四 うつつ
自分の部屋に入ると、板間の床に、姉が体を横たえて眠っていた。
それを見たとたん、頼家は深いため息を吐く。
小御所に自分の部屋を持つ姉が、庭続きの御所にある自分の部屋に来るのは、そうめずらしいことではない。
昔から、姉の大姫は何かあると、自分の部屋に来ていた。
どうやらここは、彼女にとって絶好の隠れ場所のようなのだ。
まあ、傍目から見れば、自分と姉はあまり仲の良い姉弟じゃないし、自分のこの部屋は、自分がいない時は、いつも周りにかしずいている乳母達も居つかない。
姉は、ちゃんとその辺のことを知っているから、ここに来るのだ。
それが物心着いた頃から続いているのだから、自分の部屋に勝手に入られることに対して、怒りを感じることはない。
それよりも頼家があきれるのは、姉が毎度毎度来るたびに、硬い居間の床に、袿もかけずに眠っていることだ。
夏だろうが、冬だろうが、おかまいなしにそうなのだ。
幾度となく、眠るなら隣の寝所の畳の上で寝ろ、夜具もきちんと敷いて寝ろ、と言うのだが、姉は笑って「ありがとう、頼家」とその時は素直に頷くくせに、一度としてその通りにしたことはなかった。
「……うん」
思いを巡らせながら、頼家が音を立てぬように戸を閉めていると、冷えるのか、大姫が小さく呻き声を上げて、体を猫のように丸めた。
「まったく……」
まだ暑い日が続くとは言え、もう八月なのである。
朝夕の空気は冷たい秋のものになりつつあり、夕刻にも近い今は、夏用の羽織だけでは肌寒く感じるぐらいだ。
頼家はあきれ気味に小さく呟くと、居間に続く寝所の方に足を向け、自分の夜具を持って大姫の元に戻ってきた。
そして、体の上にかける褥を、眠る姉にかけてやりながら、彼は姉がまた少し痩せたことに気付く。
「……」
昔は―元気のいい人だったのだ。
そう。婚約者を、父に殺されるまでは。
今は、だいぶんましになった方である。
義高を殺された直後などは、食を断ち、水も飲まず、無理に食べさせよう飲ませようとすると全て戻し、昏睡状態まで陥り、一度は医者に覚悟するようにまで言われたらしい。
その頃に比べたら、年に二、三度肝の冷えるような高熱を出そうが、一日の大半を眠って過ごしていようが、まだましなのだ。
少なくとも、今の姉は、生きることを拒否していない。
食は普段から細いが、どんなに気分が優れていなくても、ご飯は食べようとしているし、病気になっても、医師の言う通り薬を飲んで安静にしている。
生きようと思っていないなら、それらのことはとっくに放棄しているだろう。
けれど―あの頃の頼家は、幼くて義高についても全然記憶にないのだが、それでも、ぼんやりとではあるが、姉の笑顔が、今よりもずっと無邪気で輝いていたことを覚えている。
しかし、来年には十八歳になる今の姉は、そんな笑顔を浮かべることはない。 自分や、九歳の妹・三幡、三歳の弟・千幡に対してだけ、静かに微笑んでくれるぐらいだ。
(苦界、なのかもしれない)
眠る姉の姿を見つめながら、ふと頼家はそう思った。
この世は姉にとって、本人が考えている以上に、生きるのがつらい世界なのかもしれない。
と、その時である。
「う……ん」
大姫のまぶたが微かに動き、やがて両目が開かれた。
「目が覚めたのか、姉上」
しかし、目が完全には覚めていないのか、頼家が声をかけてもぼんやりとしている。
「姉上?」
「……頼家」
再度声をかけると、その時になって初めて、大姫は自分が眠っていたことを思い出したようだった。
「私……寝ていたんだ」
「ああ。気分はどうなんだ?」
「それは……だいじょうぶ」
悪くないわよ、と言葉を続けて、大姫は目を閉じた。
今度は、頼家も何も言わず、黙ってそんな姉を見つめた。
