五 まほろぱ
「お目覚めですか? 姫様」
目を開けると、眩しい光とともに、侍女の泉がちょうど部屋に入ってくるのが見えた。
「……泉」
名前を呟くと、来年には十二歳になる少女は、にっこりと笑った。
その笑い方は、顔立ちは似ているものの、彼女の母親の鈴の笑い方とは異なっていた。
泉の優しい雰囲気そのままの笑顔は、彼女の父である那智と同じものだ。
泉は、顔立ちは鈴に、性格は那智に似ていた。
彼女は、あの幸せだった日々の中で鈴のお腹に宿り、那智の死の直後に生まれた、二人の子どもなのだ。
義高の父である木曽義仲が、頼朝の弟・義経に破れ討ち死にした後、義高主従は鎌倉御所を脱出した。
だが皮肉にも生き残ったのは、時間稼ぎのために一人鎌倉御所に残った海野小太郎のみ、であった。
彼が義高に成りすまし、頼朝の目を欺いている間、義高や那智達は少しでも速く、木曾に逃れるという計画だった。
これには、実は政子も一枚噛んでいたらしい。
しかし、結局義高は追いつかれ―殺され、一人生き残った小太郎は、処罰を受けることなく放免された。
そして彼は、子どもを生んだばかりの鈴を伴い、故郷の木曾に帰って行ったのだ。
今では、鈴との間に二人子どももいる。
時々、彼らから大姫に何かしら送られて来る。
それは、名前も知らない木の実であったり、山や川で捕れた肉や魚の燻製であったりした。
そして、今年春の終わりに木曾から届けられたものは―那智の忘れ形見で、だけど何も知らない、この泉という少女だった。
義高の死後、一日の大半を寝て過ごし、幼い三幡や千幡以外には、全くと言っていいほど笑顔を見せなくなった娘を案じ、少しでも大姫の気が紛れればと、政子が鈴に頼んで鎌倉に呼び寄せたのだ。
「泉、今何刻?」
「あと一刻(だいたい二時間)で、お昼ですよ」
「もう、そんな時間なの?」
泉が開けた戸から差し込む光は明るく、昨日の夕刻からこんな時間帯まで眠っていたとは、さすがに自分で自分が情けなくなる大姫である。
「起こしてくれれば良かったのに」
「昨日、姫様をお連れになった頼家様が、『姉上はお疲れのようだ』と言ってらっしゃったので。それに、体が休みたがっている時は、休まれたらいいのですよ。その分、明日早く起きられたらいいじゃないですか」
しかし、泉はふわっとした笑顔を浮かべるとそう言った。
その言葉が、優しく自分を包み込むことを大姫は感じた。
この少女を見ていると、あの日々を思い出す。
義高がいて、鈴や那智、小太郎達がいた―。
それは、少しだけ自分をうれしくさせて、それと同時に切なくさせる。
「……泉、私手水使いたいな。用意してくれる?」
だから、大姫は淡々とした口調でそう言った。
込み上げて来る、切なさを抑えるために。
「はい、ついでに朝げの用意も頼んできます」
しかし自分のそっけなさを、母の大らかさと父の優しい気質を受け継いだ少女は、特に気にもせず、ぱたぱたと小走りで部屋を出て行った。
「……」
その姿を見送りながら、大姫は軽くため息を吐く。
外の日差しはまだ強く、夏の名残を残していた。
「姉様、起きていらっしゃいます!?」
「おきていらっしゃいます!?」
手水で顔を洗い、身支度をすませて朝げをとっていると、妹の三幡と弟の千幡が部屋の中に入って来た。
「三幡、千幡」
器に盛られたおかずに、二、三度箸をつけたものの、あまり食が進まず、ご飯も半分以上残っているがそれ以上食べられず、どうしたものかと思っていた大姫は、妹と弟の訪問をきっかけに箸を置いた。
「もういいんですか? 姫様」
傍に控えていた泉が、少しだけ顔をしかめて言う。
「うん。もうお腹いっぱい」
「でも、昨日の夜も食べていらっしゃらないのに」
「ごめんね。でも、夕餉は余分に食べるから」
いつもなら無理をしてでも、もう少し食べているのだが、暑さのせいか、眠りすぎた体が寝ぼけているのか、食欲がわかない。
まして三幡と千幡が来た以上、ゆっくりと食事をすることはできそうになかった。
「ねえさま、あのね」
案の定、箸を置いた大姫の膝に、千幡が飛びついてきた。
「あ、ずるい千幡」
遅れを取るまいと、三幡も続いて大姫の膝に飛びついてきて、膝取り合戦が始まった。
その様子を見て、泉は笑いながら立ち上がった。
その仕草や落ち着きは、今、自分の膝の上でじゃれている妹と、たった二つ違いの少女のものとはとても思えない。
目礼をして、部屋を出て行く泉の姿を見送りながら、大姫はそう思った。
まあ彼女の場合は、置かれている境遇のせいもあるのだろう。
所領はあるものの、木曾義仲の一族であるばかりに、武士とは名ばかりで、農民と一緒に農作業に励む鈴や小太郎を支え、幼い弟達の面倒を見ていたのだ。
