表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
4/11

四 うつつ

 自分の部屋に入ると、板間の床に、姉が体を横たえて眠っていた。

 それを見たとたん、頼家(よりいえ)は深いため息を吐く。

 小御所に自分の部屋を持つ姉が、庭続きの御所にある自分の部屋に来るのは、そうめずらしいことではない。

 昔から、姉の大姫は何かあると、自分の部屋に来ていた。

 どうやらここは、彼女にとって絶好の隠れ場所のようなのだ。

 まあ、傍目から見れば、自分と姉はあまり仲の良い姉弟じゃないし、自分のこの部屋は、自分がいない時は、いつも周りにかしずいている乳母達も居つかない。

 姉は、ちゃんとその辺のことを知っているから、ここに来るのだ。

 それが物心着いた頃から続いているのだから、自分の部屋に勝手に入られることに対して、怒りを感じることはない。

 それよりも頼家があきれるのは、姉が毎度毎度来るたびに、硬い居間の床に、袿もかけずに眠っていることだ。

 夏だろうが、冬だろうが、おかまいなしにそうなのだ。

 幾度となく、眠るなら隣の寝所の畳の上で寝ろ、夜具もきちんと敷いて寝ろ、と言うのだが、姉は笑って「ありがとう、頼家」とその時は素直に頷くくせに、一度としてその通りにしたことはなかった。

「……うん」

 思いを巡らせながら、頼家が音を立てぬように戸を閉めていると、冷えるのか、大姫が小さく呻き声を上げて、体を猫のように丸めた。

「まったく……」

 まだ暑い日が続くとは言え、もう八月なのである。

 朝夕の空気は冷たい秋のものになりつつあり、夕刻にも近い今は、夏用の羽織だけでは肌寒く感じるぐらいだ。

 頼家はあきれ気味に小さく呟くと、居間に続く寝所の方に足を向け、自分の夜具を持って大姫の元に戻ってきた。

 そして、体の上にかける褥を、眠る姉にかけてやりながら、彼は姉がまた少し痩せたことに気付く。

「……」

 昔は―元気のいい人だったのだ。

 そう。婚約者を、父に殺されるまでは。

 今は、だいぶんましになった方である。

 義高を殺された直後などは、食を断ち、水も飲まず、無理に食べさせよう飲ませようとすると全て戻し、昏睡状態まで陥り、一度は医者に覚悟するようにまで言われたらしい。

 その頃に比べたら、年に二、三度肝の冷えるような高熱を出そうが、一日の大半を眠って過ごしていようが、まだましなのだ。

 少なくとも、今の姉は、生きることを拒否していない。

 食は普段から細いが、どんなに気分が優れていなくても、ご飯は食べようとしているし、病気になっても、医師の言う通り薬を飲んで安静にしている。

 生きようと思っていないなら、それらのことはとっくに放棄しているだろう。

 けれど―あの頃の頼家は、幼くて義高についても全然記憶にないのだが、それでも、ぼんやりとではあるが、姉の笑顔が、今よりもずっと無邪気で輝いていたことを覚えている。

 しかし、来年には十八歳になる今の姉は、そんな笑顔を浮かべることはない。 自分や、九歳の妹・(さん)(まん)、三歳の弟・(せん)(まん)に対してだけ、静かに微笑んでくれるぐらいだ。

(苦界、なのかもしれない)

