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八 ひぐらし

 八月も終わりに近づくと、季節はもう完全に秋である。

 あと二月もすれば、鎌倉は冬になる。

 そんな秋深き夜、小御所の自分達の部屋で、政子と頼朝は、一つの書状を間に向き合っていた。

「これ以上の話はないぞ、政子。大姫にとっても、我が鎌倉にとっても」

 書状を妻に渡しながら、頼朝は多少興奮気味にそう言った。

「―それはまあ、わかるのですが……」

 しかし、それとは反対に、政子の返事は浮かないものだった。

「なんだ、反対なのか?」

「そうではありません。大変、光栄な話だとは思っております」

 そう言って、政子は書状に目を落とした。

 優雅な筆でその書状を書き、この鎌倉に送り付けて来た人物の名は、丹後(たんご)(つぼね)

 京の宮中で、強大な力を持つ人物である。

 京の貴族らしく、丁寧な時候の挨拶で始まる書状には、ぼかしぼかしではあるが、ある一つのことが書かれていた。

 いわく、『そちらの一の姫を、天皇に差し上げて欲しい」と―。

 その文章を読みながら、確かに悪い話ではない、と政子は思う。

 だが、しかし―。

「この話を、大姫がどう思うのかと考えますと……」

 あまり、手放しでは喜べないのだ。

「喜ばぬ、と申すか」

「―おそらくは」

 妻のためらいがちな、だがきっぱりとした言葉に、頼朝は苦い顔になった。

 それと同時に、大姫の、彼女の幼い弟妹達だけに見せる、哀しげな微笑を思い出す。

 彼の長子である大姫は、いつの頃からか、そんな表情でしか笑わなくなった。

 まして自分達の前では、笑うこともせず、冷めた目で、自分達を見つめるだけである。

 ―昔は、明るく、屈託のない子だったのだ。

「父様!」と無邪気な笑顔で、自分を慕ってくれていた。

 だが今、その無邪気に微笑んでいた少女はいなくなってしまったのだ。

 そう。

 自分が、義高を殺してしまった、その瞬間から。

 子どもだからすぐに忘れるだろうと思っていた頼朝は、自分の考えが甘かったことを、さんざん思い知らされた。

 義高を殺した直後から大姫は記憶の混乱を起こし、頼朝が父とわからず、彼を見ても怯えて泣くだけだった。

 それどころか、何も食べず、水すら飲まなくなり、一時は死を覚悟するようにまで言われた。

 そんな状態が治まっても、記憶の混乱は直らず、結局、大姫が頼朝のことを父とわかるようになるまで、二年の歳月が必要だった。

 だがそれは、大姫の心の傷が癒えた証ではなかった。

 以後、大姫が頼朝の前で笑うことはなかった。

 人形のように無表情で、乾いた顔しか見せなくなった。

 大姫の心は、今だ義高のもとにあるのだ。

 十七年間ずっと傍にいた父よりも、たった一年、共に過ごしたにすぎない少年の方に。

「殿……」

 気遣わしげに、政子は声をかけてくる。

「政子。私はな、あの子には幸せになってもらいたいのだ」

 五郎との話も、一条高能との話も、そんな思いから持ち出したのだ。

 なのに、そのどちらの話も、大姫は断った。

 特に高能との話は、高能から、滅多に笑わない大姫が、彼の前では微笑んでいたと聞いて、大いに期待していた。

 高能が大姫のために呼び寄せた名うての白拍子の舞を、鶴岡(つるおか)八幡宮(はちまんぐう)まで共に見に行った時も、始終笑顔だったらしい。

 そのことを、多少興奮気味の高能から聞いた時は、本当に心の底からこれで安心できると思った。

 だが―この話も、結局大姫は断ったのだ。

「なのに、あの子は私の与えようとするものを、決して受け取らぬ。だが―今回は、違うのかもしれぬ」

「―あなた」

「天皇の后など、万人が望んでも手に入らぬ。うまくいけば、末は国母だ。これは女として最高の名誉だぞ、政子」

 そうすれば、きっと大姫も自分に感謝するだろう。

 自分を幸せにしてくれたのは、昔死んだ少年ではなく、生きた父親なのだと。

「……」

 政子はそんな夫に声をかけようとしたが、かける言葉が見つからず、結局黙り込んでしまった。

 夫の気持ちは、よくわかるのだ。

 泉の屈託のない明るさと、純粋な優しさのおかげなのか、最近は少し良くなってきているとはいえ、長女の大姫の自分達に対する態度は頑なだ。

 それが、夫には歯がゆいのだろう。そして、哀しいのだ。

 実の娘に十年以上心を閉ざされ続ける事実は、確かに、つらく、哀しい。

 だが―大姫も、哀しい事実を背負っているのだ。

 それもわずか六歳で、その事実を背負い始めた。

