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七 かげろう

 冷たい感触を感じて、大姫は目を開けた。

「気が付かれましたか?」

 声をかけられ、視線を声のした方に向けると、水の入った桶に右手を置き、ほっとした表情の泉が、自分を見下ろしていた。

 どうやら先ほど感じた冷たい感触は、額に置かれた、冷たい水を含む布のせいらしい。

「泉……私……」

 何故自分がこんな状態で寝ているのかわからず、大姫は額の布を手で取りながら、起き上がろうとした。

「だめですよ、まだ熱は完全に下がっていないんですよ」

 それを、泉があわてて止める。

 しかし大姫の方は、泉の言葉に大きく目を見開いた。

「熱って泉……」

「覚えていらっしゃらないんですか?三日前の明け方からすごいお熱で、それからずっと眠っていらっしゃったんですよ」

「―そうなの?」

 言われてみれば、頭が重い。体も、力がぬけてだるく感じる。

「変だな……」

 確かに、自覚がないまま熱を出し、二・三日眠り続けるということは、これまでにも幾度かあった。

 しかし、あの世界から戻って来て、目を覚ましたら熱を出している、というのは初めてだった。

「変だな、じゃありませんよ。たとえ覚えていらっしゃらなくても、熱があるのは事実なんですから、ちゃんと安静にしてください!」

 日頃、大姫よりも年下ということもあって、あまりあれこれ指図しない泉が、大姫の言葉を聞いて叱りつけるように言う。

「―ごめんなさい」

 そのあまりの意外さと、言葉の正しさに、大姫は彼女が年下だということも忘れて、首をすくめながら謝った。

 そうして、その言い方が鈴と似ていることに気付いて、つい、くすくすと笑ってしまう。

「姫様?」

 大姫に飲ませる薬湯の準備をしていた泉は、怪訝そうに大姫を見下ろしてきた。

「どうかなさいましたか?」

「ううん、何でもない。ただ、似ているなあって思ったの」

「え?」

「さっきの泉の言い方、鈴とよく似ていたの。やっぱり、親子なのね」

 その言葉に、泉は少し困ったような、照れたような顔になった。

 だが、すぐに気を取り直し、

「ほら、これを飲んだら、また横になってくださいね」

 と言って、大姫が半身を起こすのを手伝い、薄い夏用の羽織を肩にかけてくれた。

 そして、大姫が顔をしかめながら薬湯を飲み始めると、

「水をもらってきますね」

 と着物の裾を翻し、パタパタと小走りで出て行った。

 何でもてきぱきとやる彼女は、幼いながらも、この小御所ではなくてはならない存在になりつつある。

 その後ろ姿を、優しい気持ちで見ていた大姫は、ふと、泉が座っている場所のすぐ近くに、閉じてある白い扇が転がっていることに気付いた。

「……」

 夏の終わりとはいえ、この暑さだ。戸は開け放ってあるが、まとわりつくような部屋の熱気はなかなか収まってくれない。

 熱がある身でも、この暑さはやはり不快なものである。

 きっと泉は、この扇で、熱のある自分を何度も繰り返し扇いでくれていたのだろう。

 時々は、汗をかいた自分の体を、手ぬぐいで拭いてもくれたのだろう。

―よく考えるがよい。そなたの求める幸せが、何なのか。

 ふいに、夢織姫の言葉を思い出した。それがどうしてなのか、わかなかったけれど。


 泉が飲ませてくれた薬湯が効いたのか、夕闇に紛れて頼家が部屋に訪れて来た時には、大姫の熱もすっかり下がっていた。

「頼家」

 庭の方から、音を立てぬよう寝所に入り込んできた弟を、大姫は起き上がって出迎えようとした。

「いいよ、姉上。寝ていろよ」

 それを見て、頼家は慌てて制止しようとするが、大姫は、

「だいじょうぶよ、熱はもう下がったんだから」

 とそう言い、弟の言葉に構わず、起き上がった。

 そんな姉の態度に、あきらめのため息を吐くと、頼家は自分も姉の横に座り込む。

「ほら、見舞いと土産」