 眠る姉の姿を見つめながら、ふと頼家はそう思った。

 この世は姉にとって、本人が考えている以上に、生きるのがつらい世界なのかもしれない。

 と、その時である。

「う……ん」

 大姫のまぶたが微かに動き、やがて両目が開かれた。

「目が覚めたのか、姉上」

 しかし、目が完全には覚めていないのか、頼家が声をかけてもぼんやりとしている。

「姉上?」

「……頼家」

 再度声をかけると、その時になって初めて、大姫は自分が眠っていたことを思い出したようだった。

「私……寝ていたんだ」

「ああ。気分はどうなんだ?」

「それは……だいじょうぶ」

 悪くないわよ、と言葉を続けて、大姫は目を閉じた。

 今度は、頼家も何も言わず、黙ってそんな姉を見つめた。

 父上と何かあったのか?と聞こうと思ったが、何かあったらからこそ、姉はここに来ているのだ。改めて聞くまでもなかった。

 しばらくの間、沈黙が二人を支配した。

 やがて、大姫が先に口を開いた。

「何も聞かないのね」

「話したいなら、聞くけど?」

「ううん……いい」

 簡潔な弟の言葉に、大姫は目を閉じたまま、小さく笑った。

「話したら、また嫌な気分になるもの……」

「……」

 その短い言葉で、頼家は自分の予想が当たったことを知る。

 義高を亡くしてから、姉と父・頼朝の仲は折り合いが悪かった。

 最愛の婚約者を亡くした姉は、健康を取り戻した後も記憶の混乱を起こし、父・頼朝を「自分の父」だとはわからなかった。 

 かなり後になってからそれは回復し、姉は頼朝を自分の父親だとちゃんと理解するのだが、それは、傷つけられた心が癒えた証にはならなかった。

 心を閉ざした娘と、何とか娘の心を開かせようとする父。

 父や母は、何とか傷ついた姉の心を癒そうと躍起になっているが、姉にとってはそれら全てが、傷ついた心に塩を塗られるようなものかもしれなかった。

 誰もがすぐに忘れると信じていた心の傷は、十年たった今でも、癒えることなく姉の心にあるのだ。

「……じゃあ、寝ろよ」

「頼家?」

「どうせ、寝足りないんだろ? 寝て、すっきりすれば、少しは嫌な気分も消えるさ」

 頼家は、ぶっきらぼうにそう言った。

 だが、その奥底にある優しい姉を思いやる気持ちを、大姫は十分に感じていた。

 この「優しさ」があるから、自分は、この(うつつ)での時間を何とか耐えることができるのだ。

 寂しい気持ちを、紛らわせることができるのだ。

 それで、心の空洞を埋めることはできないのだけれど。

「……頼家」

「何だよ」

「ありがとう」

 頼家は、目をつぶったまま礼を言う姉を見つめ、

「そう思うなら、今度からは、ちゃんと寝所の方で寝てくれよ」

 と、やっぱりぶっきらぼうな声でそう言うのだった。


とんからかっしゃん

とんからかっしゃん

 

 軽快な音が、闇の中に響いていた。

 ここに来ると、まず聞こえてくるのが、この軽快な機織機の音なのだ。

 ここの主は、大姫がいつ来ても、機織機の前に座り、機織機を動かしていた。

 しかし大姫は、それで織られる布を一度として見たことがなかった。

 紡ぎ出される糸も織られる布も存在しない機織機は、それでも、軽快な音を出して動き続けている。

「おや。今日はまた、ずいぶんと早く来たの」

 そして、この奇妙な機織機を動かす人物は、人間ではなかった。

 腰まである黒く艶のある髪と、雪のように白い肌。

 そして何よりも、自分を見上げてくる印象的な黒い瞳。

 十年前、初めて出会った時と何一つ変わらぬその姿が、何よりの証だ。

「迷惑だったかしら?夢織姫」

 機織機を動かす手を止め、意外そうに自分を見つめる彼女に、大姫はそう言った。

「なんの。かまわぬよ。たとえ、そなたが早く来ようが遅く来ようが、わたくしは『夢』を織らねばならぬ。義高に会いに来たのだろう?ゆっくりしていくといい」

 気にするな、と言葉を続けて、夢織姫はまた機織機に向かった。


とんからかっしゃん

とんからかっしゃん

 

再び、機織機が軽快な音を奏で出す。

 糸も使わず、布を作り出すこともない機織機の前で、彼女は「夢」を織っているのだと言う。

『え~でも、これ糸も布もないよ。どうやって織るの?』

 初めてそのことを教えられた時は、正直信じられなかった。

『おばちゃん、嘘言ってない?』

 そう言って、夢織姫を、

『わたくしは夢織姫だと言っておるだろうがっ』

 ……切れさせてしまった。まあその後で、

『これは、そなたが知る布を生み出すものではない。この世界に来た人間のために、「夢」を織るもの。「夢」は、目で見るものではない。「思い」で見るものなのじゃ。ゆえに、そなたには何もないように見えるのであろう』