父上と何かあったのか?と聞こうと思ったが、何かあったらからこそ、姉はここに来ているのだ。改めて聞くまでもなかった。
しばらくの間、沈黙が二人を支配した。
やがて、大姫が先に口を開いた。
「何も聞かないのね」
「話したいなら、聞くけど?」
「ううん……いい」
簡潔な弟の言葉に、大姫は目を閉じたまま、小さく笑った。
「話したら、また嫌な気分になるもの……」
「……」
その短い言葉で、頼家は自分の予想が当たったことを知る。
義高を亡くしてから、姉と父・頼朝の仲は折り合いが悪かった。
最愛の婚約者を亡くした姉は、健康を取り戻した後も記憶の混乱を起こし、父・頼朝を「自分の父」だとはわからなかった。
かなり後になってからそれは回復し、姉は頼朝を自分の父親だとちゃんと理解するのだが、それは、傷つけられた心が癒えた証にはならなかった。
心を閉ざした娘と、何とか娘の心を開かせようとする父。
父や母は、何とか傷ついた姉の心を癒そうと躍起になっているが、姉にとってはそれら全てが、傷ついた心に塩を塗られるようなものかもしれなかった。
誰もがすぐに忘れると信じていた心の傷は、十年たった今でも、癒えることなく姉の心にあるのだ。
「……じゃあ、寝ろよ」
「頼家?」
「どうせ、寝足りないんだろ? 寝て、すっきりすれば、少しは嫌な気分も消えるさ」
頼家は、ぶっきらぼうにそう言った。
だが、その奥底にある優しい姉を思いやる気持ちを、大姫は十分に感じていた。
この「優しさ」があるから、自分は、この現での時間を何とか耐えることができるのだ。
寂しい気持ちを、紛らわせることができるのだ。
それで、心の空洞を埋めることはできないのだけれど。
「……頼家」
「何だよ」
「ありがとう」
頼家は、目をつぶったまま礼を言う姉を見つめ、
「そう思うなら、今度からは、ちゃんと寝所の方で寝てくれよ」
と、やっぱりぶっきらぼうな声でそう言うのだった。
とんからかっしゃん
とんからかっしゃん
軽快な音が、闇の中に響いていた。
ここに来ると、まず聞こえてくるのが、この軽快な機織機の音なのだ。
ここの主は、大姫がいつ来ても、機織機の前に座り、機織機を動かしていた。
しかし大姫は、それで織られる布を一度として見たことがなかった。
紡ぎ出される糸も織られる布も存在しない機織機は、それでも、軽快な音を出して動き続けている。
「おや。今日はまた、ずいぶんと早く来たの」
そして、この奇妙な機織機を動かす人物は、人間ではなかった。
腰まである黒く艶のある髪と、雪のように白い肌。
そして何よりも、自分を見上げてくる印象的な黒い瞳。
十年前、初めて出会った時と何一つ変わらぬその姿が、何よりの証だ。
「迷惑だったかしら?夢織姫」
機織機を動かす手を止め、意外そうに自分を見つめる彼女に、大姫はそう言った。
「なんの。かまわぬよ。たとえ、そなたが早く来ようが遅く来ようが、わたくしは『夢』を織らねばならぬ。義高に会いに来たのだろう?ゆっくりしていくといい」
気にするな、と言葉を続けて、夢織姫はまた機織機に向かった。
とんからかっしゃん
とんからかっしゃん
再び、機織機が軽快な音を奏で出す。
糸も使わず、布を作り出すこともない機織機の前で、彼女は「夢」を織っているのだと言う。
『え~でも、これ糸も布もないよ。どうやって織るの?』
初めてそのことを教えられた時は、正直信じられなかった。
『おばちゃん、嘘言ってない?』
そう言って、夢織姫を、
『わたくしは夢織姫だと言っておるだろうがっ』
……切れさせてしまった。まあその後で、
『これは、そなたが知る布を生み出すものではない。この世界に来た人間のために、「夢」を織るもの。「夢」は、目で見るものではない。「思い」で見るものなのじゃ。ゆえに、そなたには何もないように見えるのであろう』