 そして、着物の袂から薄い紅の包みを出すと、大姫に手渡した。

「あら、ありがとう。でも頼家、見舞いはわかるけど、お土産って?」

 それを受け取りながらも、弟の言葉に引っかかるものを感じた大姫は、そう尋ねる。

「ああ、昨日今日で、京から来た客人のために、三浦まで舟遊びをしに行ったんだよ」

「客人?」

「……一条高能殿、だよ」

 どっくんと胸が鳴ったのを、大姫は感じた。

「―いつ、お着きになられたの?」

「一昨日だよ」

 一昨日と言えば、大姫が熱を出して寝込んでいた時である。

「夜には歓迎の宴もやるそうだ」

「へえ」 

 言われてみれば、庭に開け放された戸の方から、人々が慌しく動いているような音が聞こえてくる。

 小御所の人間が、総出で準備に当たっているのだろう。

「どうりで、泉の姿が見えないわけね」

 あの後、もう一度眠って、小半刻前ぐらいに目を覚ましたのだ。

 だが今度は泉の姿はなかった。

 泉は察しがいいのか、大姫が目を覚ます頃にはよく傍にいて、いろいろ世話をしてくれる。

 しかしこの騒ぎでは、来たくても来られないのだろう。

「泉も気にはしていたんだけどな。でも、今、チビどもの相手しているから」

「三幡と千幡の?」

「ああ。二人とも、部屋から出たらダメだって言われてさ、泉と遊べるなら我慢するって言うから、母上が泉を呼んだんだよ。あいつら、すっかり泉に懐いているな」

「泉は優しいからね」

 さっきも、水を取りに行って戻ってきた泉に、大姫は礼を言ったのだが、泉は、『いいえ。それよりも、一昨日のご看病は、御台所様がされたんですよ。お礼は、御台所様にもおっしゃってください』と、優しい笑顔を浮かべて、そう言ったのだ。

 客人を迎えている最中の母がそんなことをする暇があったのか疑問だが、そこには、母に対する気遣いがあった。

「いいお母さんになるよね、きっと」

「泉が?」

 姉の言葉に、頼家はきょとんとした顔になる。

「なあに、変な顔をして」

「いや……姉上も気が早いな、と思って。泉はまだ子どもだぜ」

「あなたこそ何を言っているの、頼家。女の子は、十二・三歳ぐらいでも結婚するのよ」

 この時代、女の子の結婚適齢期は、十代半ばであった。

 もちろん、二十代や三十代で結婚する者もいたが、泉の場合、その性格とかわいらしい容姿もあって、彼女に心ひかれる男は数多(あまた)いそうだった。

 大姫がそう言うと、

「―そうなのか?」

 頼家は何とも言えない―奇妙な顔になった。

「なあに?もしかして、泉の結婚相手が気になる?」

「何言っているんだよ、姉上!!」

 姉の言葉が図星だったのか、頼家の顔が、とたんに赤くなる。

(ふーん?)

 そんな弟の様子に、大姫はもっと突っ込みたくなったが、その辺は、なにぶん繊細なところだ。

 意地を張られても困るので、それ以上は何も言わないことにした。

「それよりも姉上、その土産を見てやってくれよ。あいつら、『姉様にあげるの』って、気合入れて捜していたからさ」

 頼家の方は、あたふたと話題を変えようとしている。

 大姫は、笑いながらその思惑に乗ってやることにした。

 受け取った紅色の包みを、そっと開けてみる。

 すると、中から薄桃色の桜貝が出てきた。

「わあっ……!」

「綺麗だろう?」

「本当。ありがとう、頼家」

「礼なら、あいつらに言ってやってくれよ。それはそれは熱心に、捜していたんだぜ」

 姉のうれしそうな顔に、頼家の顔も自然緩んでくる。

 その笑顔を見て、大姫は何とも言えない、切ない気分を感じた。

「ねえ……頼家」

「何?」

「一条高能殿って、どんな方だった?」

 薄桃色の桜貝を、一枚指で摘みながらの大姫の問いに、頼家は一瞬強い視線を向けたが、

「―まあ、見かけは美青年って言うんだろうな。綺麗な顔立ちをしていたよ。性格は……どうなんだろうな?まあ、話し方とか立ち振る舞いは貴族的って言うのかな、優雅で柔らかかったよ」