 と、ほおずきとやまぶきになだめられて、そう説明してくれた。

『じゃあ、大姫の夢を織ることもできるんだ』

『いや、それはできぬ』

 興味津々で大姫は尋ねたが、それはあっさり否定されてしまった。

『どうして?』

『そなたは、この世界の者ではない。そなたを含め、たいていの人間は、自分の力で心の中から夢を紡ぎ出すものじゃが、ここに来る人間は、そのようなことができぬ。それゆえに、わたくしがこれを使って夢を織り上げておるのじゃ』

 あれは、いつ頃のことだったのか。

 まだ自分は幼くて、平気で夢織姫のことを、「おばちゃん」と呼んでいた。

 記憶は曖昧だが、おそらく、ここに来るようになったばかりの頃だろう。

 今では彼女のことを、とてもじゃないが、「おばちゃん」と呼ぶことはできない。

 なにせ外見上、大姫と夢織姫の年の差は、今やほとんど感じられないのだ。

 へたをすれば、自分の方が年上に見える。

「どうした?」

 しかし、自分がじっと見つめているのに気付いたのか、再び機織機の手を止めて、声をかけてくる彼女の瞳は、自分と同じ十代の少女のものではなかった。

 厳しく、しかし、優しく。自分を見つめてくれる瞳だ。

「何でもないわ。ただ、夢織姫と初めて会った時のことを、今日ここに来る前に夢に見たから、なつかしくなっただけ」

 大姫の言葉に、夢織姫はふっと微笑んだ。

「ほおずきに案内(あない)させよう。しばらくしたらわたくしも行くゆえ、義高をじっくりと見ておれ」

「もちろん、そのつもりよ」

 大姫はそう言うと、にっこりと微笑んだ。

 ここに初めて来たのは、義高が殺された直後だった。

 大姫は、義高が殺された直後のことは、記憶が混乱していて、よく覚えていない。

 逆に、ここに来た時の記憶は、鮮明で今でもすぐにはっきりと思い出すことができた。

 あの時。

 ここに来た自分は、義高がもう生きていないことを、漠然とだがわかっていた。

 自分を気遣うような、周りの雰囲気。

 何かを隠すような、父と母の言動。

 それでも、義高に会いたかった。

 現で会えないのなら、現以外の場所に行ってでも、彼に会いたかった。

 そして―ここに来て。

 自分は会えたのだ、義高に。

 それは、望んでいた義高の姿ではなかったけれど。

 それでも、義高がいるのだ。現にはいない、義高が。

 そう。

 あの頃のように、話したりじゃれあったりすることはできなくても。

「着きましたよ、姫様」

 その義高のいる場所に、案内してくれたほおずきが、振り返りながらそう言った。

 あいもかわらずの、頭をわっか型に結った、水干姿の少年である。

 彼も、十年たった今でも、その姿は初めて会った時と少しも変わらない。

 だが、姿が変わらないのは、彼らだけではなかった。

「ありがとう、ほおずき」

 大姫は礼を言うと、その人物に近寄った。

 暗闇の中で、彼が着ている白い夜着が浮かび上がっている。

 ここは、何も見えないわけではないが、現の日の光のように、強力な「光」は存在しない。

 ぼんやりと、夜、燭台を灯した時の、それよりも幾分かだけ強い「明るさ」が、この世界の「光」なのだ。

 その光の下、義高は十年前と同じ姿で、目を閉じ、闇の壁に背を預けて眠っている。

 否―「眠っている」という表現は、少しおかしいのかもしれない。

 夢織姫によれば、ここでの「眠り」とは、現の世界でのそれとは異なり、魂を浄化するためのものらしい。

『ここは、「思い」を遺した者達が来る場所じゃ。今生でのさまざまな思いを抱えて、そなた達が「あの世」と呼ぶ場所に行くことができぬ者達を、「夢」で浄化するのじゃ』

