二 わかくさ
丹永三年(一一八四年)、正月二十日。
木曾義仲、敗死。
その四ヶ月後、人質として鎌倉に入っていた嫡男・義高は脱出を図るものの、入間川にて追いつかれ、惨殺される。享年、十二歳。
それは仕方のないことだと、誰もが思った。
残された幼い姫のことは、幼いから何もわからないだろう、すぐに忘れるだろう、と誰もが思った。
しかし、何もわからぬと思われていた幼き姫は、その日から、水を飲むことも、食を取ることも忘れ―闇だけを、見続け始める。
「何故に、生き人は忘れるかのう」
幼き時、自分が漠然とであるが、様々なことを感じ取っていたことを。
大姫の『記憶』を読み取った夢織姫は、小さく呟いた。
そうして、彼女は織り始める。
幼き少女を再び現に帰す、優しくて残酷な「夢」を。
パタパタと、自分の後を追ってくる気配を感じながらも、大姫は走り続けることを止めなかった。
いくら走っても、あるのは闇ばかりで、自分が捜す義高の姿は見当たらない。
(どこにいるのかな? 大姫に意地悪するために、隠れているのかな?)
それでも、大姫はあきらめることなく、捜し続けた。
だいたい、義高は大姫に意地悪だった。
初めて出会ったのは、一年前の夏の初め。
「ほら、この方が姫のお婿さんである、志水冠者、木曾義高様ですよ」
母の部屋の居間に訪れた、直垂姿の少年を、母はそう言って大姫に紹介してくれた。
木曾と言うところから来たという少年は、切れ長の目で、鼻筋はすっと通っている、母曰く、「源氏の血筋で、凛々しいお顔立ち」をしているらしかった。
大姫が、この少年について知っていることは、二つだけだった。
木曾、という所に住んでいた、自分より五つ上の十一歳の少年で、自分のお婿様として、鎌倉に来たということ。
たったそれだけのことしか、知らなかった。
『お婿様と言っても、姫も義高様もまだ小さいから、そんなに難しく考えなくてもいいのよ。でも、義高様とは仲良くならないとね』
と、母親は笑いながら自分にそう言ったのだが。
(仲良く、なれるのかなぁ?)
と、大姫は、「こんにちは、姫君」と挨拶してくる義高を見つめながら、そう思った。
まあ確かに、義高は「仲良くしましょうね」と、笑いかけてきた。
母親の言葉にも、笑顔で返事をしていた。
けれど。
そう、けれど。
自分と仲良くしようなど、微塵も思っていない目だった。
(義高様は、姫のこと好きじゃないみたい)
それを見た大姫は、そう思った。
だから、対面が終わって義高が出て行った後、
「よかったわね、姫。義高様は、姫をかわいがってくれそうよ」
と、母親がうれしそうに言うのが、どうしても信じられなかった。
「俺は、お前のことなんか、大きらいだっっ」
案の定と言うか、それから三日後。
大姫は、偶然海で会った義高に、そう宣言されてしまった。
海は、鎌倉御所のすぐ近くにある。
信州の山奥で育った義高にはとてつもなく珍しいものだったが、大姫にとっては、一番身近で、大好きな遊び場だった。
だからその日も、大姫付きの侍女を一人連れて、貝を拾いに来たのだ。
そうしたら、義高もお供の少年を一人連れて、浜辺に来ていた。
最初に同じ浜辺にいることに気付いたのは、大姫の方だった。
義高は、海風でまとめた髪が乱れるのにもかかわらず、海を見続けていた。
大姫と義高はけっこう離れていたが、義高の横顔は、大姫には、はっきりと見えた。
「姫様、どうかしましたか?」
やがて、立ち上がったまま、身動き一つしない大姫をけげんに思い、侍女の鈴が声をかけてきた。
大姫より九つ年上の彼女の声はよく響き、義高達にも聞こえたのだろう。
付き人の少年が、ペコリと頭を下げているのが見えた。
が、しかし。
義高の方は、大姫の存在に気付いたとたん、露骨に嫌そうな顔になった。
「あ、姫様」
だが、大姫はそんなことは気にせず、ダッと駆け足で義高に近づいた。
「?」