 何も言わず、素直に姉の問いに答えた。

「感じは、悪くない方なのね?」

「あくまで『感じ』だよ、姉上。一度会ったきりじゃ、中身までわからないさ」

「……そうね」

 頼家の言葉に、大姫は薄く笑った。

「そういえば、高能殿の顔を見て、母上が―父上もか。すごく驚いていたな」

 そんな姉の様子に気付いたのか、そうでないのか、頼家はさらにそう言葉を続け、よもすれば、そのまま自分の暗闇に落ち込みそうになった大姫の意識を、こちらに向けさせた。

「驚くって……誰が?」

「だから、父上と母上が、だよ」

「何で?」

 何故、あの二人が一条高能の顔を見て驚くのか。

「それは俺が聞きたいぐらいだよ、姉上。母上はともかく、あの父上が驚くなんて、めったにないんだぜ。二人とも、高能殿と対面したとたん、絶句して、しばらく高能殿を凝視していたもんな。さすがに父上の方はすぐに我に返っていたけど、母上の方は、父上が目で咎めるぐらい、じろじろ高能殿のことを見つめていたからな」

「本当なの!?」

「嘘を言ってどーするんだよ、姉上」

 確かに彼らの母親である政子は、父親の頼朝と違って、喜怒哀楽をはっきりした、感情をそのまま表に出すような性格をしている。

 だが、かりにも鎌倉御所の、御台所なのだ。

 家族の前でならともかく、公式の場で、あらかさまに自分の感情を出すようなことはしなかった。

 それなのに、その母が、公式の場でそんな不躾な態度に出たと言う。

 それだけ大きな衝撃を、高能から受けたのだろう。

「でも……どうして?」

 しかし何故かの一条高能なる人物を見たぐらいで、そこまで母が……父が、衝撃を受けなければならないのか。

「そうだよなあ」

 そこが、わからない。二人は、互いの顔を見合わせて考え込んだ。

 だが、わからないものは、いくら考えてもわからないものなのだ。

 やがてその不毛さに気付いた、見た目(大姫は父親似、頼家は母親似)も性格もあまり似ていない、傍目には交流もあまりないと思われている姉弟は、

「止めよう、姉上。考えてもわからないものは、わからないさ」

「そうね」

 うんうん、と息の合った動きで頷き合った。

 この姉弟は、こういう時、驚くほど息の合ったところを見せる。

 と、その時だった。

 ぱたぱたと、小走りで縁を走る足音が聞こえてきた。

 それはかなり慌てているらしく、足早に、大姫の部屋に近付いてくる。

 大姫がそれに気付くのと、頼家がすっと音もなく立ち上がり、大姫の枕元の几帳の影に身を滑り込ませたのは、ほぼ同時だった。

 頼家にとって、それは当然の配慮だった。

 彼は、大姫がつらいことや哀しいことがあると、自分の部屋に逃げ込んでくることを知っている。

 そして、隠れ場所というものは、すぐに他人に気付かれるような場所ではいけない、ということも知っていた。

 自分が姉と親しいことがわかれば、姉は逃げ場所を失ってしまうのだ。

 本人は自覚していないが、ぎりぎりの線でこの世に留まっている姉が、その逃げ場所まで失ってしまった時、どうなってしまうのか。

 それがあっさりと想像できるから、頼家はたとえ両親の前でも、姉と親しいところは見せないよう注意していた。

 まあ、幼い弟妹達の前ではそれも緩んでしまうのだが、幼いなりに、彼らもまた何らかのものを感じているのだろう。

 普段、自分達の前では仲の良い姉と兄が、人前に出たとたん、一言も口を聞かなくなるのを、不審に思わぬわけではないだろうが、よけいなことはいっさい口にしなかった。

「……」

 一方大姫は、几帳の影に身を滑り込ませた弟を、しばらくの間見つめていた。

 いつだって、頼家はそうなのだ。

 大姫は、頼家の自分に対する気遣いを知っている。

 自分を案じてくれる、弟の思いも知っている。

 頼家はいつだって、自分に優しかった。