 男は、名誉のために己の命を賭ける。

 それと同じで、女は、愛のために命を続けるのだ。

 まして、大姫は自分の娘だ。

 父親に反対され、嵐の中、頼朝の元へと走って行ったあの熱情を、おそらくは我が子達の中で一番受け継いでいる―

「反対か? 政子」

「いえ……」

「そう、心配するな。案外、簡単に承知するかもしれぬ」

 自分の思い付きに夢中になっている頼朝は、あっさりとそう言った。

 これでは、強い反対は言い出せない。

 天皇への入内の話は、夫にとって、娘と和解する最後の手段なのだ。

 それに、もし大姫がこの話を受けなかったとしても、天皇の后という、女にとっては最高位を与えたようとした父親の気持ちを、わかってくれるきっかけになるかもしれない。

 政子とて、大姫には、女として幸福な一生を送って欲しいと思っているのだ。

 そう。

 できることなら、義高のことは忘れて。

 ただ、同じ女としてわかることがあるから、あせる気持ちがないだけだ。

 だから。

 この話が、自分達と大姫の関係が好転するきっかけになればいい、と政子は思った。―本気で、自分がそう願っている、と思っていた。


 うつらうつらとしたまどろみの中で、大姫は夢を見ていた。

 それが、夢だということはわかっていた。

 だから夢を見つつも、めずらしいな、と大姫は思う。

 夢織姫と義高のいるあの世界に行くようになってから、夢はめったに見なくなったのだ。

『十悪と言えども引っ摂す

 疾風の雲霧をひらくより甚だし』

 夢の中で、大姫は幼い姿をしていた。

 そう。

 あれは、義高と出会った頃の自分だ。

 その幼い自分の歌声が、暗闇の中、響いている。

『その歌だけは上手いな、チビ』

 無邪気な声で歌う自分に、義高が近寄って来て、ぽんっと頭を叩いた。

『姫は、チビじゃないよ』

「何言っているんだ、チビはチビじゃないか』

 俺よりも五つ年下だしな、と付け加えて笑う義高に、幼い自分は顔をしかめて、彼を見上げる。

 それを見て、義高はにこっと微笑んだ。

『ほら、すねていないで、もう一回歌ってくれよ』

『聞きたいの?』

『ああ』

 そう言われると、なんだかうれしくて、大姫はもう一度歌い出した。

 

 十悪といえども引っ摂す

 疾風の言葉をひらくより甚だし

 極楽願わん人はみな

 弥陀の称号唱うべし


(たとえ十悪を犯した者でも、阿弥陀仏はこれを救ってくださる。それはまるで、疾風が雲霧を散らすより早く)

 この歌の意味を知ったのは、ずっと後になってからだった。

 義高は、この歌をよく聞きたがった。

 特に、父の義仲が殺されてから、しょっちゅう大姫に歌うように頼んできた。 どんな思いで、彼はこの歌を聞いていたのだろう?

『義高様、姫様、ご飯ですよ―!』

 やがて夕暮れ近くになると、いつも鈴が自分達を呼びに来た。

 そうすると、義高が大姫の手を引いて、御所に三人で戻るのだ。

 当然今日もそうなると思っていた大姫は、振り返って、そこにいるはずの義高がいないことに、愕然となった。

『義高様?』 

 気が付くと、大姫は一人だった。

 義高の姿も、自分達を呼んでいたはずの、鈴の姿もない。

『義高様、どこにいるの!?』

 いくら呼んでも、返る声はなかった。

 これは夢なのだ。

 それは、わかっている。

 だが忍び寄る言い様のない不安は、どうしようもなかった。

(哀れよのう)

(哀れよのう)

(幻とも知らず)

(あの女が作り出した「夢」を、信じておる)

「え……?」

 その時、声が聞こえた。

 姿は、見えない。

 だが、確かに何かがいた。

 自分に悪意を持つ、何かが。

 そしてそれらの気配を、自分は以前にも感じたことがあった。

(愚かよのう)

(愚かよのう)

「な……に……?」

(愛しき者は、幻だというのに)

(あの女が作り出した、幻影だというのに)

「!?」

(信じておるよ)

(愚かにも)

(信じておるよ)

 悪意のある声が、あざけりを含んだように、大姫の周りをふわふわと漂い、信じたくない言葉をささやく。

「嘘よ、そんなの」

 信じたくなかった。

 この十年間、自分を支えてくれたあの優しい世界が、嘘だとは思いたくなかった。

 だけど―その一方で。

 どこかで、そのことを納得している自分がいた。

 あれは、「夢」なのだと。幼い心に傷を負った自分を癒すために、あの不可思議な少女が織った、「幻」なのだと。

(哀れよのう)

(愚かよのう)

「信じない。私は、絶対に信じないわっ!)


― 姫様!