 あの時、こうやって捜し求めた義高の姿を目の前にして、自分は必死になって義高を起こそうとした。

 でも、どんなに声をかけても、揺さぶっても、彼は起きなくて―泣き出しそうになった時、夢織姫が言ったのだ。

『無駄じゃ。義高は、「眠って」おる。時が来るまでは、目を覚まさぬ』と。

『それはいつなの? 義高様は、いつ目を覚ますの!?』

 それを聞いて、半泣きになりながら、自分は問いかけた。

『わからぬ。ここでの「眠り」とは、そなた達の世界とは違うのじゃ。ゆえに、わたくしにも、義高がいつ目覚めるのかはわからぬ』 

 だけど、淡々とした口調で話す夢織姫の答えは、望んでものではなくて。

 だから言ったのだ、自分は。

『じゃあ、待っている』と。

『義高様が起きるまで、大姫はここで待ってる!』

 自分の言い出したことが、彼らにとってとんでもない内容だということは、夢織姫の後ろにいたやまぶきとほおずきの表情を見て、わかっていた。

 だが、彼らの主たる人物は、『それもよかろう』と言って、承知してくれたのだ。

『夢織姫様!?』

 驚く二人の従者を尻目に、

『ただし、条件がある』

 髪を揺らし、夢織姫は自分に近づきながらそう言った。

『条件?』

『そうじゃ』

 そして、真正面から自分を見下ろしてきた。

『ここに来たいのなら、今日はもうお帰り。そして、水を飲み、食を取り、体を休めるのじゃ』

『嫌よ!』

『嫌、では困るのじゃ。そなたが承知せねば、わたくしは、そなたをもう二度と義高とは会えぬ所に連れて行かねばならぬ』

 夢織姫は、きっぱりと言い切った。

『それが嫌ならば、わたくしの言う通りにするのじゃ。さすれば、ここにそなたが来たい時に、こられるようになる』

『え……?』

『ただ、ここに来るのには、生きている人間はそうとう「力」がいる。だから、帰れと言っておるのじゃ。帰って、きちんと静養したら、またここに来るといい』

 有無を言わせぬその口調に、自分は、しぶしぶと頷くしかなかったけれど。

 その言葉は、嘘ではなかった。

 当時のことを思い出しながら、大姫はそう思った。

 これは後から聞いたことなのだが、あの時の現の自分は、昏睡状態で、ほとんど死に掛けていたのだ。

 あのままここに居続けていたら、確実に死んでいた。

 それを避けるために、夢織姫は、一度現の世界に自分を戻したのだろう。

 実際彼女の言うように、断っていた水や食事を取るようになって、多少回復した時、自分は再びここにやってきた。

 それからは、体調の良い時にここに来たいと望めば、こられるようになっていた。

 もっとも体調が悪い時は、どんなに望んでもこられないのだが。

「その辺は、夢織姫って意地悪だよね。義高様に会いたいなら、元気になるしかないもの」

 義高の前にしゃがみ込んだ大姫は、義高を見つめながら、そうぼやいた。

「もっと義高様に会えたらいいんだけどな」

 呟いて、義高の髪に手を伸ばす。

 くせのない、さらさらとした感触が、確かなものとして手に伝わってくる。

「それだったら、ちゃんとご飯を食べて、体を動かして、体を丈夫にしないとだめですよ」

 その呟きが聞こえたのか、木の盆に奇妙な器―汁の椀を小さくした、横にわっかが付いている―に、黒い液体の入ったものを載せて、運んで来たほおずきがそう言った。

「ほおずき」

「そうすれば、ここにもっとこられるようになりますよ」

「それ、夢織姫にも言われたわ」

 彼の言葉に、大姫は唇を尖らせながらせる。

「おや、そうでしたか」

「そうよ。まったく、主従そろって図星をついてくるから、嫌になる」

 ほおずきは微苦笑すると、それ以上は何も言わず、お口に合うといいのですが、と奇妙な器を大姫に差し出した。