もっとも、泉が大人びて見えるのは、妹が年のわりに幼いのもあるようだ。
三歳の弟と、互角にけんかをしているところなど、そのいい証とも言えないことはない。
でも―その彼らの無邪気さが、自分のこの現での寂しさを、紛らわしているのは事実だ。
「ところで二人とも、私に何か用があったんじゃないの?」
だから、自分の膝の上で暴れる妹と弟を咎めることはせず、大姫は穏やかな声でそう尋ねた。
「あ、そうだった」
とたんに、膝取り合戦をしていた二人の動きが、ぴたりっと止まった。
「あのね、姉様、母様が姉様にお話があるんですって」
「母上が?」
「うん。だから私と千幡が、姉様が起きていてご気分がよろしいか、確かめに来たのよね、千幡」
「ね―」
まだ言葉を上手に使うことができない千幡は、三幡の言葉にうんうんと頷いた。
「そう……」
だが、姉の綺麗な顔がゆううつそうになるのを見て、千幡はその無邪気な顔を曇らせる。
「ねえさま、ごきぶんがわるいの?」
「え?」
その言葉に、大姫は、はっとなった。
千幡の澄んだ瞳が、じっと自分を見上げてくる。
「かあさまと、おはなししたくないの?」
「……そんなことないわよ、千幡」
「かあさまにあいたくないなら、ねえさまはごきぶんがわるいですって、いうよ?」
「そうなの?姉様」
三幡も、大姫をじっと見上げてくる。
こうやって、いつだって自分を気遣ってくれるのだ。この、幼い弟妹達は。
本当に、頼家も、三幡も、千幡も、泣きたくなるぐらい自分に優しい。
だから、大姫は弟や妹達には微笑むことができるのだ。穏やかに微笑んで、
「だいじょうぶよ。だから千幡、三幡、母上を呼んで来てくれる?」
そう言った。幼い者達に、これ以上心配をかけぬように。
多分、母もその辺のことはわかっているのだろう。
だから自分が行く前に、三幡と千幡を大姫の部屋に行かせたのだ。
案の定、母の政子はすぐにいそいそとやってきた。
呼びに行かせた三幡と千幡は戻って来ず、喜色満面の母の訪れに、大姫はため息を吐きそうになる。
―母は、悪い人ではない。
それどころか、父の頼朝に比べたら、よくこの二人夫婦になったな、と思うぐらい情の深い人だ。
殺されそうになった義高を頼朝に逆らって逃がしているし、義高が殺された後記憶の混乱を起こし、人形のようになってしまった自分を献身的に看病してくれたのも、この母だ。
ただ、母は夫の考えることに間違いはない、と思っているふしがあった。
確かに、義高の件では納得がいかず逆らってはいるが、だいたいにおいては、頼朝の意見を深く考えずに受け入れている。
ようするに、父の言いなりなのだ。
まして、自分は昨日の父の話を断ったばかりである。
母の話の内容など、すぐに想像がつくと言うものだ。
「あまり、ご気分がよろしくないようね?」
一方政子の方は、ため息を吐きそうになる大姫の真正面に座りながら、うきうきした表情でそう言った。
その母上のうきうきとした顔が原因ですよとはさすがに言えず、大姫は、
「三幡と千幡はどうしました?」
と、母に問うた。
「後でまた来ますよ。あれ達がいては、ゆっくりと話しもできませんからね」
「―五郎との……叔父上とのお話なら、お断りですよ」
「あら」
「五郎には、ちゃんと相愛の相手がおります」
大姫は母の話を制して、そう口火を切った。
五郎とは、正式な名は北条時房、大姫の叔父に当たる人物である。とは言っても、彼は政子の兄弟(七人)でも一番下の末っ子で、大姫とは五つしか違わない。
最近ではそうでもないが、昔は互いの家(御所と北条館)をよく行き来し、遊んだ仲でもある。その五郎との縁談が、昨日父の頼朝の口から出たのだ。
五郎とその恋人のことを知っていた大姫は、すぐさま断ったのだが。
「姫は、よくそのことを知っていたわね」
「以前五郎が遊びに来た時、さんざんのろけてくれましたからね。相手は、比企の姫君です。妻に迎えるとしても、不足はない方です」
きっぱりと言い切った大姫に、政子は苦笑を浮かべた。
「姫、殿も本気でこの話を進めようとは、まだ考えていらっしゃらないのよ。ただ、お前と五郎は兄妹のように仲が良かったから―」
「つまり、この話はなかったことになるのですね?」
「まあ……そうね、そういうことになるわね」
「なら、いいです」
取り付く暇もなく母に確認すると、大姫はそこで言葉を切った。
それ以上、問うことも話すこともしようとしない娘に、政子は困った顔になる。
その表情に、父も母もあわよくば、と思っていたのが見て取れて、大姫はさらに頭が痛くなるのを感じた。恋人のいる五郎に自分を押し付ける、ということは、愛し合う二人を引き裂く、ということだ。
