六 うたかた
夢の世界で、眠り続ける人がいる。
いつ覚めるともわからぬ眠りの中で、穏やかに夢を見続ける人がいる。
★
ふと気が付くと、大姫は眠り続ける義高の前にいた。
「あれ……?」
淡い光の中、義高は、あいかわらず穏やかな表情で眠っている。
「何で……私、ここに……」
いつもならここに来る時は、この世界の主たる夢織姫の機織機の音が聞こえ、やまぶきかほおずきの案内で来るのだ。
(それなのに、どうして私は、ここにいるのだろう?)
けげんに思いながらも、いつもの習慣で、大姫は義高の頬に触れようとした。
だが、しかし。
大姫の手は、ついっと義高の頬を触れることなく、通り抜けた。
「えっ……?」
一瞬、何が起こったのか、大姫にはわからなかった。
最初、自分の手を見て、次に眠り続ける義高を見る。
その穏やかな寝顔は、いつも通りのものだった。
なのに―どうして、触れることができないのだろう?
「まさか……」
気のせいだ。
大姫は、そう思った。
そしてもう一度、義高に触れようとした、その時。
ソレハ・幻
アレモ・幻
ソナタノ・愛シキ者・ココニハ・オラヌ
「そこで、何をしておる!?」
パーン!
凛とした声が響き、それと同時に、何かが弾け飛ぶような音がした。
驚いて振り返ると、そこには長い黒髪を翻し、左手に燭台の灯を持った夢織姫が、ほおずきとやまぶきの二人を従えて、薄暗い世界に立っていた。
「夢織姫……」
「そなたか……」
自分を見返す大姫に、夢織姫は厳しかった表情を和らげた。
大姫も、夢織姫の出現にほっと息を吐いた。
んさっきまで感じていた不安も、嘘のように消えている。
「そなた、何故ここにいる?」
「……それが、私にもわからないの。気付いたら、ここにいて……」
しかし、夢織姫のこの問いかけには、どう答えていいかわからなかった。
「さようか……」
困惑した大姫の答えに、夢織姫は軽くため息を吐くと、後ろに控えたやまぶきとほおずきを振り返り、
「そなた達は、さがっておるがよい」
と、言った。
「しかし、夢織姫様……」
「よい。心配はいらぬ」
従者の二人は渋っていたが、主人の穏やかな微笑みを浮かべた言葉には逆らえなかったらしく、やがて、両者共掻き消えるようにして、ここを去って行った。
「さて……何を呆けておるのじゃ、さっさと座らぬか」
二人の姿が完全に見えなくなるまで見送っていた夢織姫は、やがておもむろに大姫の方を向くと、自分はさっさっと燭台を下に置いて、義高の近くに座り込んだ。
「夢織姫……」
「何をしておる?さっさとせぬか」
「あ、うん」
そう言われて、大姫もあわてて夢織姫にならい、彼女の真正面、義高の隣に座り込む。
その時、ふと思いついて、義高の眠る横顔に、おそるおそる手を伸ばしてみた。
すると、今度はちゃんと義高の頬に触れることができる。
「……」
自分の手を見て、次に義高の顔やら髪やらを、ぺたぺた触りまくってみる。
案の定、柔らかい頬の感触も、少し固めの髪の感触も、ちゃんと感じ取ることができた。
夢織姫は、そんな大姫を見つめていたが、
「……何をやっておるのだ、そなたは」
わざと呆れた口調でそう言った。
その声に、大姫はハッと我に返った表情になる。
「いや、さわれるなあと思って……」
「―はっ?」
「さっき、義高様にさわれなかったのよ。まるで幻のように、私の手が義高様を通り抜けたの」
夢織姫におもいっきりけげんそうな顔をされ、大姫は、しどろもどろになりながらも、そう説明した。
「……そなた、ぼけたか?その若さで」
しかし案の定、夢織姫の言葉は容赦のないもので、大姫はがっくりとなる。