 そんな弟だからこそ、尋ねずにはいられなかったのだろう。

―姉上は、それでいいのか?と。

(姉上?)

 几帳の影に身を隠した頼家が、けげんそうに大姫を見返した。

 大姫はそんな弟に小さく首を振り、微笑んでみせる。

「姫様、大姫様、起きていらっしゃいますか?」

 そして、慌てたように部屋に駆け込んでくる侍女の声を聞きながら、考えてみよう、と思った。

 自分がどうしたいのか。

 何を望んでいるのか。

 今はまだ、何もわからないけれど。

 一生、わからないままかもしれないけれど―


 その人物を見たとたん、大姫は絶句した。

 常に冷静沈着と言われていた父が動揺したわけも、人前ではできるだけ取り乱さないようにしていた母が取り乱してしまったわけも―すべてが、その人物の顔を見たとたん、理解できた。

 その人物の名は、一条高能。

 大姫の目の前に座る彼は、にこやかな笑顔で大姫を見つめている。

「お加減の悪いところを、不躾ながらお邪魔して申し訳ございません。お体の具合はいかがですか?」

 そして、穏やかな声で大姫にそう尋ねてくるが、大姫の方はそれどころではない。

(義高様……!?)

 口が驚きのあまり、動かないのが幸いだった。

 もし口が動いていたのなら、絶対に叫んでいた。

 それぐらい―一条高能は、義高に似ていた。

 おそらく、あのまま成長していれば、義高はこんなふうになっていただろう。

 細い切れ長に目も、すっと通った鼻筋も。

 驚くほど、義高と酷似していた。

「いいえ。こちらこそ、お待たせして申し訳ございません」

 いつまでも黙り込み、返事をせぬ娘に代わり、政子がそう答えた。

 ちなみに侍女が高能の訪れを告げ、こうやって対面するまで、軽く一刻はかかっている。

 何故、たかが見舞い客と対面するのに、それだけ時間がかかるのかと言うと、大姫の身支度にそれだけの時間がかかったのだ。

 体を拭い、髪を整えて、化粧をし、着物を身に付ける。

 それら一連の作業は、政子の指図の下念入りに行われ、その時の母の様子から、大姫は、自分の予想がまちがいなく的中していることを悟った。

 深いため息を吐きたくなるのをどうにか堪え、見舞い客として対面したのだが。

「私の選んだ袿を着てくださったのですね」

 その対面した一条高能は、政子との挨拶を終えた後、そう言って大姫に話しかけてくる。

 義高と同じ顔の、微笑みを浮かべたその姿に、大姫はとっさに下を向いてしまった。

 隣で政子が困ったような顔をするのがわかったが、どうしようもなかった。

 そうしないと、泣いてしまうかもしれなかったのだ。

「姫がどういう御方かわからなくて、つい自分の好きな物を選んでしまったんです。でも、よかった。よく似合っていらっしゃいますよ」

 だが、当の人物である高能は、そんな大姫の態度に気分を悪くした様子もなく、穏やかな声で続けている。

 その声は、高くもなく低くもなく、優しい雰囲気に満ちていた。

 けれど、それは確かに大人の男性のもので。

 大姫と出会った時、少年期真っ最中だった義高の声とは、あまり似ていない。

 大姫には、それが救いだった。

 その声を聞くことで、自分は、この人が義高とは別人だと認識できる。

「このようなひなびた田舎では手に入らぬ、見事な品です。高能殿のお目の高さには、感服致しますわ」

 あいかわらず返事をしようとしない大姫に、政子は会話の間を埋めるように言い、「ね、姫」と最後に同意を求める言葉を付け加えた。

「……はい。まこと……良き品を、ありがとうございます……」

 その言葉に俯きながら頷き、やっとの思いで大姫は口を動かす。

 早くここから立ち上がって、部屋に帰りたかった。

 そして頼家の部屋に行って、何も考えずに眠りたかった。

(夢織姫)