「ありがとう」

 それを受け取りながら、大姫は、もう一人の従者がいないことに気付く。

「ほおずき、やまぶきは?」

「やまぶきは、『お勤め中』です」

 尋ねてみると、実に単純明快な答えが返ってきた。

 夢織姫が「夢」を織るように、彼ら従者も主人と異なる、「役目」を担っているらしい。

 もっとも、大姫は彼らが「お勤め」と呼んでいる「役目」が何なのか、よくは知らない。

 ここに来るようになったばかりの頃、やはり尋ねてみたのだが、「この件に関しては、生き人のそなたには教えられぬ」と、夢織姫に言われたのだ。

「ほおずきは、行かなくていいの?」

 だから大姫はそれ以上問うようなことはせず、そんな風に言葉を続けた。

「ええ、だいじょうぶです。それよりも大姫様、その飲み物は―」

 苦く感じるかもしれないので、気を付けてくださいね―と、ほおずきが続けるより早く、それを飲んでいた大姫が、飲み慣れぬ苦さに咳き込んでしまった。

「だいじょうぶですか? 大姫様」

 予想通りの反応に、しかし苦笑するわけではなく、ほおずきは落ち着いた態度で、盆を持たぬ左手に、白湯を出現させて大姫に差し出した。

 大姫はそれを受け取り、咳き込みつつものどに流し込む。

「なっ、何なの、この飲み物は!?」

 そして、どうにかこうにか息を整えた。

「僕もくわしいことは知らないのです。貰い物ですから」

「また、ガブリエルの差し入れか?」

 その時、夢織姫がそう言いながら、何もない空間から現れた。

「ええ。日本より遥か西の国の、乾いた風と砂が舞う地に住む民が飲む物だそうです」

 しかし、いきなり現れた主人に驚くことなく、ほおずきはそう言葉を続ける。

「あの男も、好奇心が強いの」

「けれどガブリエル様いわく、この飲み物は、やがては世界中の人が飲むことになるそうです」

「まあ、あの男が気に入るものは、たいてい当たりではあるが」

「それって、これがおいしいってこと?」

 それまで黙って二人の会話を聞いていた大姫は、信じられない思いで、そう尋ねた。

「そういうことになるかの。あの者の、物を見る目は確かじゃ」

「嘘でしょ!?こんな苦い飲み物が!」

 その言葉に、夢織姫はほおずきを見た。

「なんじゃ。そなた、大姫にそれを飲ませたのか」

「はあ……珍しくていいかな、と思ったのですが」

「さようか」

 夢織姫はあきれたように頷くと、袿のすそを翻し、義高の真正面に座っている大姫に歩み寄った。

「まあ、そなたには馴染めぬ味であろうがの。世の中には、それが『うまい』と感じる者もおるのじゃ。己の味覚の方が正しいとは、思わぬ方がよいぞ」

 そして、そう言って屈み込み、大姫の持つ黒い液体の入った奇妙な器に、指先を触れさせた。

「好みは、それぞれってこと?」

「そういうことじゃな。ほれ、そなたが飲めるように味を『調節』したぞ」

「えっ?」

「飲んでみるがよい」

 促されて、大姫は器の黒い液体に目を落とし、ためらいつつも器を口元に運び、一口ごくりと飲み込んだ。

 今度はあの苦さは消え、ほどよい甘さと香ばしい匂いを、それぞれ口と鼻で感じる。

「……おいしい」

「そうであろう?そなたの口に合うように、『命じた』からの」

「命じた?」

「わかりやすく言えば、そなたが『おいしい』と感じられよう、それが常に変わるようにしたのじゃ。試しに、『もっと甘くなれ』と命じてみい。その通りになるぞ」

 いたずらっぽい口調でそう言われ、大姫は半信半疑で試しにそう念じてみた。

 とたんに、強烈な甘さが口の中に広がる。

「うわっ」

 噴出しそうになるの必死に堪えつつ、夢織姫の方を見ると、彼女は必死になって笑いを堪えていた。