 その瞬間、遠くの方から自分を呼ぶ声が聞こえた。

 それと同時に、強烈な光が闇に広がり、それが乱反射を起こし、大姫の目を焼いていく。

 強烈な光が通り過ぎた後、大姫の目に映ったのは、優しい木漏れ日のような光の中、自分を心配そうに覗き込む、泉と頼家だった。

「泉……頼家……」

「だいじょうぶか? 姉上」

 半ば呆然と二人の名を呼ぶと、気遣わしげに、頼家が声をかけてくる。

 泉は、寝汗をかいた大姫の顔や首筋を、よく冷えた手拭いで拭い始めた。

「私……?」

「うなされていたんだよ、姉上」

 後ろを向いてくださいね、頼家様、と、大姫の夜着の結び目を解き始めた泉に言われた頼家は、姉に後ろ姿を見せながらそう言った。

「そう……」

 弟の言葉を聞き、大姫は深いため息を吐く。

 体中の力が、抜けていくような気分だった。

 泉が体を拭く、ひんやりとした布の感触が、疲れた体に心地いい。

 そんな大姫の様子に、頼家も泉も、心配そうな表情になる。

 しかし二人ともよけいなことは何も言わず、泉は大姫の体を拭き続け、頼家は部屋の隅に置かれた水入れに手を伸ばし、器に水を注いだ。

「飲むか? 姉上」

 そして泉が大姫の体を拭き終わったことを確認すると、頼家は振り返りながらそう言った。

「あ、うん」

 頷いて、大姫は起き上がろうとする。それを、泉が慌てて手伝った。

 弟からそっと差し出された器を受け取り、一口、水を飲む。

 ふうとため息を吐くと、心配そうに自分を見つめる、四つの瞳と視線が合った。

「ごめんね、二人とも。心配かけて」

「いいけどさ、姉上……」

 何かを頼家は言いかけたが、結局、何も言わず黙り込んだ。

「頼家?」

「ご加減はどうですか?」

 その代わり、泉の方がそう問いかけてくる。

「もう、だいじょうぶ。さっきよりはだいぶんいいわ」

 その答えに、二人とも、ほっとした表情になった。

「変な夢を見たせいで、気分が悪くなったの。うなされたのも、そのせいね」

「そうか……」

「お膳の用意をしてきますね」

 大姫の顔色がさっきよりもいいのを見てとって、泉がそう言いながら立ち上がる。

「あ、泉……」

「―何ですか?」

 そんな泉に、大姫は、いいよ。食欲がないから―と、言おうとしたが。

 振り向きざまの泉の顔を見たとたん、その言葉を飲み込んでしまった。

 泉の後ろには、ゆらっと、冷たい炎が揺れている。

「まさかと思いますが、食べたくない、とおっしゃるのではありませんよね?」

 にっこりとした微笑みでそう言われると、冷たさが倍増し、迫力があった。

「え、えーと……」

「お昼まで寝ておられて、お食事もきちんとされないのでは、また、変な夢を見る羽目になりますよ?」

 もし「いらない」と言えば、ただじゃすまないぞというその気迫に、大姫は降参するしかなかった。

「か、粥がいいな、私……」

「わかりました」

「あ、ついでに俺の分も頼むよ、泉。姉上と一緒に食べるから」

 一方頼家の方は、薄情にも姉を庇おうとせず、ちゃっかりと泉にそう頼んだ。

「あ、はい」

 少女が軽い足音を立てて廊下を駆け出して行った後、

「裏切り者」

 大姫は、じろっと頼家を横目で睨んだ。

「何言っているんだよ、姉上。俺は、痩せてしまった人間が、『食べたくないの』と言うのに同意するほど、バカじゃないぜ」

 そんな姉の態度に、頼家はやれやれと嘆息する。

「ふーんだ、鼻の下伸ばしちゃって」

「姉上~~~~~」

 どうしてそっちの方に話が行くんだ、と言う頼家を見ながら、多少すね気味の大姫は、

「泉に給仕されたいんでしょ」

 と、さらに追い討ちをかけた。

「~~~~。あのさあ、姉上」

 しかし頼家は、真っ赤になりながらも、姉の言葉に流されないように努めた。

「何よ」

「冗談ぬきで、自分が痩せてしまったという自覚、あるか?」

「……頼家?」

「確かに今年の夏は暑くてさ、姉上も食欲なさそうにしていたよな。でもさ、最近の姉上は、前よりも食べていないじゃないか」

 そう。

 夏も終わり、心地よい風が吹くようにになった今でも、大姫の食欲は回復しなかった。

 むしろ、落ちる一方なのだ。

 それでもあまりひどい状態にならないのは、泉が食事を食べるよう、強制的に奨めるからだ。

 もちろんそれだけではなく、頭の聡い彼女は、大姫が少しでも食が進むよう、食事も工夫している。

 だがそれでも、大姫の食事を取る量は、確実に減っているのだ。

 そのせいか、ここしばらく、大姫の体調は思わしくない。

 頼家や泉が心配するのも、無理はなかった。

「頼むから、体をいとってくれ、姉上」

「頼家」

 心配げな弟の眼差しに、大姫はふわりと微笑んだ。

「だいじょうぶよ、頼家」

「姉上」

「体の調子は、あなたが思うほど悪くないのよ。心配しなくても、だいじょうぶ」

 違う、姉上。

 そう言って笑う大姫に、頼家は心の中で呟いた。

 やはり、自覚していないのだ。自分が今、どんな危うい状態にあるのか。

 目の前にいる姉は、少しも自覚していない。

 どうしてなのか、頼家にはわからなかった。

 どんなに哀しい眼差しをしていても、どんなに哀しい微笑みしか浮かべなくても、姉は生きることをあきらめていなかった。

 なのに、今の姉には、それがないのだ。

 生きることを、放棄している。そう言っても、決して言いすぎではない。

 だが、それを直接本人に言うのはためらわれた。

 と、その時だった。 

 ぱたぱたと軽い足音を立てて、泉が食膳を持って戻って来た。

「頼家様は、もう少しお待ちになってくださいね。すぐに持って参りますから」

「あ、泉」

 せわしなく立ち上がり、再び出て行こうとする少女を、頼家が呼び止めた。

「何ですか? 頼家様」

「仕事増やして悪いんだけどさ、チビどもを呼んで来てくれないか?」

「頼家?」

 この言葉には、大姫も、目をぱちくりとさせた。

「どうせなら、あいつらとも一緒に食べよう、姉上」

「わかりました、頼家様」

 その提案に、大姫本人よりも先に諾を出した少女は、そのまま部屋を出て行った。

「あの子達が来たら、よけいに落ち着いて食べられないんじゃないの?」

「嫌か?姉上」

 泉の背中を見送りながらそんなことを言う姉に、頼家は言葉を返す。

「そうじゃないけど」

 この時代、格のある身分の家では、家族揃って食事をする、という習慣はなかった。

 家族各々が、両親兄弟とは別々の棟で生活し、仕える者達を持っていたのである。

 だから大姫達姉弟も仲はいいのだが、姉弟揃って一緒に食べるのは年の瀬ぐらいである。

「だいじょうぶさ。あいつらだって、騒いでいい時と悪い時の区別ぐらいつく。それに、いざって時は、泉がいるしな」

「そうなの?」

「泉に弱いのは、姉上だけじゃないさ」

 おっとりとしていながら、怒る時はすごい迫力なのだ、あの、幼い少女は。

 ゆえに、あのいたずら小僧達も、泉には頭が上がらない。

「頼家~~~」

 恨みがましそうに自分を見上げる姉を、苦笑しつつ見守りながら、頼家は、願わずにはいられなかった。

 忘れないでくれ、姉上。

 ここには、あなたをまだ、必要とする者達がいる。

 あなたを、失うことを哀しむ者達がいる。

 だから、逝くことを望まないでくれ。

 祈りは口にせず、ただ「一緒にご飯を食べよう」と誘うことで、頼家はすべての願いを込める。

 皆で共に食事をすることで、姉がそのことを思い出すように。


―祈りは、天に届くのだろうか?

 ささやかな願いは、叶うのだろうか?

 未来のことがわかれば、人間は、誰でも幸福になれるのだろうか?


(口惜しや)

(うらめしや)

 深い闇の中で、しわがれた声が響く。怨嗟の念に染められた、その声。

(口惜しや)

(うらめしや)

 発しているのは、陽炎のごとく揺らめく、武者姿の者達だ。

(この恨み)

(いかにして果たすべきか)

(果たすべし)

(我らの恨み、果たすべし)

 ガチャガチャと不気味な音を立て、それらは闇の中を歩いて行く。

(ここを通れば)

(憎き(かたき)

(討ち果たしてくれるわ)

「そうは、いかぬ」

 りん、とした声が闇の中に響いた。

(何奴)

(何奴) 

 薄手の白い着物をまとい、長く伸びた髪を後ろで束ね、両の手には銀の(やいば)を持った青年が、それらの前に立ち塞がっている。

「これから先は、そなた達が行ってはならぬ世界。おとなしく、帰るがよい」

(おのれ)

(何奴)

「……」

 問いかける声に、青年は答えず、カチャッと柄を鳴らし、刀を構えた。

何故(なにゆえ)!?)