目の前に、義高とよく似た、けれど義高ではない人がいる。

(教えて)

―私は、どうしたらいいの? どうしたら、この事実を向き合える?

 答えが見えないまま、大姫は下を向き、両手を固く握り締めた。


 後から考えてみれば、義高と高能が似ているのは、単なる偶然ではなかった。

 義高の父・木曾義仲は、大姫の父・頼朝とは従兄弟同士である。

 そして高能の母・葉津は、頼朝とは同母の兄妹だ。

 つまり、義高と大姫もそうなのだが、二人は、はとこ同士なのだ。

 それでも―彼らは、似すぎていた。

 一条高能と対面している間、自分は、何度「あれは義高様ではない」と、心の内で呟いただろう?

 大姫は、暗い闇の中、ぼんやりとそう思った。

(ねえ、夢織姫)

そこで、大姫は一人だった。

 夢織姫の姿も、義高の姿もない。

(私は、どうすればいいの?)

 けれど、問わずにはいられなかった。教えて欲しかった。

 あの、厳しい、でも優しい眼差しを持つ少女に。

 何時だって自分に、的確な助言を与えてくれた、あの不可思議な少女に。

 だが、答える声はなく。

 大姫は一人、暗く静かな空間に立ち尽くしていた。

 何も見えず、何も聞こえない、闇の中で。

(あの人が、義高様だったら良かったのに)

 響くのは、自分の声だけだった。

 それは、暗闇に広がり、沈み込むように消えていく。

(そうすれば)

 こんな思いは、しなくてすんだ。

 一条高能は、義高ではない。

 それは、わかっている。

 でも―理性と感情は、別なのだ。

 大姫は、義高の面影を求める自分を止めることはできなかった。

 一条高能と結婚すれば、義高とよく似た面影をいつでも求めることができる。

 しかし、彼は義高ではないのだ。

 わからなかった。

 自分の心が。

 何を望んでいるのか。

 どうしたらいいのか。

 と、その時。

(一回会っただけじゃわからないさ、姉上)

 すとんと、本当にすとんと、頼家の言葉が心の中に入り込んできた。

 そのあまりの唐突さに、大姫は、自分のことながら驚いてしまう。

 けれど、大姫にとって、それは目から鱗が落ちる言葉であった。

 改めて思い出すと、その通りなのだ。

 高能と会ったのは、まだ一回きりである。

 そして、自分は義高とあまりに似すぎている彼の容姿に衝撃を受けるあまり、彼の人となりは全く確認していないのだ。

 それに、一条高能の方が、大姫を妻にすることを断る可能性もある。

 楽観はできないかもしれないが、焦る状況でもない。

 わからない時は、どんなに考えてもわからないものである。

 そこまで考えて、大姫は苦笑した。

(「考えてもわからない時は、わからないさ」……か)

 ここ数日で結論を出さなければならぬであろうが、とりあえず、今はその時ではない。

(その通りよね、頼家)

 ならば、あせらず、待ってみよう。

(あせっても、しょうがないものね)

