最終章~子守歌が聞こえる~
鶯の泣く声が聞こえた。
それを縁側で聞いていた尼僧が、ついっと空を見上げる。
すると、一羽の鶯が、庭の真正面にある桃の木にとまり、ホケキョともう一度鳴いた。
「春霞流れる青柳の
枝くひ待ちて鶯鳴くも」
その姿を見ながら、まだ若い尼僧は、つい先日覚えたばかりの古歌を口ずさんだ。
「大姫様、皆様出発されましたよ」
と、その時である。
ぱたぱたと足音がして、彼女に仕える侍女が現れた。
年が明け、十二歳になった泉である。
「泉、私の名は蓮暁よ。大姫は、ちゃんと父上と母上と出発したでしょう? まちがえてはいけないわ」
そんな泉を、若い尼僧―尼姿になった大姫は、静かにたしなめる。
「すいません、蓮暁様」
その言葉に、泉は恥ずかしそうに微笑みながら、ペコリと頭を下げた。
建久6年(一一九五年)。二月十四日。
寒さも薄らぎ、吹く風も優しくなってきたこの日、頼朝は、妻の政子、子どもの大姫、頼家、三幡、千幡の家族全員を連れて、京の都に上洛するため、鎌倉を出立した。
後白河法皇亡き後の宮廷内の工作を、関白の九条兼実と進めるのと、平家方が焼いた東大寺再建の供養に列するためであった。
だが何よりも、真の目的は、彼の長女・大姫の入内に向けての裏工作である―というのが、巷での評判だった。
だが、大姫は都には行かず、一人、この鎌倉の小御所に残った。
しかも、今はかつての姿ではなく、法衣をまとい、髪を肩まできり、白い布で頭を覆った尼姿である。名も、蓮暁と改めた。
彼女は、出家したのである。
しかし、それは公然の秘密であった。
入内が持ち上がった鎌倉御所の姫が、急に出家したのでは体裁が悪い、ということらしい。
父の頼朝は、どこからか面差しが大姫とよく似た少女を連れて来て、その子を大姫として京に連れて行った。
おそらく、あの少女は自分の異母妹なのだろう、と大姫は思う。
つい最近、遠目だが自分の姿を見に来ていたのだ。勝ち誇ったような、
笑みを浮かべていた。
彼女には、正妻の大姉として生まれ、天皇の妃の話までありながら、病が癒えるなり、父に出家を願い出た異母姉など―許されるまで、二度も髪を切った(一度目は父の目の前で、二度目は刀を取り上げられ、閉じ込められた部屋で)―理解できぬ、愚かな人間として映ったのかもしれない。
でも、それでいいのだ。
望んだことは、ただ一つ。
義高を、思い続けること。
それだけが、自分の願いなのだから。
だから、それが許された今、大姫の心は穏やかだ。
大姫自身、出家したことで、自分の心がこれほど落ち着くとは思わなかった。
もちろん、ここまで来るには、いろんなことがあった。
現の世界に戻った直後は、呆然自失の状態で、何をする気も起きなかった。
だが、熱心に自分を看病してくれる泉や、毎日様子を見に来る頼家、見舞いに来て、姉の姿を見たとたん泣きそうな表情になった、三幡と千幡。
そんな彼の自分を心配する様子を見ていると、思い出さずにはいられなかった。
『お前が今、義高と共に逝くことを望むのは、その者達の今までの思いを無にするということじゃ。その者達の願いを、無視するということじゃ』
夢織姫の、この言葉を。
『幸せに、大姫』
義高の、このささやきを。
納得したわけではない。
絶望が、消えたわけでもない。
ただ、あの二人が、自分のことを本当に案じてくれたことがわかっていたから。安易に、己の意志で死ぬことはできなかった。
ならば、自分はこの世で、生きていくしかない。
生きていくことを、考えるしかない。
死の一歩手前まで行った体は、完全に衰弱していた。
今までのように、体が回復したところで、夢織姫や義高のいるあの世界に行けるわけではない。
正直、このまま死んでもいい、と思っていた。
だが、心配そうな泉や頼家達の顔を見ると、その思いは萎え―そうこうしているうちに、褥から半身起こせるようになるまで、回復してしまった。
そうなると不思議なもので、絶望的な思いとは裏腹に、自分の体と心は、「生きること」を要求し始めていた。
顔色の良くなった大姫を見て、泉達はとても喜んだ。
母の政子が見舞いに訪れ始めたのも、この頃だ。
政子は、少し痩せたように、大姫には思えた。
『お父もお母も、鎌倉が憎くないの?』