(何故!?)

 だが、何十と集まった武者姿の中から、別の声が上がる。

(何故、あなたが!?)

(我らが頭領木曾義仲様の長子であるあなたが!)

(何故、我らを阻まれる!?)

「―愚問だな」

 今度は義高も、静かな声でそう答えた。

「さっきも言ったはずだ。ここから先は、我らのような死人(しびと)が関わってはならぬ世界―退くがよい」

(あなたは、父上を殺した頼朝が憎くありませぬか!?)

(我らが恨み、果たそうと思いませぬのか!?)

 無間地獄に落ちても、その恨みを忘れず、その地獄から這い上がって来た者達の思いは、それだけに切実で―とても、痛い。

 だが、譲るわけにはいかなかった。

 夢織姫の作り出した結界を抜け、彼らが現の世界に行くには―生き人で唯一、あの世界と繋がっている、大姫の精神世界を通らねばならないのだ。

 そうなった時、大姫はどうなるのか。

 確かなことは、一つだ。

 どんなことになっても、あの厳しい眼差しをした異界の少女は、冷酷に対処するだろう。

 たとえ、己の中に、どれほどのためらいを抱えていても。

「もう一度言う」

 彼らの思いに流されようとする自分を必死に抑えながら、義高は口を開いた。

「これが最後だ。戻るがよい」

 わかっていた。

 彼らが退く気など、微塵もないことは。

 だが、退いて欲しいと、願わずにはいられなかった。

 しかし、願いを込めて言った言葉に、返される言葉はなく―殺気立つ気配が、すべての答えだった。

 義高は目を閉じ、刀を構え直した。銀色の刀身が、鈍く光る。


カッ


それが、次の瞬間強く瞬き。


 ―両者は、ぶつかり合った―!


 夕暮れの西日が、木戸の方から差し込んでいた。

 その一筋の光が、大姫の座るちょうど真正面の床を、朱色に染めている。

 それを見つめながら、大姫はぼんやりとしていた。

 こうやって一人でいると、さっきまでの喧騒が、嘘のように思えてくる。

 ついさっきまでは、三幡と千幡が来ていて、この部屋は賑やかだった。

だけど、二人は泉に連れられて部屋に戻り、頼家も今日はまだ訪れていない。

 こんなふうに一人きりになるのは、ここ数日なかった。

 ここ数日は、朝起きると泉がすぐに部屋に入ってきて世話をしてくれるし、朝げがすんだ頃を見計らったように、三幡と千幡が毎日遊びに来ていた。

 昼間はまったく部屋に来なかった頼家も、短い時間であるが、顔を出すようになっていた。

 そして、三幡と千幡が帰る頃に再び顔を出し、夕げを一緒に食べて、自分の部屋に帰っていくのだ。

 夜は夜で、泉がちょくちょく顔を出して、大姫の世話をしつつ、話し相手になってくれていた。

 こんなふうに、入れ代わり立ち代わりに人が部屋を出入りするので、大姫は一人になる暇がなかった。

 でも―今、自分は一人だ。

 たった一人で、ここにいる。

(どうして)

 夕闇の中で、たたずんでいる。

 義高のいない、現に。

 ちゃんと、決めたのに。

 義高のことを忘れない、と。

 なのに、どうしてここにいる? 

 どうして、あの世界に行けない?

(いつまで―私は、ここにいるの?)

(会わせてやろうか?)

「誰……?」

 夕闇の中、聞こえた声に、大姫は意識を漂わせた。

 今、大姫の部屋にいるのは、大姫一人だけだった。

 だが、そのことに対して、恐怖は感じなかった。

(お前の愛しき者に)

(会わせてやろうか?)