 自分の「心」が見えてくるのを。

 大姫がそう結論付けるのと、彼女の姿がそこから消えたのは、ほぼ同時だった。

 それと入れ替わるように、暗闇の中、楕円状の光が浮かび上がる。

 その中心部には、白い衣に頭をきちんと結った男が―義高が、いた。

 彼は、大姫がさっきまでいた場所を、何とも言えない表情で見つめていたが、

「幸せに」

 やがて―小さく、そう呟いた。

「幸せになってくれ、大姫」と―

 まるで、祈るように。


 朝の膳を前に、さじを持った大姫は、深いため息を吐きそうになった。

「―姫様」

 それに目ざとく気付いた泉が、じろっと真正面から見上げてくる。

「だって、泉……」

「だってじゃありません!」

 大姫に言葉を返す泉の声は、冬の風よりも冷たかった。

「食欲がなくて……」

「そう言って、昨日は丸一日何も食べていらっしゃいませんよね」

「でも、気分は悪くないのよ?」

「そう言って昨日、高能様が帰られた後、お倒れになったのはどなたですか?」

 冷たい声の鋭い指摘に、大姫はぐっと詰まった。

 すがるような目で泉を見るが、自分よりも六つも年下の少女は、冷たい視線を崩さなかった。

「健康な生活は、食事からです」

 なまじ苦労人の両親を支えて育ってきただけに、その迫力は並ではない。

 それに押され、大姫はしぶしぶ手に持ったさじで、水飯を口に運び始めた。

 夏の暑さも徐々に薄れつつあると言うのに、大姫の食欲は、落ちる一方だった。

 自分でもおかしいな、と思うのだが、どうしても食欲が湧かない。

 以前なら何が何でも食べてみよう、と無理をしてでも食べようとしていたのに、今はその気力もない。

「どうしちゃったんだろう、私……」

 そのせいか、昨日の「夢」でも、夢織姫に会えなかった。

 ここ最近、ずっとそうなのだ。

「どうもこうもありませんっ。食べないから、体の調子が悪いんです!」

 ぼんやりと考え込んでいた大姫は、泉の容赦のない突っ込みに、ぐっとなる。

「泉~~」

「変なことを考えないで、早く食べてください」

 ここに来たばかりの頃は、鈴に似ているのは顔だけかと思っていたが、やはり、泉はあの鈴の娘であった。

 だが―泉が口うるさく言うのは、食事のことだけなのだ。

 本来おっとり型のこの少女は、にっこりと微笑みながら、自分の世話をしてくれる。

 その彼女が、食事のことだけは、厳しい顔をして注意してくるのは、やはり自分のことを心配してくれるからだ、と大姫は思う。

 その証拠に、大姫がなんとか水飯を半分食べ終えると、泉はうれしそうな顔になった。

 本当にうれしそうな表情をするので、全部食べたらどんな表情をするのかな? とも思ったが、これ以上、食べられそうになかった。

 だから大姫は、

「だめ?」

と、許可を求める表情で、泉を見た。

 泉は、とたんに顔をしかめるような表情になったが、「仕方ないですね」と、ため息を吐き、大姫の膳を持って立ち上がった。

 泉としても、主人が精一杯の努力をした結果だとわかっているので、それ以上のことは強く言えないのだ。

 と、その時である。

 ばたばたと軽い足音がして、

「泉、姫様の食事はすみましたか?」

 独特の落ち着いた声と共に、黒く長い髪に、少し白髪が交じり始めた中年の女性が、大姫の部屋に入ってきた。

「阿古夜様」

 政子付きの侍女・阿古夜である。

「食べ終わったわよ、阿古夜」

 問われた泉に代わり、大姫は直接そう答える。

「また、残されましたか」

 ちらっと泉が抱える膳を横目で見て、阿古夜が言った。

「食欲が湧かないのよ」

「御台所様も、御所様も、御心配なされておいでです」

「―用件は何なの? 阿古夜」

 母の政子が十代初めの頃から付き従ってきた阿古夜は、母とも年が近いせいか、主人と侍女と言うよりは、仲の良い女友達、という関係を、長い間母と続けてきた。

 そのせいか、両親に心を閉ざしがちな大姫に、よくさっきのようなことを言うのだ。

 だから大姫の態度も、阿古夜に対するものは、両親の時と同様固いものになりがちだ。

 泉も、困ったような表情で二人を見つめている。