 恨めしげに夢織姫を睨みつけると、大姫はごっくんと、甘い液体をどうにかこうにか飲み込んだ。

「さすがに、甘すぎたようじゃの」

「こうなると、わかって言ったんでしょ」

「人聞きの悪い。そなたの『加減』がヘタなのじゃ」

 そう言って、夢織姫はほおずきが渡してくれた器に口をつけた。

 中身はどうやらあの黒い液体らしいが、こちらは噴出すこともなく、優雅なしぐさで飲んでいる。

 睨み付けても何処吹く風の態度に、大姫は軽いため息を吐いた。

 自分は、口でこの人に勝ったためしがない。

「まったく。眠ってないで、この人に何か言ってやってよ、義高様」

 大姫はそう言いながら、義高のだらんと伸ばされた手に、そっと触れた。

 しかし昔のように、その手が自分の手を握り返すことはない。

「……」

 大姫は、こみ上げてくるせつなさを紛らわすため静かに微笑んだ。

「自分に降り掛かる火の粉ぐらい、自分で振り払えなくてどうするのじゃ。そのように、間抜け面で寝ている者に助けなど求めるではないわ」

「間抜け面……」

 だが、この言葉でそんな思いも一瞬にして吹き飛んでしまう。

「ちょっと。間抜け面はないでしょ、間抜け面は!!」

 他に言いようはないのか、と思いながら、大姫は言った本人をぎっとにらみつけた。

「ならば、アホ面じゃ」

「そうじゃなくて!」

「夢織姫様、せめて『天使のような寝顔で眠っている奴に、助けを求めるでないわ』ぐらいにしてあげませんか?」

 二人の会話の内容があんまりだと思ったのか、それまで黙って二人の傍に控えていたほおずきが、口を出してきた。

「たいして変わらぬではないか」

「でも、アホ面よりましです」

 しかしその言葉は、「天使」という言葉はわからぬものの、結局義高の寝顔が「間抜け面」と言っているのと、たいして変わりがない。

 大姫は、がっくりとなった。

結局、何を言っても夢織姫が「間抜け面」と言ったら、義高の寝顔は、彼女にとっては「間抜け面」なのだ。あきらめの境地で、大姫は残りの黒い液体をすすった。

「まあ、確かにの。『天使の寝顔』は、西にある国では『無邪気な寝顔』という意味があるらしいからの」

 だが、夢織姫が次に言ったこの言葉は、大姫の予想とは少し違う内容(もの)だった。

「そうなの?」

「西の国々の宗教では、神の使いと信じられている、白い翼を持つ高貴な存在だそうじゃ。あの男、いわくな」

「あの男?」

「ガブリエル様のことです」

 名前を省く夢織姫の言葉に、ほおずきは言い添えた。

「もっとも、『天使』とは『天の使い』という言葉を省略した、僕達が勝手に作った言葉ですけど。本当の言葉では、僕達にはわからないんです」

「ふ……ん。じゃあ、そのがぶりえるって人もてんしなんだ」

「ええ、そうです」

「天女みたいな人なの?」

「いや、そうではないな」

「ええ。神の使いという意味合い的には似ていますが、姿も性別も全然違いますしね」

 だが、この二人の主従の言葉には、さすがに困惑してしまった。

「私……一応、あの世は極楽と地獄に分かれていて、極楽には仏様、地獄には閻魔大王がいるって思っていたんだけど……違うの?」

「ああ……そうじゃの。正しいと言えば正しいし、違うと言えば違う」

 そこで言葉を切り、夢織姫は言葉を捜すような表情になった。

「確かに、そなたらが『仏』と呼ぶ存在はある。『閻魔大王』と呼ぶ存在もある。じゃが、それらは目で見るものではない。心で―魂で、『感じる』ものなのじゃ。ある者はそなたと同じように、それらを『仏』と『閻魔大王』として感じ、またある者は、『光』と『闇』と感じたりして、人によってさまざまな感じ方があるのじゃ」