「姫様?」

 空ろな視線を床から上げた時、部屋の入口から、阿古夜が声をかけてきた。

「……姫様?」

 夕日を背にした阿古夜は、けげんそうな顔で、大姫を見つめている。

 意思のない顔で自分を見返す大姫に、阿古夜は眉を寄せた。

 すっと部屋の中に入り、

「姫様?」

 大姫に近寄ると、もう一度、呼びかけた。

「……阿古夜」

 反応は、あった。

 だがそれだけで、後はぼんやりと阿古夜を見つめている。

 額に手を当てても、熱くはなく、熱はない。

 嫌な予感が、阿古夜の胸を過ぎった。

「何をしているのだ? 阿古夜」

 と、その時である。

 夕闇の中、紛れ込むように、頼朝が大姫の部屋に現れた。

「御所様」

 阿古夜は、自分が頼朝の訪れを告げるため、大姫の部屋に来たことを思い出した。

「……父上」 

 大姫は、阿古夜の視線を追うように、頼朝を見上げる。

 いつもならここで固い表情になるのに、今日はそれがない。

 だが、それは頼朝に心を許したとか、そういったものではない。

 表情が、まったくないのだ。

 ―昔、これと同じことがあった。

 そう―あれは、義高達が殺され、唯一生き残った小太郎も、鈴と共に木曾に去った直後。

 あの頃の大姫は、人形のようだった。

 話しかけても何も答えず、泣きも笑いもしなかった。

 まずい、と阿古夜は思った。

 なぜ、そうなったのかはわからない。

 だが、今の大姫は、あの時とまったく同じ状態なのだ。

「御所様、姫様は少しご気分がお悪いようです」

 こんな時に、あの(・・)()をすれば、大姫は―どうなるのか。

 それは、わからない。

 しかし、わからないからこそ、阿古夜は怖かった。

「そうなのか? 大姫」

 だが、自分の思い付きと、いつもなら拒絶の表情を浮かべる娘が今日はそうではなかったので、その喜びに選っていた頼朝は、何も気付かない。

「いえ……」

 だから、彼は力なく返される娘の言葉を、そのまま信じた。

「心配はいらぬようだぞ、阿古夜」

 そうして、下がっていろ、と阿古夜に命じる。

 彼にしてみれば、親子水入らずの状態で、この喜ばしい知らせを告げたかったのだ。

 一方の阿古夜は、主人から命を出された以上、従うしかない。

 ためらいながらも、二人にペコリと頭を下げると、静かに部屋を出て行った。それを見届けてから、

「大姫、喜ばしい知らせだぞっ」

 頼朝は、おもむろにそう口を開いた。

 しかし、大姫は、父のその言葉に何の反応も返さない。

 ただ黙って、彼を見つめているだけだ。

「お前の、天皇の入内が決まったぞ」

 誇らしい、喜びに溢れた知らせだと―彼は、そう信じていた。

「天皇はお前よりも二つ年下で、妃もおられるが、なに、心配はいらぬ。お前には、この父がついておるからな」

 娘の返事も聞かず、頼朝は矢継ぎ早に言葉を続ける。

 彼にしてみれば、この栄えある話を娘が断るなど、有り得ないことだった。

「お断りしてください、父上」

 だが、大姫の返事は、その有り得ないことを示すものだった。

「何?」

 上機嫌で話していた頼朝は、その言葉に、ぴたりっとすべての動きを止めた。

「そのお話、受けかねます」

 何の感情もない瞳をして、大姫は、前にも聞いた言葉を、頼朝に向かって言った。

「―何が不満なのだ」

 頼朝は、いらただしげに、そんな大姫に問いかける。

「天皇の妃など、万人が望んでもなれるのだぞ!? それを……それを、せっかく父がそなたに与えようと申しておるのに、いらぬ、と言うのか!?」

 喜んで受けるだろうと思っていた話を、娘に拒否され、頼朝は苛立った。

 それほどまでに、この子は自分を拒むのか、と。

「……はい」

 私は、それを望んでおりませぬゆえ。

 そして、大姫のその何のためらいもない言葉は、さらに頼朝を苛立だせていく。

「ならば、言い方を変えよう」

 さっきとは打って変わって厳しい表情をして、頼朝は言った。

「これは、命令だ。お前は私の、この鎌倉将軍の一の姫として、天皇のもとに嫁ぐのだ」

「命令……?」

「そうだ。これはお前のため、ひいてはこの鎌倉のための話なのだ。是が非でも受けてもらう。これ以上のわがままは、許されぬからな!!」

 そう言い終えると、頼朝は勢いよく立ち上がった。

 そしてそのまま、足音を荒く立て、部屋を出て行こうとする。

「わがまま……?」

 ―と、その時だった。

 小さい……本当に小さい声で、ポツリと大姫は呟いた。

 一見してみれば、それは、ただそれだけのことだった。

 だが―その言葉に秘められた、暗い……どす暗い感情に、頼朝は、はっとなった。

 驚いて振り返ると、暗い絶望に染められた二つの瞳が、頼朝を射抜く。

 一瞬、それが誰なのか、頼朝にはわからなかった。

 しかし、床に反射した朱色の光に照らし出されているのは、まぎれもなく自分の娘だった。

「大姫……?」

「義高様を思い続けることが……わがままなのですか? 父上」

 絶句する頼朝に、大姫が、感情のない声でそう言った。

 深すぎる絶望が、感情を麻痺させてしまったのだ。

「義高様を思い続ける私は―わがままなのですか?」

 夕闇より暗い瞳が、頼朝を捉え、そして自分の暗闇に落ちようとしていた。

「違う、そうではない!」

 それを止めようとして、頼朝は必死になってそう叫んだ。

「私はただ、お前に幸せになってもらいたいだけ……」

「―返してください」

 だが、それは空しい行為だった。

 大姫の心は、深い闇の中、落ち始める。

「返してください、義高様を。返してください、あの人達を。あの優しかった日々を。返して……みんな私に、返して!!」

 それは、ずっと叫びたかった言葉だった。

 この十年間、抑え込んでいた思いだった。

 言わなかったのは、わかっていたからだ。

 一度それを口に出してしまったら、自分がどうなるのか。

 無意識のうちに、そのことを大姫は悟っていた。

 暗い……自分の心の深遠。

 そこは、とても深かった。

 暗くて、寂しかった。あるのは―絶望のみ。

「いや……」

 けして、埋められることはない深い絶望しか、そこはなかった。

「いや……!」

 自分が抱える絶望感のことは、知っていた。

 だが、その深さは知らなかった。

 こんな深いとは、思っていなかった。

 否―知っていたのだ。

 ただ、直視していなかっただけで。

 だが今、大姫は自分の絶望と向き直っていた。

 封印していた言葉を解き放つことで、そうせざる得なかったのだ。

 暗い絶望の中で、大姫は一人だった。

 たった、一人っきりだった。

「いやあ―!」

「大姫!」

 もう大姫には、目の前の慌てふためく父親の姿など、見えていなかった。

 暗い瞳が映すのは、救いのない、己の絶望感のみ。

―義高様……!

 狂ったように叫びながら、絶望な涙を流しながら、大姫は、心の中で義高の名を呼んだ。

「姉上!?」

「姫様!?」

 遠くの方で、頼家と泉の声が聞こえたような気がして―そして、それを最後に、すべてが途切れた。


 その瞬間、何かが砕ける散る気配を、異界にいる夢織姫は感じ取った。

「―!」

 ガタッと、機織機の前から立ち上がる。

「大姫……!」

 決して当たって欲しくない予測が、とうとう現実のものになってしまった。

「姫様」

「夢織姫様!」

 やはり、そのことを感じ取ったのだろう。

 心配そうな不安顔のほおずきとやまぶきが、それぞれ何もない空間から、主人の前に現れる。逡巡したのは、一瞬。

「―行くぞ」

 まとった朱色の袿の裾を翻すと、夢織姫は闇に溶けた。

 二人の従者は互いの目を見合わせたが、すぐにその後を追った。


―彼らに、ためらうことは、許されなかった。


 何もわからない。

 何も見えない。

 ここはどこ?