「高能様がおいでですので、お支度を」 

 しかし、やはり長年侍女として仕えている阿古夜の方が、大人であった。

 何事もなかったようにそう言い、大姫を促すと、

「それを下げたら、他の者達にも声をかけてね、泉」

 泉にも、指図を与えた。

「はい、わかりました」

 利発な少女は、その場を和ませる笑顔を浮かべると、ぱたぱたと駆け出して行った。

 泉自身は自覚していないだろうが、彼女の存在は、とかく両親や阿古夜の前では固くなる大姫の心を、和ませる効果があった。

 その笑顔を見て、大姫は寸前まで出かかった、「今日は会いたくないわ」の言葉を、どうにか抑える。そして、何も言わず立ち上がる。

「断られないのですか?」

 そんな大姫を見て、阿古夜が言った。

「せっかく来られたのに、私のわがままで追い返すのは、気の毒でしょう?」

 大姫がそう言葉を返すと、阿古夜は微かに―本当に微かに、微笑みを浮かべた。

 こんなところは、幼い頃から変わっていない。

 たとえ頼朝や政子に対して心を閉ざしていても、自分よりも、まず他人を思いやる大姫の心根は、変わらないのだ。

 ただ―その優しさは、両親に向けられることはない。

 哀しいことだが、それは確かな事実だった。

 だからこそ、阿古夜は願わずにはいられないのだ。

 あの京から来た青年が、大姫の心を和ませてくれるのを。

 それは、頼朝と政子の願いでもあった。

 そう―少なくとも、阿古夜はそう信じていた。

 あの二人の願いも、自分と同じである、と。


 一条高能は、鎌倉に滞在し始めてから、毎日のように大姫に会いに来ていた。

 滞在場所が小御所であり、年も近いので、自然時間のある時は、大姫の部屋に足が向くらしい。

 そして京のことや、鎌倉を見て思ったことなどを話して、

「体の弱い姫君に、ご無理をさせるわけにはいきませんから」

 と、小半時もしないうちに帰っていく。

 実際、一条高能という人物は、知れば知るほど、優しく、穏やかな人物であった。

 その穏やかさは、生来のものであろうが、彼の育ちの良さからもきているのだろう。

 そしてそんな穏やかさと優雅さは、木曾の山中で、武士の子として育った義高にはないものだった。

 きっと、義高があのまま成長し、彼の隣に立っても、一目で見分けがつくだろう。

 そこまで考えて大姫は、

(ああ、まただ)

 と、思った。

 自分の目の前には、一条高能が、優しい微笑みを浮かべながら座っている。

 その表情のまま話していた彼は、ふと、大姫の様子が変わったことに気付き、しゃべるのを止めて、

「姫君?」

と、大姫に問いかけた。

「ご気分が悪くなられましたか?」

「あ、いえ、何でもないです」

 もしそうならば今すぐ帰りますと言いそうな高能の態度に、大姫はあわてて返事をする。

 実際、自分の態度が悪いのに、そのように気を使わせるのでは、申し訳がたたない。

「本当ですか?」

 しかし、今にも立ち上がりそうな高能は、疑わしげに大姫を見ている。

「ええ。ご心配なく」

 たたみかけるようにそう言うと、どうにか納得したらしく、

「ご気分が悪くなられたら、ご遠慮なく申してください」

 そう念を押して、半分浮いていた腰を敷物の上に降ろした。

 本当に―優しい人なのだ、この、一条高能という人物は。

 見せかけではなく、人を思いやる心を、ちゃんと持っている。

 だけど―それは、義高も同じだった。

 彼のように、見かけは優しそうじゃなかったけれど、言葉使いも乱暴だったけれど。

『ばっかだよなあ、お前は』

 そう言って自分の頭を撫でる手は、温かかった。

 今でも、その温かさを覚えている。

 忘れるはずがない。

 自分が義高のことを忘れるなんて、絶対にありえないのだ。

「……」

 大姫は、優しい声で話す、高能を見つめた。

 心根の優しい高能は、自分のことを「体が弱い、引っ込み思案の子だろう」と、好意的に捉えているらしい。

 自分が義高のことをたびたび思い出しては、ぼんやりとしていることが多くても、不満な顔一つしたことがなかった。

 いつだって、にこにこと笑って、自分のことを見つめている。

(それなのに)