冗談ではない、と思う。
自分では五郎の恋人の代わりにはなれないし、五郎も、義高の代わりにはなれない。
五郎は、あくまでも「兄」なのだ。
五郎にとって、自分があくまでも「妹」であるように。
「まあ……話と言うのは、五郎とのことではなくて、別のことなの。姫は、殿が近々三浦にお出かけになられることは知っているわよね?」
その件については諦めたように政子が口を開き、大姫はようやく母に言葉を返した。
「ええ。京からのお客様を歓迎されるため、と聞いております」
「それでね、そのお客様の寝所を、小御所に用意しようと、父上は考えていらっしゃるの」
「小御所に?」
「ええ。大御所は人の出入りが激しいし、宿直人もいるでしょう? はるばる都から来られるお客様も、ゆっくりできにくいかもしれない、と言われてね。その点、小御所は人の出入りも少ないし、女手もあるから」
気を取り直したように、政子はそう言った。
「そうですか……しかし、そのようなこと、私に言わずとも良いのでは? 母上のよろしいようになさってください。ここの主人は、母上なのですから」
「まあ……そうなのですけどね」
曖昧に笑い、自分の言葉を受け流す母を見て、大姫はそれが口実であり、母が本当は五郎との話をしたかったのだろう、と考えた。
やがて、政子は娘の部屋にいる理由をなくし手持ちぶたさになったのか、ゆっくりと立ち上がった。
娘に挨拶をし、部屋を出て行こうとする母に、大姫はふと思い出したように尋ねてみた。
「お客人の名は、なんと申されるのですか?」
「一条高能様、と申されます。殿の妹君・葉津様のお子だから、姫とは従兄妹同士になられる方ですよ」
政子は振り返り、笑顔で答えた。
その母の笑顔には、先ほどのうきうきした感情が宿っており。
―大姫は、嫌な予感を覚えた。
★
一条高能。彼は、頼朝の同母妹の子である。
頼朝とは二つ違いで、明るく屈託のなかった彼女は、都の公家の一条能保に嫁ぎ、高能を産んだ。
彼の母は、彼自身が幼い時に亡くなったが、亡き母とよく似た容貌で、なかなかの美男子らしい。
地位においても、その若さで右兵衛督である。
わかりやすく言えば、この時代の、顔良し、地位良し、家柄良し、の若きエリートの一人だった。
「でも、姉上の考えすぎじゃないのか?母上は、何も言わなかったんだろう?」
それから、数日後の夜。
一条高能という人物の、己が知る限りの知識を披露した頼家は、あいもかわらず、我が物顔で自分の部屋に居座っている姉を見つめながら、そう言った。
「そうなんだけどね……」
頼家が貸してくれた脇息にもたれた大姫は、爪を噛みながら考え込む。
しかし、気のせいにしては、母のあのうきうきとした表情が気になるのである。
―もしかしたら、今回の訪問にも、裏があるかもしれない。例えば、自分と引き合わせるために、両親が高能を招いたのかもしれないのだ。
有り得ないことではない。
彼の父の能保は、前の権中納言であり、京における鎌倉幕府の橋渡しの役を担っている。
能保にしても、頼朝との繋がりを深くすることに異存はないはずだ。
「でも……もしそうだったとして、姉上はやっぱり断るのか?」
「当たり前でしょう」
頼家の問いに、大姫は即答した。結婚なんて、自分は望んでいない。
だが、頼家は姉の迷いのない返事に、考え込むようにして頭をかいた。
「頼家?」
何か言いたそうな弟の様子に、大姫は水を向けてみる。
「姉上……俺は、別にかまわないんだ。姉上が嫁に行かなくて、ずっと鎌倉にいてもさ。姉上ぐらい、俺が面倒見るよ。でも―姉上は、それでいいのか?」
「頼家」
「寂しく……ないか?」
姉の寂しさが、愛する者の死からきていることは知っている。
そのせいで、姉は小さい時から、寂しそうな目をしていた。
だが―その寂しさは、本当に消えないのだろうか?
結婚をして、出産をして、子どもを育てて―そんな当たり前の、でも優しい時間を過ごしていたら、もしかすると―と、頼家は思うのだ。
それは正しいやり方ではないかもしれないが、心を癒す一つの術ではある。
「……考えたこと、なかったな」
だが大姫は、遠い瞳をして言った。
「姉上」
「ずっと、このままだと思っていたから」
考えたこともなかった。
「寂しさ」を埋める方法なんて。
誰かで、それを癒すことなんて。
「姉上……」
それっきり大姫は黙り込み、開け放たれた戸の暗闇に、目を向けた。
リーリーリー
虫の声が静かに響く暗闇が、姉が抱えている心の闇そのもののように、頼家には思えてならなかった。