『大事な人達がいるから』
そしてその時、心に過ぎったのは、やはりあの時聞いた、泉と鈴、そして小太郎達の会話だった。
『まずは大姫様、そして政子様』
『それから、私達の面倒をよくみてくれた、阿古夜さん達』
彼らが、そんなふうに言えるようになるまで、どれだけの時間が流れたのだろう。
多分、鈴も小太郎も、義高や那智を殺された恨みは、今でも忘れていないはずなのだ。
それでも、彼らはその恨みだけには流されず、鎌倉は大事な人達がいる場所だと、そう言ってくれる。
そうして、そんな二人に育てられた泉は、実父を殺した鎌倉に、すべてを知りながら訪れ、曇りのない笑顔で働いている。
それは、許すとか許さないとか、そう言った単純な理由ではなく。
『御所にとって私の存在が意味のないものなら、生き延びてやろう、と』
ただ、大事なものを、これ以上失わないために。
大事なことを、これ以上見失わないために。
彼らは、怒りや憎しみを抱きしめて、生きているのだ。
そのことに気付いた時、大姫は考えたのだ。
自分はどうなのだろう、と。
父の与えようとする幸せは、いらなかった。
母の信じる幸せは、信じられなかった。
それは、今でも変わらないけれど。
自分は、見失っていないだろうか?
ちゃんと見つめていただろうか?
たくさんの、大事なことを。
幸せにおなり、と夢織姫は言った。
幸せに、というのが、義高の最後の言葉だった。
どうすれば幸せになれるのかわからなかったけれど、自分が今一番望んでいる状態を手に入れることから始めよう、と思った。
そうして、そう思えるようになった時には、季節は冬になっていた。
出家しようと決めたのは、そう思った直後のことである。
動機は不純だったが、いざ出家してみると、不思議と心は落ち着いた。
そうすると、見えてくることがたくさんあった。
父の目の前で髪を切った時、父の目に涙が浮かんでいたこと。
部屋に閉じ込められて、隠していた小刀で再び髪を切り、そのことを知った母が黙って尼層着を渡してくれたこと―出家のために両親を傷つけたことを、素直に認めることができた。
冬の風の冷たさや、冬でも眠らない鳥達、雪の中で咲く、花々。
自然の中には、りんとした美しさがあることも知った。
今までなら、絶対に気付かなかったことが、たくさん見えるようになったのだ。
『この世界も広いってことね』
『そうじゃ。そなた達の世界と同じでな』
「そう言えば、泉。頼家達は、元気に出発したの?」
「はい。そうそう、頼家様から、蓮暁様に、伝言があるんですよ」
「あら、何かしら」
「『土産が何でもいい、というのが一番難しいんだ、姉上の馬鹿やろう!』……だ、そうです」
「……何よ、それ」
「はい?」
「それって、京に旅立つ弟が、一人残る姉に言うべき言葉なの!?」
「さあ……それよりも蓮暁様、ご自分で言ってますよ。『姉』って」
「さあって何よ、さあって。だいたい、泉も泉だわ。なんでそんなに素直に伝えるのよ!」
「愛がありましたから」
「愛!?」
「京に行けぬ姉上のために、一番良いお土産を買ってくるぞ―と言う、頼家様の愛を私は感じましたので、お伝えしました」
そう言って、泉は笑った。
大事なもの。愛しいもの。
そういったもの達を、見失わないで生きていたい、と泉の笑顔を見ながら、大姫は思った。
たった十二歳で逝ってしまった、義高を思いながら。
それでも、「幸せ」になることを忘れずに。
そうして、いつの日にか再び、自分は義高と出会うのだろう。
今度こそ、共に在るために。
その時、夢織姫にも会えるのだろうか?
きっと―会えるだろう。
その時、自分はまた聞けるはずだ。
夢織姫の、あの機織機の音を。
子守歌のように優しかった、あの音色を。
「お茶を入れて来ますね」
そう言って、泉がぱたぱたと小走りで廊下を行く。
その背を見送りながら、大姫は、優しい春の日差しに目を細めた。
とんからかっしゃん とんしゃんしゃん
夢織りしゃんせ 通りゃんせ
とんからかっしゃん とんしゃんしゃん
願い叶わぬ者達の 御霊を癒す夢を
とんからかっしゃん とんしゃんしゃん
明日の命に繋ぐため
建久八年(一一九七年)、七月十四日。
源頼朝の長女・大姫死す―享年、二十歳。