そして、はぁはぁと息を乱しつつも、それを整えることもせず、じっと義高の顔を見つめた。
そんな大姫に、見つめられた義高はもちろん、付き人の少年も、鈴も、けげんそうな表情になる。
こと、見つめられている義高は、
「なんだよっ」
と、苛立だしげにそう叫んで、大姫から視線を逸らした。
「じろじろ見るなよな! 俺は、お前が大っ嫌いなんだ!」
その口調の強さは、思わず、付き人の少年が咎めようとしたぐらいだった。
しかし、大姫は驚きもしなかったし、泣きもしなかった。
彼女にしてみれば、わかりきったことを、何で今さら義高が言うのか、そちらの方が不思議だったのだ。
きょとんとなった大姫に、義高は意地の悪い笑みを浮かべた。
「だいたい、お前みたいなチビが、俺の妻になれるのかよ。俺のは、けっこう大きいぜ?」
「義高様っ」
今度の発言には、付き人の少年も、声を荒くした。
鈴も、信じられないような目で義高を見た。
だが―かんじんの大姫は。
彼女は、義高が言ったことを理解するには幼すぎた。
しかし、義高が「太い」と言ったモノが、何なのかはわかる年頃であった。
そして、大姫は、大変素直な性格だった。
「大きいって、義高様のお玉って、どれくらいの大きさなの?」
結果。
彼女は、暴言を吐いた義高ですらも硬直させるようなことを、言ってのけた。
かりにも、御所の姫君である。
しかも大姫は、どちらかと言えば肌の色は浅黒く、大きい黒い瞳が印象的とは言え―お世辞にも、美人とは言えぬ母・北条政子に似ず、都にいた少年時代は、その愛らしさで評判だった父―源頼朝によく似ているのだ。
つまり、まだ幼いが、大姫は美少女なのである。
その可憐な美少女が、「どれくらいの大きさ?」と、泣きもせず言ってのけたのだ。
しかも、無邪気な笑顔付で。
大姫以外の三人が、思いっきり硬直―いや、凍りついたのは、無理もなかった。
「あのね、姫は万寿(後の頼家)の見たことがあるんだけど、こんなに小さいんだよ」
そんな周囲の状況を知ってか知らずか、大姫はわざわざ手で、その長さを示した。
それは、大姫の人指し指でも、十分に表せる大きさであった。
「当たり前じゃないですか、万寿様は、昨年生まれたばかりの赤ちゃんですよ!」
やがて、いつまでも凍り付いていても始まらないと、大姫をよく知る鈴が、復活してそう言った。
彼女は、大姫が頼朝とよく似た顔立ちをしていながら、中身は政子そっくりなことをよく知っていた。
「姫様、あれほどそんなお言葉は口にしちゃいけないって、御台所様に叱られたのに、全っ然、わかっていらっしゃいませんね!!」
ゆえに、いち早く自分を取り戻すことができたのだが、てっきり大姫が泣き出すと思っていた義高と付き人の少年は、まだ呆然自失の状態だった。
「だって~鈴……」
「だってじゃありません!」
大姫は、姉に叱られた妹のごとく、しゅんとなった。
一方義高は、何とも言えぬ表情のまま、海に背を向け、ふらふらと御所へと戻る道を歩き出した。
そのことに気付いた大姫が、
「ねえ、義高様どうしたの?」
と、鈴に聞いたが、互いに十五歳の、付き人と侍女である少年と少女は、同時に深いため息を吐いた。
「姫様は、もう少し、御所の姫君だという自覚を持たなくてはなりませんね……」
深く、実感を込めて言う少年に、鈴はうんうんと頷き、かんじんの大姫は、言葉の意味がわからず、きょとんとした表情になった。
それがきっかけで、大姫と義高が仲良くなったか、と言えば。
―世の中、そこまで甘くはなく、義高が鎌倉に来てから一ヶ月ばかりは、何の変化もなかった。
まあ、二人とも男の子と女の子で、年が五つも違うのだ。
特に義高は、十一歳の、腕白盛りである。
いくら大姫が、外見と激しい落差のあるおてんば姫でも、相手にするには物足りないものもあるのだろう、と政子をはじめ、御所の人々もそう思っていた。
