおっしゃるのね。お名前を呼ぶのを許されたわ。素敵。素敵! なんて素敵な方。しかもレイモンド・リオルナー・フィーゼ様といえば、ゆくゆくは公爵様だわ。


 淡い恋心と、わずかな打算と下心。


 わたしは愚かな小娘だった。


 睦言も口づけもなかった。淡い恋心はのしかかられ、豪奢な寝台に背中を押しつけられたときに砕け散った。行為の最中は、痛くて、怖くて、泣きじゃくったのを覚えている。


 ――それから、好きどころか、もはや恐怖の対象になっていたリオルナーに陵辱される日々が続いた。


 ランベール伯爵とは、その日々の中で、何度か遭遇した。

 話しかけられたのは、一度だけ。


「今回は、君か」


 そう言った。

 少しの哀れみと、割り切りがその瞳の中にあった。ランベールもまた貴族だった。そしてリオルナーの親友だった。親友の悪癖に良い感情は抱いていなかったかもしれない。かといって、その悪癖の対象を救う必要性――それも、ただの平民の娘とあっては――もまた、感じてはいなかったのだ、きっと。当時は。


 そして、わたしは、ある日、飽きたと着の身着のままで放り出された。リオルナーは姿すら見せなかった。ただ使用人に「あなたに飽きたそうです」という、その旨と共にわたしは使用人用の出入り口からたたき出された。


 それで終わりだ。




 ――この国は、未婚のまま男に汚された娘には厳しい。理由は関係ない。そこにどんな理由があっても、白い目で見られる。そして、未婚で男に抱かれた娘は、たいていの場合、娼婦に身を落とす。

 けれども、リオルナーにとっては、コルエン公爵家からすれば、平民の娘の一生なんて、何の価値もない。いてもいなくてもどうでもいい存在。どうにでもできる存在だ。


 リオルナーは、若く、美しく、優秀な跡継ぎとして評価されている。それらの美点に比べれば、女癖が悪いことなど――たとえ、純潔を奪われた娘が、それもたかが平民の娘が何人いようと、娘たちにとっては、女癖が悪いなどという表現では済ませられない行為であろうと――とるにたらない出来事だったのだ。

 前途ある有望な若者の、些細な欠点。若気のいたり。いずれは落ち着くだろう。貴族の娘に手を出さないだけ、分別がある。そんな風にリオルナーが属する階級では、世界では、周囲から苦笑で済ませられてしまう程度のこと。


 わたしのような、貴族に『見初められた』とるにたらない娘は、他にもいた。


 話としては、確かに前から知っていた。自分の身に起きるはずがないと思っていた遠い出来事。

 でも、結局わたしは、その実際のところは、知らなかったのだ。あまりにも無知だった。

 被害に遭った娘に、わたしは会ったことがなかった。会えなくて当然だった。


 よくある話の、平民の娘が、どんな目にあうのか。どんな気持ちになるのか。わが家に帰れたとしても、そこに安息などないということを、自分の身にふりかかってはじめて、わたしは理解した。

 

 それまでとは、何もかもが違ってしまう。


 思い知ったのは、わたしを美しいとちやほやしてくれていた幼なじみや、街の男たちが、戻ってきたわたしを情欲の混じった、それでいて汚らわしいものとして見るようになったのを垣間見たあと。