(わからなくても、良いではないか)

(いずれ、お前も我らと同じになる)

落ちて行く意識の中、囁きかける声。

(さあ、眠るがいい)

(すべてを忘れて)

 声は優しく、囁きかける。

 そうね、と思った。もう、何も考えたくなかった。

 異界の少女が織り上げてくれた、優しい幻も。

 実の父に壊された、幸せな日々も。

 そして、哀しくて寂しい現も。

 すべて、忘れたかった。

(そうすることで)

(我らは、自由になれる)

 悪意のある囁きを聞きながら、最後の意識を手放しかけた―その時。


「逝くな、大姫!」


 遠くの方で、懐かしい人の、声がした。


 キンッという音がして、刀が翻った。

 鈍い銀色の刃先に触れた武者の霊は、霧のごとく散っていく。

 その隙を突き、何人かの霊が義高の横を通り過ぎようとしたが、その瞬間、義高の持つ刃が、白銀色に輝き出した。


バシュ!


 放電された白銀の光は、無残にも、武者の霊達を切り裂いていく。

(おのれ)

(こしゃくな)

 ガバッと赤い口を開けた、首だけの武者の霊が、幾体か義高に襲いかかった。

 だが、それも一刀された刃の下、露の姿となった。

「お前達も」

 その勢いにまかせて、義高は、そのまま剣を大きく振り下ろした。

 とたんに、放電した刀の光が、その場にいたすべての武者達の前に広がった。


バリバリバリ!


 そして、放電した光の後に続くように、雷鳴に似た音が辺りに響く。

「あきらめが、悪いな」

 それが止んだ後、静寂が義高を包んだ。

 だが、これも今しばらくのものなのだ。

 おそらく、また彼らはやってくるのだろう。

 夢織姫の、あの強固な結界を打ち破って。

「……」

 本来、そんなことは有り得ぬはずだった。

 大姫がこの十年、現の世界とあの世界を頻繁に行き来し、それでもこれまでの地獄の悪鬼達に目を付けられなかったのは、夢織姫の張る、結界の強固さのおかげなのだ。

 しかし、今のこの現状は。

 どうしてそうなるのか、義高は知らない。

 ただ、生き人の大姫の心が、己の心の闇に近づけば近づくほど、悪鬼は結界を打ち破りやすくなるのだ。

 何故なのか、一度夢織姫にも聞いてみたことがある。

 だが、彼女にもくわしいことはわからないのだろう。

 『さあな』と言った後、『闇の心が、闇の存在を呼ぶのかもしれぬな』そう、付け加えただけだった。

 ―一度、大姫の心は、己の闇に落ちかけたことがある。

 自分とそっくりの、一条高能と対面した時に。

 義高とよく似た、しかし義高ではない人物を、どう受け止めていいのかわからず、混乱して、そうなってしまったのだ。

「……」

 義高は、自分の前髪をくしゃっとかきあげた。

―義高様!

 無邪気な笑顔で、自分を見つめていた、幼い少女

 。大姫の心は、あの頃と少しも変わっていない。

 いつ殺されるかわからない不安な日々の中で、それでも幸せだと思う瞬間は、たくさんあった。

 それを与えてくれたのが、大姫だった。

 許されるものなら、ずっと傍にいて守っていきたかった。

 だが自分は死んで―もう、彼女と同じ世界に在ることはできない。

 彼女が、その生涯を終えるまで。

 それを望んだことがない、と言えば嘘になる。

 今でも、大姫が自分のことを思ってくれることがうれしくない、と言えば嘘になる。

 だがそれ以上に。

「幸せになってくれ、大姫」

 そう、思うのだ。

 自分のことを忘れて、大姫には幸せになって欲しい、と。

 ―と、その時だった。

 義高は、はっとなって下に向けていた頭を上げた。

 チリチリッという音が聞こえた。

 ガチャガチャガチャという音も聞こえた。後者は―わかる。

 無限地獄から這い出て来た、武者どもの足音だ。

 だが、前者は。

「……?」

 義高は、眉根を寄せた。

 まるで、聞き覚えがなかった。

 しかし、両者は絡まり合うように聞こえ、義高の方に近付いて来る。

 チリチリ ガチャガチャ

 チリチリ ガチャガチャ

 このチリチリという音が何であっても、武者どもが再び現れるのは、変わりない。

 義高は、カチャリと刀の柄を握り直した。

(返して) チリチリ

(私の幸せを、返して!) チリチリ

「!?」

 だが、次の瞬間。

 響き渡ってきた「声」に、彼は目を見張った。

(おう)

(応)

(来たか)

(来たか)

(これで我らは)

(戻れるぞ)

(自由になれるぞ)

 一方、鎧姿の武者達は、歓喜の声をあげながら、義高の前に現れる。

「―させるか!」

 ギンっと、刀が銀色に輝き出した。

 義高はそれを握りしめ、武者達に向かって行く。

 風が吹き、空気が裂けた。

 ザシュッ! ザッ!

(返して)チリチリ

(私に、義高様を返して!!)

