三 よみのくに
疾風の雲霧を
ひらくよりも狼し
極楽ねがわん人はみな
弥陀の名号となうべし
眠っていた大姫は、朗詠を歌う声で、目が覚めた。
と言っても、まだ朝ではない。
辺りは、深い闇に包まれている。
ぱちぱちと、瞬きをしていると、
「起きたのか?」
声をかけられた。
「義高様?」
「なんだ、起きたのか。今、丑の刻(午前二時頃)だぜ。寝といた方がいい」
「丑の刻?」
「真夜中ってことだよ。幽霊が出やすい刻っても言うな。案外、お前が聞いた『泣き声』も、それかもな。『泣き声』を聞いたのも、この刻じゃないのか?」
「……よくわかんない」
そう言って、大姫は上半身を起こした。
暗闇に慣れたのか、義高が部屋の木戸の近くに、白い夜着のまま座っているのがぼんやり見えた。
「鈴はどうしたんだ?へんな声が聞こえる主人を一人にしているのかよ、あの姉さんは」
「姫がいいって言ったの。別に怖くないし、何も起こらないんだもん」
「……本当につわものだよな、お前は」
義高は、心底あきれたように言った。
「それよりも義高様、どうして義高様が、姫のお部屋にいるの?」
「……悪いかよ」
しかし、大姫がそう聞いたとたん、ぷいっと顔を横にそむけた。
「悪くはないけど、眠くならないの?」
「……そうだな」
「……」
「眠れ、ないんだよ」
顔を横に向けたまま、小さく呟く義高を、大姫はじっと見つめた。
「たとえ十悪を犯した者でも、阿弥陀仏はこれを救ってくださる。それはまるで疾風が雲霧を散らすよりも早く」
「?」
「知らないのか? 昼間お前が歌っていた、朗詠の意味だよ」
「……義高様、姫と那智の話聞いてたの?」
「ああ。だから俺、知っていただろう。お前が、へんな声聞いているって」
大姫は義高様に怒られるのかな?と、おそるおそる聞いてみたのだが、義高はさして気にしていないのか、あっさりとそう言った。
しかし、あいかわらず大姫の方を見ようとしない。
「義高様?」
「仏は悪人も救ってくれるそうだが、俺を救ってくれるのかな」
「……?」
「俺は、十悪とやらを犯しちゃいないんだけどな。でも、極楽というところで救ってもらいたくはないんだ。今、この世で救ってもらいたいんだ」
「……」
「武士の子なら、覚悟を決めなきゃいけない……。それは、わかっているんだけどな」
そこで、義高は言葉を切った。そして、静かに吐息をはく。
大姫は、寝床から脱け出すと、義高の傍に近寄った。
近付いて見ると、義高の横顔はどこか哀しげで、弱弱しかった。
昼間、大姫にいじわるを言う時の彼とは別人のようだ。
「姫も、一緒に行くよ」
大姫は、小さく義高にささやいた。
その言葉に、義高が驚いたように顔を上げた。
「お前……俺がどこに行きたくないか、わかって言っているのか?」
「うん」
それは、わかっていた。義高が行きたくないという場所。
それは、この世ではない。
あの世、と言われているところだ。
「義高様がそこに行くことになったら、大姫もそこに行く」
真面目な顔をしてそう言う大姫に、義高はふっと笑った。
「バーカ……」
そして、大姫の頭をこつんとこづく。
「それ、御台所に言うなよ?泣かれるぞ」
「義高様がいなくなったら、姫も泣くもん」
「……たくっ」
頑固な大姫に、義高は苦笑した。
「お前は、本当に変わっているよ。さんざんいじめた俺に、そんなこと言うなんてな」
「姫、へんなの?」
「へんだよ、お前は十分」
そう言って、義高は大姫を抱き寄せた。
温かい腕が、大姫を包み込む。
「へんな、御所の姫君だ」
くすくす笑いながら呟く義高に、大姫はぷっとほっぺたを膨らませた。
そして―二人は、そのまま抱き合って眠り。
夜が明けて、大姫を起こしに来た鈴は、
「うーん」
と、抱き合って眠る二人を見て、考え込んでしまった。
義高が、本当に大姫に対して優しくなったのは、この夜のことがあってからだった。
大姫が傍に近寄っても、「あっちに行けよっ」と言わなくなり、時々は一緒に遊んでくれるようになった。
でも、意地悪をするのは相変わらずで、大姫の髪を引っ張ったり、大姫が義高を追いかけようとすると、「俺を見つけてみろよ」と言って、どこかに隠れたりする。
だけど大姫は、本当に捜すのがとても下手だから、なかなか見つからず、不安になって泣きそうになってくると、ようやく義高が、
「お前は、本当に人を捜すのが下手だなあ」
と、いたずらっぽい笑みを浮かべて、物陰とか、木の上から出てきてくれるのだ。
そうすると大姫は安心して、つい義高に抱きついてしまう。
しかし、義高は大姫を突き放したりせず、「お前って、本当にマヌケ」と言って、大姫の頭をぐりぐりと撫でてくれるのだ。
「義高様は姫に優しくなったけど、まだ姫に意地悪するの。どうして?」
そんな義高を不思議に思って、何人かの人に、大姫はそう尋ねてみたのだが、鈴は、
「きらいきらい、も好きのうちなんですよ」と言い、那智には、
「子どもなんですよ。大姫様、すいません」と、逆に謝られてしまった。
一番訳のわからない返事をしたのが小太郎で、
「天邪鬼なんですよ。大姫様、気をつけてください」
と、真面目な顔でそう言った。
これには、さすがに「????」となって、義高に聞いてみたのだが、義高が真っ赤になり、「小太郎~~~」と叫びながら小太郎を追いかけ、いつも冷静沈着な小太郎が、冷静な顔のまま、すたこらさっさと逃げて、結局そのまま大姫の疑問は何一つ解明されなかった。
でも、一つだけ、はっきりとわかっていたことがある。
それは、自分が幸せだったということだ。
義高がいて、鈴がいて、那智がいて、小太郎達がいて。
ずっと、こんな日々が続けばいいと、本気で願った。
他には、何も望まなかった。
だけど―それは、そんなにわがままな願いだったのだろうか。
そんなに、許されない願いだったのだろうか?