 娼婦ではないのに娼婦に見られることに耐えられず、それでもしばらくは暮らしていた家から逃げ出したあと。

 一人になって、娼婦に身を落とす覚悟もなく、自分の顔を焼いたあと。


 美しい、自慢だった顔を失って、おかしなことに、ようやくわたしは少し、楽になった。だって、こんな顔の女を抱きたがる男はいない。


 ――そう珍しくもない話。

『見初められた』多くの娘とは、結末が少し異なるだけ。

 わたしは生きている。けれども、命を絶ってしまう娘のほうが大多数だというだけの。

 ただ、それだけの。

 よくある話。

 貴族に『見初められる』なんて、まるで天災のようなもの。


 だけど、この話には、娘を『見初めた』貴族側にこそ、珍しい話の続きがある。

 レイモンド・リオルナー・フィーゼは、『見初める』のではない、まったく別の愛を見つけるのだ。

 真実の愛。


 一年ほど前、国が、聖女の召喚を行った。

 そうして、降臨した少女。

 聖女様は、存在するだけで、国に潤いをもたらす。

 リオルナーは、聖女様と出会い、恋に落ちた。

 吟遊詩人が歌い、この国に住む者なら、もはや誰でもと言っていい、知っている恋物語。


 そして、ここからは、ランベール伯爵が語った話。

 聖女と愛を通わせたことで、リオルナーは生まれ変わった。過去を悔いている。反省している。

 聖女様に出会うまでは、レイモンド・リオルナー・フィーゼという男は、人間は、ずっと荒れていたらしい。

 荒れる背景もあったらしい。


 そう、可哀想ね。

 わたしがあんな目にあったのも、そのせいで。

 レイモンド・リオルナー・フィーゼがあんな風に女を扱っていたのにも、理由があったのね。

 あの男が荒れていたせいなのね。

 反省しているのね。後悔しているのね。

 きっと、それは本当のことなんでしょうね。


 かつては助けようとすら思わなかったのに、いまはわたしの面倒を見ようとまで言っている、ランベール伯爵もまた、変わったんでしょう。


 でもね。


 ――それで?


 ああおかしい。


 ――でも、だから? だから、何なの? 


 何故、わたしが、許さなければならないの?


「何故わたしが、リオルナー様を許さなければならないのでしょうか?」

「昔のあいつとは、違うんだ。いまは、君にしたことに対しても、苦しんでいる。取り返しのつかないことをしたのはわかっている。償いはする。だから、許してやってほしい。――これを」

 伯爵が、懐から家紋の入った封筒を取り出した。

「レイモンドの結婚式の招待状だ。どうか、君にも来てほしい。君が、祝福してくれるならば」

 あの男も、憂いなく、聖女様との式を迎えられると?


 ランベール伯爵様、許してやってほしいと言いながら、あなたは、許されると疑ってもいないのですね。

 わたしがレイモンド・リオルナー・フィーゼを許さないはずがないと思っていらっしゃる。


 きっと、わたしがとるにたらない平民の娘だから、ではない。

 なぜなら、レイモンド・リオルナー・フィーゼは昔とは変わったから。心から悔い、いまは聖女様と結ばれるような人物であることからもわかるように、改心したから。


 だから許されないはずがない。

 許されてしかるべき。そう、信じている。


 なんて。


 ――なんて滑稽な。




 わたしは、招待状を見つめた。

 握りしめた前掛けの皺が、よりいっそうひどくなった。


 ああ。


 普段は心の奥底に沈めている、たぎるような、醜く、暗く、腐臭を放つ感情が。


「――セルマ」


 低く、冷徹な、あるじ様の声。それに、我に返る。わたしは、背の高い、あるじ様を見上げた。その瞳は蒼い。冬の湖の色だ。暗い色。心が落ち着いてゆく。


「いいだろう。セルマ、出席しなさい」


 あるじ様もまた、独身の、際だった容貌を持つ青年貴族だ。けれど、恐れられている。

 三男でありながら、継ぐはずのなかった公爵位を授かった方。

 数々の血塗られた嫌疑を持つお方。


 二大公。二大公爵家。その一つは、王妃派のコルエン公爵。

 もう一つが、あるじ様。王弟派のガーウィン公爵だ。


「エルレー殿。わたしは、彼女に彼女の意思で――」

「はい」

 わたしは頷いた。


「はい。あるじ様」


 ランベール伯爵から、恭しく招待状を受け取った。頭を下げる。


「わたしごときが身に余る光栄です。喜んで、結婚式に出席させていただきます。ランベール伯爵様」



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