と、ほおずきとやまぶきになだめられて、そう説明してくれた。
『じゃあ、大姫の夢を織ることもできるんだ』
『いや、それはできぬ』
興味津々で大姫は尋ねたが、それはあっさり否定されてしまった。
『どうして?』
『そなたは、この世界の者ではない。そなたを含め、たいていの人間は、自分の力で心の中から夢を紡ぎ出すものじゃが、ここに来る人間は、そのようなことができぬ。それゆえに、わたくしがこれを使って夢を織り上げておるのじゃ』
あれは、いつ頃のことだったのか。
まだ自分は幼くて、平気で夢織姫のことを、「おばちゃん」と呼んでいた。
記憶は曖昧だが、おそらく、ここに来るようになったばかりの頃だろう。
今では彼女のことを、とてもじゃないが、「おばちゃん」と呼ぶことはできない。
なにせ外見上、大姫と夢織姫の年の差は、今やほとんど感じられないのだ。
へたをすれば、自分の方が年上に見える。
「どうした?」
しかし、自分がじっと見つめているのに気付いたのか、再び機織機の手を止めて、声をかけてくる彼女の瞳は、自分と同じ十代の少女のものではなかった。
厳しく、しかし、優しく。自分を見つめてくれる瞳だ。
「何でもないわ。ただ、夢織姫と初めて会った時のことを、今日ここに来る前に夢に見たから、なつかしくなっただけ」
大姫の言葉に、夢織姫はふっと微笑んだ。
「ほおずきに案内させよう。しばらくしたらわたくしも行くゆえ、義高をじっくりと見ておれ」
「もちろん、そのつもりよ」
大姫はそう言うと、にっこりと微笑んだ。
ここに初めて来たのは、義高が殺された直後だった。
大姫は、義高が殺された直後のことは、記憶が混乱していて、よく覚えていない。
逆に、ここに来た時の記憶は、鮮明で今でもすぐにはっきりと思い出すことができた。
あの時。
ここに来た自分は、義高がもう生きていないことを、漠然とだがわかっていた。
自分を気遣うような、周りの雰囲気。
何かを隠すような、父と母の言動。
それでも、義高に会いたかった。
現で会えないのなら、現以外の場所に行ってでも、彼に会いたかった。
そして―ここに来て。
自分は会えたのだ、義高に。
それは、望んでいた義高の姿ではなかったけれど。
それでも、義高がいるのだ。現にはいない、義高が。
そう。
あの頃のように、話したりじゃれあったりすることはできなくても。
「着きましたよ、姫様」
その義高のいる場所に、案内してくれたほおずきが、振り返りながらそう言った。
あいもかわらずの、頭をわっか型に結った、水干姿の少年である。
彼も、十年たった今でも、その姿は初めて会った時と少しも変わらない。
だが、姿が変わらないのは、彼らだけではなかった。
「ありがとう、ほおずき」
大姫は礼を言うと、その人物に近寄った。
暗闇の中で、彼が着ている白い夜着が浮かび上がっている。
ここは、何も見えないわけではないが、現の日の光のように、強力な「光」は存在しない。
ぼんやりと、夜、燭台を灯した時の、それよりも幾分かだけ強い「明るさ」が、この世界の「光」なのだ。
その光の下、義高は十年前と同じ姿で、目を閉じ、闇の壁に背を預けて眠っている。
否―「眠っている」という表現は、少しおかしいのかもしれない。
夢織姫によれば、ここでの「眠り」とは、現の世界でのそれとは異なり、魂を浄化するためのものらしい。
『ここは、「思い」を遺した者達が来る場所じゃ。今生でのさまざまな思いを抱えて、そなた達が「あの世」と呼ぶ場所に行くことができぬ者達を、「夢」で浄化するのじゃ』
あの時、こうやって捜し求めた義高の姿を目の前にして、自分は必死になって義高を起こそうとした。