「夢織姫~」
「確かに、あちらのそなたでは義高にさわれぬがの。今のそなたは義高と同じ存在ゆえ、さわれて当然、さわれるということは有り得ぬわ」
「うっ~」
あっさりとそう断言され、大姫は返す言葉がなかった。
「つまり、それはそなたの思い違い、ということじゃ。見事に、ぼけておったな」
さらにダメ押しとばかりに、夢織姫はきっぱりと言い切った。
「……」
もはや大姫には、何も言い返すことができない。
ふくれっ面で夢織姫を見上げた。
しかし見かけによらず、長い年月を生きてきたであろう彼女は、大姫の視線などどこ吹く風で、何もない空間から陶器の器が載った盆を出現させた。
「飲むか?」
そして、何事もなかったようにそう聞いてくる。
しょせん、自分のかなう相手ではないのだ。
大姫は深いため息を吐くと、
「……今度は、どんな飲み物なの?」
と、夢織姫に尋ねてみた。
「酒じゃ」
「お酒!?」
「なんじゃ、そなた酒は飲まぬのか?」
「あんまりね……」
「飲んでみるがよい。麦という植物から作られたものじゃ」
そう言って、夢織姫は大姫に器を差し出した。
白い泡が発ち、泡の下からところどころ金色の液体が見える。
「これも、西の国の飲み物なの?」
大姫がそれを受け取りながら尋ねると、
「いや。西の国よりさらに西に行った国の、日本よりずっと暑い国で、昔から飲まれている酒じゃそうじゃ」
夢織姫は、そう教えてくれた。
「最近夢織姫って、いろんな国の飲み物を飲んでいるみたいだけど、それって、がぶりえるさんが差し入れてくれるからなの?」
「まあな。最初わたくしもあまり興味がなかったが、こうやって現のいろいろな飲み物を飲んでいると、世界は広く、いろんなものが存在しておる、と感じられての。それがなかなか興味深く、こうして飲んでおるのじゃ」
「ふーん……」
金色の酒は一口飲んでみると、切れのある苦味がした。
苦いのは前回飲んだ物と同じなのだが、こちらの方が、何と言うか、すぱっとした感じがするのだ。
「おいしいっ!」
そう言って、大姫は器に残った麦の酒を、いっきに飲み干してしまった。
「……そなた、酒豪の素質があるのではないか?」
「そうかな? もう一杯もらっていい?」
「かまわぬが、飲みすぎるではないぞ」
あきれたように夢織姫が言うと、大姫の器には、注いでもいないのに、金色の酒がなみなみと再び入っていた。
「ありがとう、夢織姫」
……そうして、二人が酒飲み宴会体制に入っていったのは、ごくごく自然の成り行きと言えよう。夢織姫は、麦の酒以外にも、魚や干し肉、やはり麦で作られた「ぱん」と言う食べ物を出してくれ、二人は酒を片手に、それらも食べた。
「夢織姫、私って、結婚した方がいいと思う?」
やがて大姫は、顔がほんのり赤くなった頃、おもむろにそう尋ねた。
「なんじゃ、そなた。そのような話が来ておるのか」
「―うん、まあね」
「ふむ」
夢織姫は器を口に持っていきながら、少し考え込むような顔をした。
「そなたは、どうしたいのじゃ?」
「えっ?」
「結婚というものは、当人の問題であろう? そなたがしたいのならすればよいし、したくないのならば、せねばよいではないか」
「―それがわからないから、聞いているの」
「……大姫」
「私は、ずっとこのままだと思っていたから。他の生き方があるなんて、考えたこともなかった」
ずっと、こうやって生きていくのだと思っていた。
時々、ここに義高に会いに来て。
現では、弟や妹達を相手にして、その寂しさを紛らわせて。
―姉上は、それでいいのか? ……寂しく、ないのか?