 その間にも、大姫の「心」は近づいてきた。

 ここに。

 この、彼女が抱く「闇」の一番深い場所に。

「来るな……!」

 鎧姿の武者達を切りながら、義高は叫んだ。

「来るんじゃない、大姫!」

 心の底から。すべての、願いを込めて。


 空気が鳴動し、風が吹き抜ける。

 その風に長い髪をなびかせながら、夢織姫は、眼下に広がる風景を見下ろしていた。

 握り拳大の火の玉が、何十、何百と彼女の下で舞っている。

 その一つ一つの、中心部を見れば、怨嗟の表情をした生首が見えるはずだ。

 それらはすべて、夢織姫が今、背を向けている入口に群がってこようとしたのだ。

 しかし、それはあいにく朱色の着物をまとい、今は剣呑な金色の光を宿す人物が―言うまでもなく、夢織姫である―、二人の従者と共に現れたため、失敗に終った。

 彼女の真の恐ろしさを知るそれらは、しかしあきらめることもできず、彼女から離れた場所でゆらゆらと漂っている。

 一方夢織姫の方は、そんな彼らをしばしねぶるように見下ろしていたが、やがて、くるりと後ろに控えた二人の従者に向き直った。

 だが、金色に輝く二つの瞳が「見る」のは、彼らではない。

「―義高」

 夢織姫は、ここにはいない、義高の名を呼んだ。

 返ってくる言葉を待つ暇はない。

「今から行く。意地でも、大姫を守れ。―意地でも、勝て!」

 そして、夢織姫は金色の光をまとい、そのまま光と化して―向かって行った。

 現の、世界へと。


 カナカナカナ……

 遠くの方で、ひぐらしの鳴く声が聞こえた。

 しんっと静まり返った娘の部屋でそれを聞いた頼朝は、顔を上げた。

 とうに日は暮れ、倒れてしまった大姫のために、今は戸を閉めきられている。

 唯一灯された蜀台は、彼から少し離れた場所に眠る娘を、ぼんやりと照らし出していた。

『父上は、お気付きになられなかったのですか?』

 顔を上げたとたん、目に入った娘の姿に、頼朝は、一刻前、息子に言われた言葉を思い出した。

『姉上が生きるために、どれだけ苦しい思いをされて―それでも、生きようと努力されていたことを』

 青ざめた顔。

 すっかり痩せてしまった、細い体―まるで、針のような。

 大姫は、十七歳である。

 花のような笑顔が、若木のように瑞々しい体が、一番しっくりくる年齢なのだ―本来なのば。

「何故だ……?」

 問わずには、いられなかった。

 頼朝とて、この歳になるまで幾人もの大事な人々を亡くしてきた。

 自分の命で殺された肉親もいる。

 だが―いつだって、自分はそれに耐えてきたのだ。

「なぜ、その私の娘であるお前が、耐えることができぬ……?」

 たった一人の少年の死を。どうして、いつまでも引きずる?

(哀れな)

(あわれな)

 と、その時だった。

「!?」

 どこともなく、人の囁くような「声」が聞こえた。

 頼朝は、はっとなって辺りを見回す。

 ジジッと、燭台の火が揺れた。

 その灯に照らし出されるのは、この部屋では頼朝と、眠っている大姫のみ、である。

「……?」

 だが、確かに聞こえたのだ。

 人のささやく様な、悪意のある「声」が。

 もう一度、頼朝は注意深く大姫の部屋を見回した。

(おやおや)

(慌てておるよ)

「何者!?」

 ふっと、風もないのに、燭台の灯が消えた。

「!」

 続いて、頼朝の目の前に現れたのは。―暗い闇の中、赤く輝く目が、幾つもあった。

 頼朝は、座っていた自分の横に置いていた刀を取ると、鞘から抜き、立ち上がる。

 だがその一方で、奇妙な感じもしていた。

 頼朝は、戦場にも出たことのある武将である。

 何度も、こういった場面には出くわしてきた。

 だが、そう言った時に感じるもの―人の気配と殺気―が、まったく感じられないのだ。

 いや、殺気は感じるのだ。

 ただ、それは殺気と言うよりは、怨念に近い。

 そして、人の気配を感じないのは、最初は彼らが隠形の術を使っているのだと思っていた。

 しかし、彼らの気配はいっこうに感じ取れない。

 これだけの殺気を、出しているのにもかかわらず、である。

 普通ならば、これほどの殺気を感じていたら、おのずと気配も感じ取れてしまうのだ。

 おかしい、と頼朝は思った。

 何か、変だと。

(考えたところで、無駄であろうよ)

 ぎらりと、赤い瞳を持つ異形の者は、その瞳を光らせて、笑ったようだった。

(お前は、ここで死ぬ)

 はっと気が付くと、細い銀の光が、頼朝めがけて向かって来る。

 体を動かし、それを避けようとするが―それは、できなかった。

 体が、動かないのだ。

 目を瞑ったのは、もう本能的なものだった。

 そして次の瞬間、響いてきた声は。

「深き恨みを果たす方法がそれか? 案外、そなたらちゃちじゃのう」

 驚いて目を開けると、女が一人、ちょうど相対する両者の間の位置に立っていた。

 足元までありそうな長く黒い髪と、朱色の着物、そして金色に輝く瞳。

 二つのその瞳は、真っ直ぐに頼朝と相対する異形の者を貫いている。

(貴様……!)

「どのようなことをしでかすかと思えば、その程度か。まあ、よい。後はそなたらだけじゃ。さっさと始末をつけるとするかの」

 若い―まだ十代半ばの、少女と言っていいその人物は、そう言って艶やかに笑った。

 それと同時に、彼女の体が、瞳と同じ金色に輝き出す。

「……!」

 その輝きは、頼朝を襲った異形の者達の正体を明るみにさらした。

 鎧をまとい、兜を頭に付けたその姿は、頼朝もよく知っているものだった。

 だが―顔がなかった。

 兜の顔の部分が空洞になっており、人間の目にあたる部分に、細い、三日月形の赤い目のようなものが、二つ浮かんでいる。

 その者達が十数人、自分を取り囲むように立っていた。今さらながら、その異様さに頼朝は絶句する。

(なぜ、貴様は我々の邪魔をする!?)

(そなたとて、我らと同じ、平氏の血筋であろう!!)

 だが、金色に輝く女は―少女は、そんな彼らに問いかけられても、平然としていた。

 いや、むしろその浮かべている笑顔に、恐ろしいほどの艶やかさが宿る。

「いつ(・・)の(・)話を、しておる」

 ふわっと、少女の発する金色の光が揺れた。

 それがちょうど二つ、少女の両隣にふわふわと揺れながら、集まって来る。

 初め、それは犬のように見えた。

 だが、犬にしては、体の大きさと牙の鋭さが、あまりにも違いすぎる。

「獅子……?」

 驚きのあまり、頼朝がそう呟く。

 「それに、忘れたのか? 我が一族を滅ぼしたのは、同じ平家の者達ぞ」

 金色の二匹の獅子が、少女の両隣に現れる。

「今さら、四の五の言うでないわ」

 少女がそう言うのと、両隣に控えた獅子達が武者姿の亡霊達に襲い掛かったのは、同時だった。

バリバリバリッ

 何とも嫌な音が、辺りに響く。

 二匹の獅子達は、頼朝の目の前で、片方は頭から片方は腰から武者達の霊を飲み込んでいく。

 それは文字通り、大きく裂けた口を開き、鋭い牙を出して、霊達を一口で飲み込んで行くのだ。

(ヒィィィ―!)