でも、どんなに声をかけても、揺さぶっても、彼は起きなくて―泣き出しそうになった時、夢織姫が言ったのだ。
『無駄じゃ。義高は、「眠って」おる。時が来るまでは、目を覚まさぬ』と。
『それはいつなの? 義高様は、いつ目を覚ますの!?』
それを聞いて、半泣きになりながら、自分は問いかけた。
『わからぬ。ここでの「眠り」とは、そなた達の世界とは違うのじゃ。ゆえに、わたくしにも、義高がいつ目覚めるのかはわからぬ』
だけど、淡々とした口調で話す夢織姫の答えは、望んでものではなくて。
だから言ったのだ、自分は。
『じゃあ、待っている』と。
『義高様が起きるまで、大姫はここで待ってる!』
自分の言い出したことが、彼らにとってとんでもない内容だということは、夢織姫の後ろにいたやまぶきとほおずきの表情を見て、わかっていた。
だが、彼らの主たる人物は、『それもよかろう』と言って、承知してくれたのだ。
『夢織姫様!?』
驚く二人の従者を尻目に、
『ただし、条件がある』
髪を揺らし、夢織姫は自分に近づきながらそう言った。
『条件?』
『そうじゃ』
そして、真正面から自分を見下ろしてきた。
『ここに来たいのなら、今日はもうお帰り。そして、水を飲み、食を取り、体を休めるのじゃ』
『嫌よ!』
『嫌、では困るのじゃ。そなたが承知せねば、わたくしは、そなたをもう二度と義高とは会えぬ所に連れて行かねばならぬ』
夢織姫は、きっぱりと言い切った。
『それが嫌ならば、わたくしの言う通りにするのじゃ。さすれば、ここにそなたが来たい時に、こられるようになる』
『え……?』
『ただ、ここに来るのには、生きている人間はそうとう「力」がいる。だから、帰れと言っておるのじゃ。帰って、きちんと静養したら、またここに来るといい』
有無を言わせぬその口調に、自分は、しぶしぶと頷くしかなかったけれど。
その言葉は、嘘ではなかった。
当時のことを思い出しながら、大姫はそう思った。
これは後から聞いたことなのだが、あの時の現の自分は、昏睡状態で、ほとんど死に掛けていたのだ。
あのままここに居続けていたら、確実に死んでいた。
それを避けるために、夢織姫は、一度現の世界に自分を戻したのだろう。
実際彼女の言うように、断っていた水や食事を取るようになって、多少回復した時、自分は再びここにやってきた。
それからは、体調の良い時にここに来たいと望めば、こられるようになっていた。
もっとも体調が悪い時は、どんなに望んでもこられないのだが。
「その辺は、夢織姫って意地悪だよね。義高様に会いたいなら、元気になるしかないもの」
義高の前にしゃがみ込んだ大姫は、義高を見つめながら、そうぼやいた。
「もっと義高様に会えたらいいんだけどな」
呟いて、義高の髪に手を伸ばす。
くせのない、さらさらとした感触が、確かなものとして手に伝わってくる。
「それだったら、ちゃんとご飯を食べて、体を動かして、体を丈夫にしないとだめですよ」
その呟きが聞こえたのか、木の盆に奇妙な器―汁の椀を小さくした、横にわっかが付いている―に、黒い液体の入ったものを載せて、運んで来たほおずきがそう言った。
「ほおずき」
「そうすれば、ここにもっとこられるようになりますよ」
「それ、夢織姫にも言われたわ」
彼の言葉に、大姫は唇を尖らせながらせる。
「おや、そうでしたか」
「そうよ。まったく、主従そろって図星をついてくるから、嫌になる」
ほおずきは微苦笑すると、それ以上は何も言わず、お口に合うといいのですが、と奇妙な器を大姫に差し出した。
「ありがとう」
それを受け取りながら、大姫は、もう一人の従者がいないことに気付く。
「ほおずき、やまぶきは?」
「やまぶきは、『お勤め中』です」
尋ねてみると、実に単純明快な答えが返ってきた。