しかも猫かぶりの義高は、その辺も上手くやり、小さい女の子を相手にどう接していいかわからない優しい少年、という印象を与えていたのだ。
その辺の手腕は、
「上手い、上手すぎるわ!」
と、大姫付きの侍女・鈴がうなったほどである。
猫を剥がせば、義高は、大姫を邪険に扱っていた。
大姫の姿を見ると、露骨に嫌そうな顔をする。
傍に行けば、「あっち行けよ、バカ!」と言う。
それも、決まって御所の人間が周りにいないところで、だ。
「そりゃあ、好きでもない女の子を妻にして、来たくもない鎌倉に来たんです。父君のためとは言え、義高様のお気持ちは察するにあまります。でも、もう少し姫様のことを思いやってくれてもいいと思いません!? 姫様も、半分は同じお立場なんですよ!」
その御所で、唯一義高の本性を知る鈴は、義高の付き人の少年達の中では最年長の少年―自分と同い年の、甲田那智にくってかかっていた。
この二人は、大姫の「どのくらいの大きさ?」発言で、共に脱力した連帯感からか、または同い年の気安さからか、あれから以後、こうやって御所の中で会う度に、話す機会が増えていた。
「まあ、義高様もまだ十一歳だからなぁ……。御自分のことで頭がいっぱいで、大姫様のことまで、頭が回らないんだ」
「でも、やっていいことと悪いことがあるでしょ!」
「まあ……それはそうなんだけどさ……」
あまりにも正論の言葉に、那智は頭をかきつつも、主人をどう庇おうかと、言葉を探した。
そもそも、義高がこの鎌倉に来たのは、義高の父・木曾義仲と大姫の父・源頼朝が結んだ和議のせいだった。
丹永二年(一一八二年)の三月に成立させたこの和議により、義仲の嫡男である義高と、頼朝の長女である大姫を婚姻させることになったのだ。
しかしこれは裏を返せば、約束を守るための人質である。
父が和議を違えば、殺されてしまうかもしれない―。
その事実は、十一歳の少年には、重すぎるほど、ずしりと感じるものなのだろう。
その胸中は、那智にも十分察することはできた。
「……本当は良い方なんだよ、義高様は」
「わかっているわよ、あなたがそうやって庇うぐらいだもの」
「えっ?」
「でも、姫様もいい子なのよ。時々、とんでもないことを言われることはあるけれど」
真剣な目をして、鈴はそう言った。
那智は、侍女の中でも、どうしてこの少女が一番大姫に慕われているのか、わかったような気がした。
「……そうだな。義高様に、ちゃんと伝えておくよ」
「ありがとう。それはそうと、はい、これ」
神妙な顔つきで頷いた那智に、鈴は笑顔でそう言うと、すっと、持っていた包みを両手で差し出した。
「これは?」
「御台所様に頼まれたの。今日はあなた達、遠駆けに行かれるのでしょう?」
受け取ってみると、ほのかに温かい。
「にぎり飯か」
「ちゃんと人数分竹皮で包んであるから、義高様にお渡ししてあげてね」
「……ああ」
確かに、今日は遠駆けに行くと、御台所である政子には伝えてあったが、昼の用意をしてくれとは頼んでいなかった。
なのに、政子はちゃんと気を利かせて、お昼の用意をするよう、侍女達に命じてくれたのだ。優しい思いが、そこにはあった。
「ありがとうございます、と台所の皆さんに伝えてくれないか?」
「わかったわ」
笑顔のまま、素直に頷く鈴を見て、
「御台所様には、直接俺達から言うから」
那智も、笑顔を浮かべてそう言葉を続けた。
さて、同じ年の少年と少女が、温かい交流をしていた頃―。
「何でお前がここに来るんだよ。あっちに行け、この馬鹿!」
彼らの主人達は、あいかわらずだった。
義高が付き人の少年達と、馬小屋で、馬番の男が用意してくれた馬に、馬具を付けて遠駆けの準備をしていると、いつのまにやら、ひょっこりと、大姫が馬小屋の入口から顔を出してきたのだ。
その顔を見たとたん、さきほどの言葉である。
しかも、きちんと馬番の男がきちんといないと確認した上での、発言だ。
