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「何故でしょうか」
心底、不思議でならなかった。だから、わたしは問い返した。
ただし、発した声はわずかに震えてしまっていた。
わたしが、使用人としてお仕えしているお屋敷のあるじ様に直々に呼び出されたのは少し前のことだった。
わたしに客人がやってきた、と。
あるじ様のお召しだ。もちろん、断ることなど頭に浮かびもしなかった。
けれども、急いであるじ様のもとへ向かいながら、不思議には思った。
――わたしに、客人だなんて。
わたしをわざわざ訪ねてくる人が? しかも、あるじ様を仲介人にしてまで?
そんな人間、いるかしら。
あるじ様は大貴族でありながら、そして、巷の噂に反して、簡素さを好む方だ。
そんなあるじ様の部屋でわたしを待っていた訪ね人は、かつて、何度か遭遇したことのある人物ではあった。
貴族のご令嬢の憧れの的、ランベール伯爵だ。長身に、甘く整った容姿。あるじ様のお屋敷でも、若い娘の使用人たちの間では、雲の上の存在として噂話にのぼる。
しかし、わたしにとっては違う。
悪夢の中の登場人物だった。
反射的に逃げ出したくなった。
逃げ出さず、踏みとどまることができたのは、あるじ様もその場にいらっしゃったからだった。
わたしはあるじ様の使用人だ。
あるじ様の不利益になり得ることなど、どうしてわたしにできるだろう?
――貴族といっても、ひとくくりにはできない。貴族内の階級だけではない。その関係性は複雑だった。あるじ様とランベール伯爵は、異なる陣営に属する。知り合いではあるが、親交はない。むしろ、敵対しているに等しい。
あるじ様は王弟派。ランベール伯爵は王妃派。
ここでわたしが粗相をすれば、わたしが生涯お仕えすると決めたあるじ様にご迷惑をおかけすることになってしまう。
――それは、絶対にいや。
だから、わたしを探し、あるじ様の屋敷で働いていることを突き止めたのだと、わたしに話があるのだというランベール伯爵の言葉を、紡がれる、その長い長い物語を、わたしは唇を引き結び、ただただ、聞いていた。
ううん、嘘だ。
無反応でいたかった。でも、それはできなかった。使用人用の前掛けを半ばから両手でぎゅっと握りしめていた。
そうして――ランベール伯爵の話がようやく終わって、出てきたのが、さきほどの言葉だった。
――何故でしょうか。
「何故? いま、説明したとおりだよ」
ランベール伯爵が、憂いをおびた表情で、そう答えた。
「君が、エルレー殿の屋敷で働いていると知ったときは驚いた」
きっとそれだけではない。
驚いたのは、わたしの、この顔にもだろう。わたしの顔――顔面の左上部分には、左目こそ見えるものの、鼻にまで達する醜い火傷の跡がある。それを、わたしは髪で隠すこともせず、晒しているのだ。
あるじ様も、他の使用人も、もはやわたしの顔をそういうものとして受け入れてくれている。しかし、この顔はやはり異様なのだ。
貴族として処世術を完璧に身につけているはずのランベール伯爵であっても、隠しきれずに、反応を表情に出した。もっとも、それはほんの一瞬のことだったけれども。
「……君の今後については、わたしが取りはからいたいと思っている」
「何故でしょう」
「繰り返すが――レイモンドは後悔している」
レイモンド。
……嫌な名前だ。
もはや魂に刻まれてしまった、わたしの人生をすべて変えた男の名前。
愚かな小娘だった己を思い知らされる名前。
このところ、女使用人たちの間で、とみに話題にあがっていた名前。
国をあげて、この男とその恋人である聖女様の結婚式が、近々行われる。
「彼は、過去に犯したことへ、せめてもの償いを望んでいる。わたしはその手助けをしたい」
「……生きていたのは、わたしだけでしたか?」
身分の差は、忘れていない。貴族は平民の一生など簡単に壊せる。機嫌一つでどうとでもできる。ひねりつぶしたところで罪にも問われない。そういうものだ。身に染みてわかっているのに――ランベール伯爵を前にしているからこそ、皮肉がわたしの口をついて出ていた。言わずにはいられなかった。心の奥の底に沈めた醜いものが浮かび上がろうとしている。
ランベール伯爵は、答えなかった。
だが、その沈黙が答えなようなものだ。
かつて、わたしの身に起こった、貴族と平民の間の、よくある話。
でも。
――何人の女が、あの男の犠牲になったのだろう?