夢織姫が「夢」を織るように、彼ら従者も主人と異なる、「役目」を担っているらしい。
もっとも、大姫は彼らが「お勤め」と呼んでいる「役目」が何なのか、よくは知らない。
ここに来るようになったばかりの頃、やはり尋ねてみたのだが、「この件に関しては、生き人のそなたには教えられぬ」と、夢織姫に言われたのだ。
「ほおずきは、行かなくていいの?」
だから大姫はそれ以上問うようなことはせず、そんな風に言葉を続けた。
「ええ、だいじょうぶです。それよりも大姫様、その飲み物は―」
苦く感じるかもしれないので、気を付けてくださいね―と、ほおずきが続けるより早く、それを飲んでいた大姫が、飲み慣れぬ苦さに咳き込んでしまった。
「だいじょうぶですか? 大姫様」
予想通りの反応に、しかし苦笑するわけではなく、ほおずきは落ち着いた態度で、盆を持たぬ左手に、白湯を出現させて大姫に差し出した。
大姫はそれを受け取り、咳き込みつつものどに流し込む。
「なっ、何なの、この飲み物は!?」
そして、どうにかこうにか息を整えた。
「僕もくわしいことは知らないのです。貰い物ですから」
「また、ガブリエルの差し入れか?」
その時、夢織姫がそう言いながら、何もない空間から現れた。
「ええ。日本より遥か西の国の、乾いた風と砂が舞う地に住む民が飲む物だそうです」
しかし、いきなり現れた主人に驚くことなく、ほおずきはそう言葉を続ける。
「あの男も、好奇心が強いの」
「けれどガブリエル様いわく、この飲み物は、やがては世界中の人が飲むことになるそうです」
「まあ、あの男が気に入るものは、たいてい当たりではあるが」
「それって、これがおいしいってこと?」
それまで黙って二人の会話を聞いていた大姫は、信じられない思いで、そう尋ねた。
「そういうことになるかの。あの者の、物を見る目は確かじゃ」
「嘘でしょ!?こんな苦い飲み物が!」
その言葉に、夢織姫はほおずきを見た。
「なんじゃ。そなた、大姫にそれを飲ませたのか」
「はあ……珍しくていいかな、と思ったのですが」
「さようか」
夢織姫はあきれたように頷くと、袿のすそを翻し、義高の真正面に座っている大姫に歩み寄った。
「まあ、そなたには馴染めぬ味であろうがの。世の中には、それが『うまい』と感じる者もおるのじゃ。己の味覚の方が正しいとは、思わぬ方がよいぞ」
そして、そう言って屈み込み、大姫の持つ黒い液体の入った奇妙な器に、指先を触れさせた。
「好みは、それぞれってこと?」
「そういうことじゃな。ほれ、そなたが飲めるように味を『調節』したぞ」
「えっ?」
「飲んでみるがよい」
促されて、大姫は器の黒い液体に目を落とし、ためらいつつも器を口元に運び、一口ごくりと飲み込んだ。
今度はあの苦さは消え、ほどよい甘さと香ばしい匂いを、それぞれ口と鼻で感じる。
「……おいしい」
「そうであろう?そなたの口に合うように、『命じた』からの」
「命じた?」
「わかりやすく言えば、そなたが『おいしい』と感じられよう、それが常に変わるようにしたのじゃ。試しに、『もっと甘くなれ』と命じてみい。その通りになるぞ」
いたずらっぽい口調でそう言われ、大姫は半信半疑で試しにそう念じてみた。
とたんに、強烈な甘さが口の中に広がる。
「うわっ」
噴出しそうになるの必死に堪えつつ、夢織姫の方を見ると、彼女は必死になって笑いを堪えていた。
恨めしげに夢織姫を睨みつけると、大姫はごっくんと、甘い液体をどうにかこうにか飲み込んだ。
「さすがに、甘すぎたようじゃの」
「こうなると、わかって言ったんでしょ」
「人聞きの悪い。そなたの『加減』がヘタなのじゃ」
そう言って、夢織姫はほおずきが渡してくれた器に口をつけた。
中身はどうやらあの黒い液体らしいが、こちらは噴出すこともなく、優雅なしぐさで飲んでいる。