三人の義高の付き人である少年達は、「あーあ」と、義高の猫被りの酷さと大姫への態度の酷さに、最近は呆れ気味なのか、責めるような表情で義高を見た。
しかし、少年達の同情を一身に浴びた少女は、さして(と言うか、全く)義高の言葉におくさず、びょんっと、馬小屋の中に入ってきた。
そして、じっと馬小屋の一番奥にいる義高を見つめた。
「何だよっ」
そんな大姫を、義高は怒りをあらわにした表情で、にらみつけた。
とたんに、少年達の冷たい視線が、義高の方に飛ぶ。
やがて大姫は、尼削ぎの髪を翻して、馬小屋から出て行ってしまった。
「義高様って、性格悪かったんですね……」
「大姫様、おかわいそう……」
「むなしくありませんか? あんな五つも年下の女の子に、八つ当たりして」
その後ろ姿を見送りながら、少年達は、次々とそんな台詞を言った。
「うるさいなっ、あれは敵の娘だぞ!?」
「だからと言って、あんな扱いをしていい、という理由にはなりません」
義高は反撃するが、さきほどの最後の決めの言葉を言った、この四人の中では一番最年長である、細長い三日月の瞳をした海野小太郎に、そうあっさりと言い捨てられてしまった。
しかも、その言葉には、うんうんと残りの少年達も、同感と言うように頷いたのだ。
結果。義高は、それ以上反撃もできず。
「……っ、さっさと馬を外に出すぞっ」
と、馬の手綱を乱暴に掴み、歩き出すしかなかった。
一方大姫はもと来た道を、石を投げてはその投げた距離の分だけ、片足で跳んで移動する遊びをしつつ、戻っていた。
この御所の裏手にある馬小屋から、大姫の部屋がある小御所までは、けっこうな距離があるので、ただ歩くよりは、こうやって遊びながら帰る方が楽しかった。
それに、心配していたことが全くの杞憂だったから、一人で遊んでいても、いつものようにつまらなくはなかった。
十悪と言えども引摂す
疾風の雲霧を
ひらく狼し
極楽ねがわん人はみな
弥陀の名号となうべし
「なかなか風流ですね、姫君」
歌いながらぴょんぴょん飛び跳ねていた大姫は、そう声をかけてくる人物がいたので、顔を上げた。
この声には、聞き覚えがあった。
「あ、那智だあ」
にっこりと微笑む那智を見て、大姫は那智の腰に抱きついた。
彼女は、この優しい少年が大好きだった。
大姫は、一日に一回は義高の傍に近づくのだが、いつも邪険に追い払われていた。
しかし那智は、追い払われて、自分の部屋に戻ろうとする大姫をいつも追いかけてきて、「すいません」と頭を下げて謝ってくれるのだ。
それはみんな義高のためで、大姫は、義高を優しく思いやることができる那智が、とても好きだった。
那智は包みを持たない反対側の手で、抱き付いてきた大姫の頭をなでた。
「姫様は、義高様のところへ行かれていたのですか?」
「うん、そうだよ。義高様は、今日もお元気だね」
大姫の言葉に、那智は大姫の頭をなでていた手を止めた。
「また、何か失礼なことを言われましたね?」
「平気だよ、姫は」
すまなそうな声になる那智に、あわてて大姫は言った。
「申し訳ありません。本当は……とても、良い方なんですけどね、義高様は……」
「うん。だいじょうぶだよ、姫は。それにね、姫は義高様に文句を言われると、うれしくなるの。義高様は今日もお元気なんだなって、泣いてないんだなって安心するの」
無邪気な笑顔でそう言う大姫に、那智は、ふっと眉をしかめた。
「姫様……どうして、義高様が泣いている、と思われるのですか?」
那智が知る限りでは、この鎌倉御所に来てから、義高は泣いたことがなかった。
ここは、敵の陣地である。鎌倉に来てからこの一ヶ月、弱みを見せまい、と義高は必死になって気を張っていたのだ。
「あ……」
那智に言われたとたん、大姫は、自分の口をその小さい手で隠した。
「姫様、那智は誰にも言いませんから」
しかし、那智が優しく促すので、(どうしようかな?)と考え込んだ。