「は~。じゃあ、てんしのがぶりえるさんもそうなんだ」

「いや、それは違う」

 納得しかけた大姫は、しかし、この否定の言葉にまたしても混乱してしまう。

「え……と?」

「あれは、人の思いが生み出した存在(もの)。そして、わたくしと同じ役目を担う者なのじゃ」

「と言っても、やり方は夢織姫様とまったく違うんですけどね」

 夢織姫とほおずきのそれぞれの説明を受けて、大姫は、はあとため息を吐いた。

「つまり、天使のがぶりえるさんを、神の使いと信じている西の国の人に『夢』を与えているのね」

「そうじゃ。他にも、何人かわたくしと同じ役目の者がおるらしいがの。くわしいことは、わからぬ」

「え、そうなの?」

「そなたとて、そなたの生きる世界の全てのことを知っておるわけではあるまい?わたくしとて、同じじゃ。確かにわたくしはここの住人じゃが、知らぬこともたくさんある」

 そう言うと、夢織姫は器の黒い液体を一気に飲み干した。

「ふーん……」

 大姫は、そんな彼女を感心したように見つめた。

「この世界も、広いってことね」

「そうじゃ。そなたの世界と同じでな。さて、そろそろ時間切れじゃぞ」

 しかし、大姫の尊敬の眼差しを向けられた本人は、あっさりとした口調でそう告げた。

「え、もう!?」

 とたんに、大姫は不本意そうな顔になる。

時間切れは、ここにいられる時間がもうないということなのだ。

「さっき来たぱかりなのに」

「また、来ればよい」

 カチャリと器を下に置きながら、夢織姫はにっこりと笑った。

「いつでも好きな時に、な」

「夢織姫……」

―そして、全てが闇になる。

 微笑んでいる夢織姫の姿も、眠っている義高の姿も、そこには、もうない。

 さっきまで、確かにあったというのに。

「……」

 優しい時間の終わりは、いつもこうなのだ。

 自分だけが一人、こうやって暗闇の中に残される。

 そして―やがて、自分は目を覚ますのだ。

 現に戻るために。

 義高のいない、現に戻るために―。


「お戻りになられましたね」

 大姫のいた場所に、ちょこんと置かれた器を拾い上げながら、ほおずきが言った。

「そうじゃな」

 夢織姫は、自分の持っていた器をほおずきに手渡すと、眠っている義高に視線を移した。

 とたんに、義高の姿が霧散し、霧のように消える。

「最近は、ここにおられる時間が、前よりも短くなられましたね」

 その光景に眉一つ動かさず、ほおずきは主人に問いかける。

「そうか?」

「ええ」

 夢織姫は、自分の問いに、確信を持って頷く従者を見つめた。

「……あちらの今年の夏は、ことのほか暑さが厳しかったと聞く。ゆえに、体調を崩しているのであろう」

 そして、あっさりとした口調でそう言った。

 しかし主人のこの言葉に、ほおずきは微かな不自然さを感じた。

 どこが、とはわからない。だが、何かが違うのだ。

「夢織姫様……?」

 と、その時だった。

(いつまで、このようなことを続けるおつもりですか? 夢織姫)

 ふいに、夢織姫の頭に直接響く、第三者の「声」があった。

「―そなたか」

 若い男の響きを持ったその「声」の持ち主が、誰であるのかを悟り、夢織姫は小さく笑った。

「いつまで、とはまた奇妙なことを聞くの。そのようなこと、わたくしにもわからぬ。それを決めるのは、大姫じゃ。……とうとう、そなた弱音を吐くのか?」

(夢織姫!)

「そなたに口出しは許されぬ、義高」

  厳しい口調の声が、薄暗い世界に響いた。

死人(しびと)のそなたに、生き人の大姫のことを口出す権利はない。彼女を見守ることがつらいのなら、さっさと『眠る』がよかろう」

(……!)

「それが嫌ならば、耐えることじゃな。わたくしは、そなたが悪鬼に変わろうと、いっこうにかわまぬのじゃぞ」

 厳しいことを言われ、「声」の持ち主は―義高は、押し黙った。

「己の決めた道じゃ。己の力で、どうにかするのじゃな。この夢織姫が与えた破格の温情、生かすも殺すもそなた次第じゃということを、ゆめ忘れるでない―よいな」

 返ってくる言葉は、もうなかった。夢織姫は静かに立ち上がると、

「先に行っているぞ」

「はい。僕は、後で参ります」

 ほおずきの返事を聞き、静かに立ち去った―文字通り、そこから消えたのだ。

 ほおずきはそれを見送ると、片手に盆を持ったまま、自分も何処かへと消えた。

 後に残されたのは、深い闇のみであった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