睨み付けても何処吹く風の態度に、大姫は軽いため息を吐いた。
自分は、口でこの人に勝ったためしがない。
「まったく。眠ってないで、この人に何か言ってやってよ、義高様」
大姫はそう言いながら、義高のだらんと伸ばされた手に、そっと触れた。
しかし昔のように、その手が自分の手を握り返すことはない。
「……」
大姫は、こみ上げてくるせつなさを紛らわすため静かに微笑んだ。
「自分に降り掛かる火の粉ぐらい、自分で振り払えなくてどうするのじゃ。そのように、間抜け面で寝ている者に助けなど求めるではないわ」
「間抜け面……」
だが、この言葉でそんな思いも一瞬にして吹き飛んでしまう。
「ちょっと。間抜け面はないでしょ、間抜け面は!!」
他に言いようはないのか、と思いながら、大姫は言った本人をぎっとにらみつけた。
「ならば、アホ面じゃ」
「そうじゃなくて!」
「夢織姫様、せめて『天使のような寝顔で眠っている奴に、助けを求めるでないわ』ぐらいにしてあげませんか?」
二人の会話の内容があんまりだと思ったのか、それまで黙って二人の傍に控えていたほおずきが、口を出してきた。
「たいして変わらぬではないか」
「でも、アホ面よりましです」
しかしその言葉は、「天使」という言葉はわからぬものの、結局義高の寝顔が「間抜け面」と言っているのと、たいして変わりがない。
大姫は、がっくりとなった。
結局、何を言っても夢織姫が「間抜け面」と言ったら、義高の寝顔は、彼女にとっては「間抜け面」なのだ。あきらめの境地で、大姫は残りの黒い液体をすすった。
「まあ、確かにの。『天使の寝顔』は、西にある国では『無邪気な寝顔』という意味があるらしいからの」
だが、夢織姫が次に言ったこの言葉は、大姫の予想とは少し違う内容だった。
「そうなの?」
「西の国々の宗教では、神の使いと信じられている、白い翼を持つ高貴な存在だそうじゃ。あの男、いわくな」
「あの男?」
「ガブリエル様のことです」
名前を省く夢織姫の言葉に、ほおずきは言い添えた。
「もっとも、『天使』とは『天の使い』という言葉を省略した、僕達が勝手に作った言葉ですけど。本当の言葉では、僕達にはわからないんです」
「ふ……ん。じゃあ、そのがぶりえるって人もてんしなんだ」
「ええ、そうです」
「天女みたいな人なの?」
「いや、そうではないな」
「ええ。神の使いという意味合い的には似ていますが、姿も性別も全然違いますしね」
だが、この二人の主従の言葉には、さすがに困惑してしまった。
「私……一応、あの世は極楽と地獄に分かれていて、極楽には仏様、地獄には閻魔大王がいるって思っていたんだけど……違うの?」
「ああ……そうじゃの。正しいと言えば正しいし、違うと言えば違う」
そこで言葉を切り、夢織姫は言葉を捜すような表情になった。
「確かに、そなたらが『仏』と呼ぶ存在はある。『閻魔大王』と呼ぶ存在もある。じゃが、それらは目で見るものではない。心で―魂で、『感じる』ものなのじゃ。ある者はそなたと同じように、それらを『仏』と『閻魔大王』として感じ、またある者は、『光』と『闇』と感じたりして、人によってさまざまな感じ方があるのじゃ」
「は~。じゃあ、てんしのがぶりえるさんもそうなんだ」
「いや、それは違う」
納得しかけた大姫は、しかし、この否定の言葉にまたしても混乱してしまう。
「え……と?」
「あれは、人の思いが生み出した存在。そして、わたくしと同じ役目を担う者なのじゃ」
「と言っても、やり方は夢織姫様とまったく違うんですけどね」
夢織姫とほおずきのそれぞれの説明を受けて、大姫は、はあとため息を吐いた。
「つまり、天使のがぶりえるさんを、神の使いと信じている西の国の人に『夢』を与えているのね」