那智は、義高を本当に大切に思っている人だ。
だから、義高のことだったら何でも知っていたい、と考えているのだろう。
それはわかる。わかる、のだが。
(義高様にばれたら、もっと嫌われるかもしれないし……)
「姫様、お願いですから」
那智は、懇願するような瞳で大姫を見た。
それに、大姫はうっとなる。
な まじ、那智が意識してやっていないだけに、それは効果があった。
彼女は、自分自身でも自覚はしていなかったが、人の感情を見抜くのに長けていて、それだけに、嘘を付かない人のむき出しの思いには弱かったのだ。
「……義高様には、言わない?」
上目遣いに那智を見ながら、大姫は言った。
「ええ」
「本当に?」
「約束します」
そう言って、那智は包みを持たない左手の小指を差し出した。
那智と指きりをした大姫は、あのね、絶対に内緒だからね、と言って話し出すしかなかった。
「前に、那智と義高様が二人だけで海に行ったでしょ? その時、見たのが最初なの」
「前に……ああ、こちらに来たばかりの頃ですね。確かに、姫様も来ていらっしゃいましたね。鈴殿と一緒に」
あの、「どのくらいの大きさ?」発言があった日のことである。
あの日のことは、今でもはっきりと那智は覚えていた。
と言うか、忘れたくても忘れられなかった。
「それでね、あの時、義高様はずっと海を見ていたでしょう? その時、姫には義高様が泣いているように見えたの」
「……姫様」
「でも、近づいて見たら、義高様は泣いていなくて、姫の見間違いだったんだなって、安心したの」
そう。あの時はそう思っていたのだが、それからしばらくして、大姫は夜になると、庭続きの御所の方から、人の泣き声らしきものを聞くようになったのだ。
彼女が住むのは、母・政子と同じ、小御所である。
しかし、初めてその泣き声が聞こえてきた時、それは、大姫のすぐ近くで聞こえたのだ。
それも、とても小さく、蚊の鳴くようなものだった。
でも、隣を見ても、誰もいない。
(あれ?)と思ったが、彼女はすぐに、それは庭続きの御所から聞こえてくることに気付いたのだ。
御所には、棟は別だが、義高の部屋もある。
「……姫様、それはちょっと変じゃないですか?」
そこまで大姫の話を聞いた那智は、眉をひそめてそう言った。
「だって、姫様は小御所にお住まいじゃあないですか。その泣き声は、姫様のすぐお近くから聞こえたんでしょう? だったら、小御所の誰かが、姫様の寝所のお近くで泣いていたのではないですか?」
「うん。鈴もそう言った。でも次の日も、姫には聞こえたのに、一緒に寝ていた鈴には聞こえなかったの」
現実には聞こえない、大姫だけに聞こえる「泣き声」。
誰のものかはわからないが、大姫は、それを聞く度、義高様のものじゃないのかなあと思い、義高の顔を一日に一回は見に行ってしまうのだ。
「怖く……ありませんか? 御自分にしか聞こえない、『声』が」
「どうして? それよりも、姫は心配になるよ。いつもね、寝る前に今日は聞こえないといいなぁって、思うの。でね、聞こえてくると、義高様じゃないといいのになって思うの」
だから、義高に「あっちに行けよ!」と言われても、全然平気だった。
彼にそう言われると、(義高様は、今日もお元気なんだな)と、安心できるのだ。
「……姫様は、お優しい方ですね」
大姫の言葉を聞いた那智は、ぽつりとそう呟いた。
「那智?」
きょとんとした表情で、大姫は那智を見た。
那智は優しく微笑みながら、大姫の頭を撫でてくれる。
「姫様は優しくて、とても良い子ですね。それがわからない義高様は、馬鹿です」
「えっ?」
「だから義高様には、頭の良い子になってもらいますね」
「???」
那智が何を言っているのかわからず、頭が混乱している大姫と、にこにこした顔で、大姫の頭を撫で続ける那智。
「―よけいなお世話だ」
そんな二人を、少し離れた場所で、木の陰に隠れて見ていた義高は、小さく呟いた。