「だけど……」
そう言っていた、頼家の顔を思い出す。
彼は、純粋に自分のことを心配してくれていた。
坊ちゃん育ちで、わがままなところもある弟だが、彼は気持ちの優しい、姉思いの少年である。
だからこそ、頼家の言葉は胸を突くのだ―父や母の言葉よりも、遥かに。
「―むずかしいの」
そんな大姫の思いを読み取ったかのように、夢織姫がぼそりと呟いた。
「……夢織姫」
「ただ―これだけは、言っておく。そなたが結婚するということは、義高のことを忘れる努力をする、ということじゃ」
「義高様……を、忘れる……?」
「そうじゃ。もちろん、忘れぬ努力を選ぶこともできる。じゃがそれは、そなたが結婚を選ばなかった場合だけじゃ」
「……!」
夢織姫の厳しい言葉に、大姫は目を見開いた。
「よく考えるが良い。そなたが求める幸せは何なのか、それはどこにあるのか。他人に決めてもらうのではなく、自分自身で考え、決めるが良い」
夢織姫の言葉は、厳しく、でも優しく、大姫の耳に届く。
「夢織姫……」
そして、夢織姫の笑顔は、闇に紛れ消えてしまった。
ここにいてもいい時間が、終わってしまったのだ。
「……」
とたんに、大姫は言いようのない寂しさを感じた。
自分の求める幸せは何のかよく考えろ、と夢織姫は言った。
でも―
(でも、夢織姫)
自分の求める幸せは、とうに失われてしまっている。
十一年も前、実の父親によって。
娘が喪失してしまった幸せ以上のものを、両親は与えようと躍起になっているが、大姫にとって、彼らが与えようとしている「幸せ」は、空しい幻でしかない。
だが、自分が一番求める「幸せ」こそが、本当は一番の幻なのだ。
もう二度と手に入れることはできない、水に浮かぶ泡―泡沫のごとく。
「―それなのに、私の幸せはどこにあるのか、考えなきゃいけないのかな?」
ぽつりと、大姫は呟いた。
―闇が、深くなったような気がした。
「帰られましたか?」
大姫が消えると同時に、入れ代わるようにして、やまぶきとほおずきが夢織姫の前に現れた。
「ああ、帰った」
やまぶきの問いに、夢織姫は立ち上がる。
「どうであった?」
そして、逆に二人にそう問いかけた。
「異常はありませんでした。奴らの姿も、今は見当たりません」
「ただ、『道』の空間が―」
「裂けておったか……」
「はい」
「そうか……」
重々しく頷くほおずきの言葉に、夢織姫は厳しい表情になった。
「大姫の、仕業だな」
「―夢織姫様……」
普通の生きた人間の魂は、よほどの事がない限り、ここには来ない。
まして、再び現の世界に戻ったのなら、生きている以上、ここに来ることはない。
だが今は、一つだけ例外の存在があった。
生き人でありながら、この世界と現の世界を行き来する少女―大姫。
「奴らめ、とうとう大姫に目を付けおったな……」
苦々しく、夢織姫は呟いた。
大姫の「精神」と同化すれば、彼らは唯一ここと繋がっている大姫の夢を通って、現実の世界へと戻ることができる。
もちろんそういうことになった場合でも、夢織姫は現の世界へと追っていくことはできる。
だが―それは、最後の手段だ。
「大姫様が姫様の関与なしにこちらに来てしまったのも、奴らが呼んだのでしょうか?」
「否―大姫が、自らここに来たのかもしれぬ」
「……姫様」
主人の厳しい返事に、ほおずきは絶句した。
「姫様、よもや義高殿がこの一件、関わっていることは―」
「いや。それは有り得ぬ、やまぶき」
しかし、もう一つの懸念をやまぶきが口にすると、それは、きっぱりと夢織姫は否定した。
「あれが現に戻るために大姫を利用する気でおるなら、とうの昔にやっておるさ。むしろ、自分のせいで大姫に危険が及ぶのであれば、迷わず自分の『消滅』を選ぶであろうよ」
そうでなければこの十年、「眠り」もせず、自分の中の誘惑にも負けず、大姫を見守り続けることなどできはしない。