 自分は、彼と話していると、いつのまにか、義高のことを思い出しているのだ。

「……それでね、姫君。今日は、姫君をいいところにお連れしようと、参上したのです」

 そんな大姫の思いを知らない高能は、屈託なく笑ってそう言った。

「―いいところ?」

「ええ。先日の舟遊びの時も、姫君はご気分がお悪くて、小御所に残られたでしょう? だから、その代わりに、ですよ」

『大姫、行くぞ』

『どこに行くの? 義高様』

『いい所だよ』

『いい所?』

『そう。とても、いい所だ』

 その瞬間。

 大姫の脳裏に、あの頃の義高がよく言っていた言葉がよみがえった。

 義高が言う「いい所」とは、海だった。

 そう言って、鈴や那智達と一緒に、海によく行った。

 二人きりで行く時もあった。

 夏。みんなで海に行って、水遊びをした。

『仮にも女の子が二人もいるんですから、すっぽんぽんにならないでくださいよっ』と鈴が言い、『……ご自分で言われるほど、はかない玉と思えぬが、お二人とも』と、それに対して小太郎が生真面目な表情で答え、鈴にどつかれ、それを見てみんなで笑った。

 冬。御所を抜け出して、義高と二人、手を繋いで荒れ狂う海を黙って見つめていた。

 木曾に生まれ育った義高にとって、海は特別な場所だった。

 そして、それは大姫にとっても同じだった。

 あれから十年たった今でも、あの海は、あの浜辺は、特別な場所なのだ。

「……海、ですか?」

 だから、知らず、そう問い返していた。

「いいえ、海よりもいいところです」

 でも―高能の返事は、大姫の予想していたものではなく。

「!」

 大姫は、はっとなって高能を見た。

「姫君も、きっと楽しめますよ」

 屈託なく、高能はそう言う。

 義高と、同じ顔で。

 その笑みは、よく似ていた。

 『大姫』と、笑って手を差し伸べてくれた人と瓜二つだった。

 だけど―やはり、高能と義高とは別人なのだ。

 義高にとってあれだけ特別だった海が、高能にとっては、何の意味もない場所になっている。

 考えてみれば、当たり前のことだった。

 義高が木曾に武士の子として生まれ、育ってきたように、高能も京に貴族の子として生まれ、育ってきたのだ。

 貴族として生きてきたこと、京での生活、そして友人達―。

 それら全てが合わさって、今目の前にいる、「一条高能」という人間ができている。

 それを自分の感情一つで否定するなんて、失礼極まりない話だった。

 高能にとって、話を聞かない以上の侮辱だろう。

(結婚は、できないなあ)

 そのことに気付いたとたん、ごく自然に、大姫はそう思った。

『結婚するならば、そなたは義高のことを、忘れる努力をしなければならぬ』

 前に、夢織姫が言ったのは、このことだったのだ。

 結婚するならば、その相手を、義高とは別の人間だと認めなければならない、と。

(でも―それは無理よ、夢織姫)

 だって、自分は義高のことを忘れていない。

 この十年間、片時も忘れなかったのだ。

 これから先も、きっと忘れないだろう。

 ならば、取る道は一つしかなかった。

 高能は、義高ではないのだから。

「姫君……」

 高能は、信じられない、という表情で大姫を見つめた。

 大姫は、笑っていたのだ。

 それは、迷いが吹っ切れた者だけが持つ、清々しさに溢れていた。

「連れて行ってくださいませ、高能様。あなた様の、『いい所』へ」

(ちゃんと向き合おう、この方と)

 義高の面影を抱く、陽炎ではなく。

 この世でただ一人しか存在しない、人間として。

 結婚しないと決めて初めて、大姫は、一条高能という人物と、ちゃんと向き合えるような気がした。



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