(グッッッッッォ!)

 霊達は、どうやら逃げることができないらしく、恐怖の感情を撒き散らして、なすすべもなく獅子達に飲み込まれていった。

 それは、陰惨な光景だった。

 人が、獣に食われている光景でもあるのだ。

 戦場で幾つもの死を見てきた頼朝でさえ、戦慄を覚えるものだった。

 しかし、その光景を、少女は眉一つ動かさず、むしろ口元には笑みを浮かべて、見つめている。

 頼朝は、薄ら寒いものを感じた。

 この少女もまた、異形の者なのだ。

 人間ではなく、人間の心を持たない、人外の者。

 やがて、何とも言えない静寂が部屋に満ちた。

 ふと気が付くと、金色の獅子達の姿はなく、少女の体から発されていた金色の光も消えている。

 いつのまに灯されたのか、燭台の火が、先ほどと同じように部屋を照らし出していた。

 さっきまでの地獄絵が、嘘のような静けさである。

 それを認めたとたん、頼朝は力なく床に座り込んだ。

 ガチャンッと、握り締めていた刀も床に落ちる。

「あれは……何だ?」

 それでも彼は、人外の存在である少女に、そう問いかける気丈さは持っていた。

「……」

 だが、少女は何も答えようとしない。

 恐怖からくる苛立ちに、頼朝は少女を仰ぎ見た。

「―貴様……!」

 その瞬間、彼は怒りの声を上げた。

 頼朝の目に映っていたのは、金色の光を発していた、夜叉のごとき少女ではなかった。

 自分とよく似た少女―大姫だった。

「わたくしは、現では器を持たぬ。ゆえに、借りたまでのこと」

 大姫の声で、大姫ではない少女は言った。

「貴様、大姫はどうするつもりだ!?」

「どうするつもりもない。言うたであろう? 借りたまで、と。しかし、奇妙だの。己のために利用した娘でも、やはりかわいいのかの?」

「!?」

「それとも、これから役立つから心配なのかの?」

 クスクスと笑いながら、少女は頼朝に問いかける。

 その言葉は、言葉遊びのようで、どこか陰を含んでいた。

「―何が言いたい? それよりも大姫はもとに戻るのだろうな!?」

「さて? それは、わたくしにもわからぬ」

「何!?」

「あの子は今、現にはおらぬ。わたくしにもどうにもならぬ、己の心の闇に沈んでいきよった。戻るかどうかは、本人しだいじゃ」

 そう言い終えると、少女はくるりときびすを返した。

 もうこれ以上話すことはない、というように。

「待て……!」

 それを、頼朝は呼び止めた。

 褥の方に足を向けていた少女は、すっとその動きを止め、ちらっと横目で頼朝を見た。

「なぜだ?」

「……」

「なぜ、大姫はそこまで己の心を追いつめるのだ!? なぜ……!」

 苦渋の声を出し、頼朝は少女に問いかける。

「―人には、それぞれ己が信じる、『幸せ』がある」

 それに、少女は振り向かず答えた。

「それをお前は、自分のためだけに、自分の信じる幸せを、あの子に押し付けようとしたのだ。あの子の求める幸せは、他にあったというのに」

「……!」

「覚えておくがいい。お前は、お前自身のためにだけ、あの子の幸せを奪ったのだ。そして、己のためにだけに、再び同じことを繰り返した」

「違う、私は……!」

 ただ、願っていただけだった。

 大姫の、幸せを。

「あの子のために、と言う言葉は、お前がお前自身を欺くためだけのものじゃ。まちがえるでない。お前は、お前のためだけに、あの子が選んだ幸せを否定したのだ」

 しかし少女は、頼朝の悲痛な叫びを、あっさりと否定した。

 その容赦のない言葉に、頼朝は絶句する。

「わたくしと初めて出会った時、あの子は、考えられないほどの絶望を抱えておったよ。わたくしは、幼き子があれほど絶望を持っておるのを見たのは、初めてだった」

「……っ!」

「お前やわたくし達が考えられないほどの思いで―それでも、あの子は生き続けておったよ」

 遺された、愛しい者の遺志のみを己の支えとして。

 頼朝は、刀を放した手で、口元を覆った。

 自分は、少しもわかっていなかったのだろうか?

『父上は、お気付きになられなかったのですか?』

 幼い弟や妹に哀しげな笑みを見せる以外、いつも遠い瞳をして、自分には笑いかけることもしない娘。

『姉上が生きるために、どれだけ苦しい思いをされて』

「私は……!」

『それでも、生きようと、努力されていたことを』

 幼い頃は、あんなに無邪気だったのに。

 もう一度、あの笑顔が見たかった。

 あの頃のように、「父様!」と微笑んで欲しかった―それだけの、つもりだったのに。

「その他でもない、深き絶望にあの子を突き落としたのは―お前だ」

 そして少女は、その事実をきれいに忘れ去っていた頼朝に、容赦なく言った。

 娘の心の傷を、癒えることすら待てなかった、

 愚かで、欲深き父親に。

 そして、彼女は今度こそ立ち去ったようだった。

 ふと気が付くと、頼朝はさっきと同じように、褥に横たわる大姫を目の前に座り込んでいた。

 床に転がっていたはずの刀も、今はちゃんと腰の脇差しの中に納まっている。

「夢……だったのか?」

 あの、背筋がこおり付くような光景も、大姫の姿で大姫ではない少女が語っていたことも。

 まるで、すべてが夢のような―。

カナカナカナ……

 その時、また、ひぐらしが鳴いた。


カナカナカナ……

カナカナカナ……


 繰り返されるその鳴き声は、やがて、夜の闇にゆっくりと溶けていった。



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