「まあ、どちらにしろ、今までこのような事態にならなかった方が、不思議なぐらいじゃ」
「……姫様は、もしかしてこのような事態になることを、予想されていたのですか?」
主人のその言いように、ほおずきが尋ねた。
「―さて? さすがに、この様になるとは思っていなかったでの。予想していたとは言えぬよ、ほおずき」
少なくとも、大姫が自分の力なしでここに来られるようになるとは、思っていなかった。
だが―
「いい時期なのかもしれぬな」
事態は甘くない。
だが、どのみち、あのままではすまされないのだ。
―大姫の現の体には、そろそろ限界がきている。
ここに長くいることができなくなったのが、その証拠だ。
本来ならば、生を全うしていない魂が、この世界と行き来することはできない。
自分の力が介在しているため、大姫の場合はそのことを可能にしていたが―理に反することを続ければ、いつかは、反動を食らう。
そして、正すのを遅らせれば遅らせた分だけ、それは大きくなる。
どうしたものかと思いあぐねていた時の、この事態だ。
極めて分の悪いかけではある。
それでも―賭けねばならぬことも、時にはあるのかもしれない。
「姫様?」
考え込む夢織姫に、二人の従者は不安げに見上げてくる。
「とにかく、しばらくの間、大姫をここに来ぬようにするしかあるまい。やまぶき、『道』の裂けた空間は閉じたか?」
「はい」
「ならば、二人とも至急戻れ。結界を張る」
「―御意に」
「承りました」
それぞれに頭を下げ、ほおずきとやまぶきは、自分の持ち場へと戻っていく。
「―さて」
一人残された大姫は、ゆっくりと振り返り、
「そなたはどうするつもりじゃ、義高」
と、眠っている義高に話しかけた。
当然のことながら、返事はない。
しかし夢織姫はふっと笑うと、
「隠れんでもよい。そなたが先ほどからそこにおるのは、気付いておったわ」
そう、言葉を続けた。
「あいかわらず、意地の悪いお方ですね」
幻の義高のすぐ頭上に、ぼうっと楕円状の灯が現れ、白い衣に頭をきちんと結った二十代前半の男が、その灯の中に浮かび上がった。
「俺がここにいるとわかっていて、あのようなことを言われたのですか?」
義高の言葉は、先ほどの、やまぶきの懸念に答えた彼女の言葉を指している。
「人聞きが悪いの。わたくしは、大姫の件だけは、そなたを信用しておるのじゃぞ?他のことはとにかく、そなたはたとえ極悪非道なことをし尽くしても、大姫には手を出さぬであろう?たとえ、悪鬼になってもな。……違うのか?」
「……!」
「借りを返せ、義高」
言葉を詰まらせる義高に、たたみかけるように、夢織姫は言った。
「借り?」
「そうじゃ。前に言ったであろう?必ず、借りは返してもらう、と」
「眠る」ことはせず、この世界に来る大姫を見守ることを許可する、その条件として。
「―俺は、何をすればいいのですか?」
「現の世界へ行くがよい。そして―大姫を、守れ」
「夢織姫……!」
ある程度は予想していたが、こうやって口にされると、やはり驚愕の思いに囚われる。
「―いいのですか?」
死人が生き人に関わることは、禁じられているはずだ。
しかし夢織姫はすましたもので、
「なに、わたくしは、自分のしでかしたことの後始末をしなければならぬ。しかし、現の世界にわたくしが行くのは、多少問題が残る。今の状態では、な。だから、そなたがわたくしの代理として行くのじゃ」
と、笑いながら言った。
「しかし、忘れるでないぞ。そなたが悪鬼となった折には、わたくしは大姫の精神を考慮することなく、そなたを滅しに行くでの」
そうして、しっかりと念押しもしてくる。
それは、脅しでもなんでもない。
動がしがたい、事実の一つだ。
「承知しました」
だから、義高は深く頭を垂れ、返事をした。
「そうならぬよう、力を尽くします」と―
後戻りは、できなかった。