……最初にいなくなったのは、義高と那智達だった。
次に小太郎がいなくなり、最後に―鈴が、いなくなった。
鈴のことは、寝込んでいるだけだと、鈴の親代わりの阿古夜が教えてくれたけど、義高達のことは、誰も、何も教えてくれなかった。
「義高様はどこに行ったの? 那智達はどこに行ったの?」
ワガママヲ言ウンジャナイ。
オ母様ガ、困ッテイルヨ。オ前ハ良イ子ダカラ、言ウコトヲ聞キナサイ。
そう聞く大姫に、冷たい瞳をした男が、冷たい声でそう言った。
大姫は、その男が誰なのかわからなかった。
その男が、何を言っているのかもわからなかった。
義高に会いたい。
どうして、ただそれだけのことが、わがままになるのか。
どうして、義高達を捜すことが、母親を困らせることになるのか。
姫、都デ特別ニ注文シテ、作ラセタ着物ダ。
ホラ、綺麗ダロウ?
何、それ。
綺麗な着物?義高様がいなくなったのに、どうしてそんな物、見せるの?
姫。オ前ノ好キナ駿河ノ国ノ蜜柑ダ。
ウマイゾ。
いらない、そんなの。
義高様は、どこに行ったの?
どこに、隠しているの?
果てしなく続く闇の中を走りながら、大姫は義高を捜した。
気が付いたら、ここにいた。
「姫様、お待ちください」
「姫様!」
ばたばたと軽い足音と、幼い声が追いかけてくるが、構ってはいられなかった。
義高は、ここにいるのだ。
誰 に教えられたわけでもないが、大姫にはそのことがわかっていた。
『俺は、あきらめないから』
と、その時だった。
ふいに、大姫の頭の中に、響いてくる「声」があった。
(えっ?)
『生き延びるために、がんばってみせるから。お前も、がんばって生きろ』
「義高……様?」
わからないはずがない。大好きな人の声だ。
「しょーがねえな」
そう言って、自分の髪をぐちゃぐちゃにかき乱す時の声が、一番好きだった。
意地悪だけど、優しくて。大好きだった。
「どこにいるの!? 義高様!」
大姫は、立ち止まってそう叫んだ。
「姫様」
「大姫様」
「姫を……一人にしないでよぉ……!」
とうとう泣き出した大姫に、やっと追いついたほおずきとやまぶきは、困ったように互いの顔を見合わせた。
幼き身でここに来たこの少女は、かなり頭が良いのだろう。
本当は、わかっているのだ。愛しき者の死を。
ただ―認めたくないだけで。
(哀れな)
二人は、泣き続ける大姫を見ながら、そう思った。
人ではない彼らは、すでに大姫の「思い」を感じとり、すべてのことを悟っていた。
愛する者を、実の父親に殺される―。
それは、大人である女性ですらも、耐え難き事実であるのに、まだ七歳の、この少女が背負っているのだ。
か弱き者は、狂うかもしれない。
しかし―狂うには、彼女は頭が良すぎていた。
愛する者が遺した「思い」を、十分理解しすぎていた。
『俺は、がんばるから』
(姫様)
『お前も、がんばって生きろ』
(夢織姫様)
愛する者を奪われて、狂うこともできず。
その惨き運命を、幼き肩に背負うこの子を。
(お救いください)
(少しでも、この魂が癒されるよう)
二人は、彼らの主人に、本気でそう思った。
「―何を泣いておる?」
と、その時だった。
ふわりと長く艶のある髪を揺らし、夢織姫が、大姫のすぐ横に現れた。
主人が何もない空間から突然現れたことに、ほおずきもやまぶきも別段驚きはしなかった。
人外の者である彼らにとって、それはたやすき術なのだ。
夢織姫の問いかけに、大姫はゆっくりと顔を上げ、泣き濡れた目で夢織姫を見上げた。
「捜し人には会えたのか?」
しかし、彼女の静かな言葉に、大姫は再び顔を膝に埋めてしまう。
その行為で、問いかけの答えが、「否」であることを、夢織姫は察した。
それは、予想通りの答えでもあった。
「そうであろう、の。そのように、泣いておっては」
夢織姫はそこで言葉を切ると、袿の袂を揺らし、何もない暗闇の一点を、指し示した。
すると、そこにぽっと楕円状に小さい灯が現れる。
「きちんと、見つけることもできぬわ」
「……?」
その言葉に含みを感じた大姫は、再びゆっくりと顔を上げた。
そして、夢織姫が指し示す方向に視線を向ける。
とんからかっしゃん とんしゃんしゃん
夢織りしゃんせ通りゃんせ
夢織姫は夢を織る
現では叶わぬ
甘美で儚い幻夢
哀しき魂が見る夢を