「そうじゃ。他にも、何人かわたくしと同じ役目の者がおるらしいがの。くわしいことは、わからぬ」
「え、そうなの?」
「そなたとて、そなたの生きる世界の全てのことを知っておるわけではあるまい?わたくしとて、同じじゃ。確かにわたくしはここの住人じゃが、知らぬこともたくさんある」
そう言うと、夢織姫は器の黒い液体を一気に飲み干した。
「ふーん……」
大姫は、そんな彼女を感心したように見つめた。
「この世界も、広いってことね」
「そうじゃ。そなたの世界と同じでな。さて、そろそろ時間切れじゃぞ」
しかし、大姫の尊敬の眼差しを向けられた本人は、あっさりとした口調でそう告げた。
「え、もう!?」
とたんに、大姫は不本意そうな顔になる。
時間切れは、ここにいられる時間がもうないということなのだ。
「さっき来たぱかりなのに」
「また、来ればよい」
カチャリと器を下に置きながら、夢織姫はにっこりと笑った。
「いつでも好きな時に、な」
「夢織姫……」
―そして、全てが闇になる。
微笑んでいる夢織姫の姿も、眠っている義高の姿も、そこには、もうない。
さっきまで、確かにあったというのに。
「……」
優しい時間の終わりは、いつもこうなのだ。
自分だけが一人、こうやって暗闇の中に残される。
そして―やがて、自分は目を覚ますのだ。
現に戻るために。
義高のいない、現に戻るために―。
「お戻りになられましたね」
大姫のいた場所に、ちょこんと置かれた器を拾い上げながら、ほおずきが言った。
「そうじゃな」
夢織姫は、自分の持っていた器をほおずきに手渡すと、眠っている義高に視線を移した。
とたんに、義高の姿が霧散し、霧のように消える。
「最近は、ここにおられる時間が、前よりも短くなられましたね」
その光景に眉一つ動かさず、ほおずきは主人に問いかける。
「そうか?」
「ええ」
夢織姫は、自分の問いに、確信を持って頷く従者を見つめた。
「……あちらの今年の夏は、ことのほか暑さが厳しかったと聞く。ゆえに、体調を崩しているのであろう」
そして、あっさりとした口調でそう言った。
しかし主人のこの言葉に、ほおずきは微かな不自然さを感じた。
どこが、とはわからない。だが、何かが違うのだ。
「夢織姫様……?」
と、その時だった。
(いつまで、このようなことを続けるおつもりですか? 夢織姫)
ふいに、夢織姫の頭に直接響く、第三者の「声」があった。
「―そなたか」
若い男の響きを持ったその「声」の持ち主が、誰であるのかを悟り、夢織姫は小さく笑った。
「いつまで、とはまた奇妙なことを聞くの。そのようなこと、わたくしにもわからぬ。それを決めるのは、大姫じゃ。……とうとう、そなた弱音を吐くのか?」
(夢織姫!)
「そなたに口出しは許されぬ、義高」
厳しい口調の声が、薄暗い世界に響いた。
「死人のそなたに、生き人の大姫のことを口出す権利はない。彼女を見守ることがつらいのなら、さっさと『眠る』がよかろう」
(……!)
「それが嫌ならば、耐えることじゃな。わたくしは、そなたが悪鬼に変わろうと、いっこうにかわまぬのじゃぞ」
厳しいことを言われ、「声」の持ち主は―義高は、押し黙った。
「己の決めた道じゃ。己の力で、どうにかするのじゃな。この夢織姫が与えた破格の温情、生かすも殺すもそなた次第じゃということを、ゆめ忘れるでない―よいな」
返ってくる言葉は、もうなかった。夢織姫は静かに立ち上がると、
「先に行っているぞ」
「はい。僕は、後で参ります」
ほおずきの返事を聞き、静かに立ち去った―文字通り、そこから消えたのだ。
ほおずきはそれを見送ると、片手に盆を持ったまま、自分も何処かへと消えた。
後に残されたのは、深い闇のみであった。