一 まどろみ
―私の幸せは、ここにあるのですか? あの人がいない、この世界に。
闇、であった。
そこは。
深い……深い、漆黒の闇。
そこがどこにあるのか、誰も知らない。
そこにいる本人達にすら、わからないのだ。
ただーそこに、彼女はいた。
消えることのない燭台のもとで、機織機を、動かし続けていた。
とんからかっしゃん とんからかっしゃん
とんからかっしゃん とんしゃんしゃん
夢織りしゃんせ通りゃんせ
夢織姫は夢を織る
願い叶わぬ者達の
思いを糸に夢を織る
「夢織姫様、大変です!」
暗闇の中、ふいにぽっと、光と共に、頭をわっか状態にまとめた五歳ぐらいの男の子が現れた。
そうして、バタバタと機織機の前にいる夢織姫の前に近づいてくる。
「何じゃ、騒々しい」
そう言って顔を上げた夢織姫は、年の頃は、十三・四歳。
愛らしい顔立ちをしていた。
しかし、その黒い瞳は。
その年頃にはふさわしくない、「何か」が、宿っていた。
「生き人が、迷い込んでおります」
「―生き人が?」
男の子の言葉に、夢織姫は、おやっと少しだけ驚いた表情になる。
ここしばらくの間―と言っても、あちらではどれくらいの時間がたったのかわからないのだが―この場所に、生き人は迷い込んでこなかった。
生きている時の人間は、果てしなく強い。
どんなにつらくても、生き延びようとする。
ここに来るのは、それができず、『心』を残した者達ばかりだ。
「それは難儀なこと……」
あちらに帰ってくれるのならいいのだが、帰ることを拒む者の始末をするのが、一番大変なのだ。
今回は、どうなのであろうか?
素直に帰ってくれるといいのだが。
そう思いつつ、夢織姫は機織機の前から立ち上がった。
「して、その生き人は、どの様な者か? ほおずき」
素直に帰らぬなら、とっとと始末をつける気で、知らせに来た仕え人の男の子―ほおずきに問うと、
「それが……小さい女の子なのです」
思ってもいない答えが返ってきた。
「―まことか?」
「今、やまぶきが相手をしているのですが……まだ、五、六歳ぐらいの女の子です」
ほおずきは、困惑した表情でそう言った。
「なんと……」
幼子がここに迷い込むなど、かつてなかったことである。
いったい、どうしたことなのか。
「たまたま、迷い込んだのでしょうか?」
「わからぬ……」
主人と仕え人は、困惑の表情で、考え込んでしまった。
五、六歳といえば、まだまだ無邪気な年頃である。
父や母に守られて、あるいは周りの者達に守られて、怒りも、哀しみも、絶望も、まだ遠い場所にあるはずだ。
少なくとも、自分はそうだった、と夢織姫は思った。
体が大きくて腕の立つ父と、微笑む姿が優しい母に、守られていた。
それは気が遠くなるほど昔のことだが、ちゃんと覚えている。
なぜ、その子はここに来たのか。幼子が、どうしてここに来る程の、『思い』を抱くのか。
「あ、来ましたよ」
そう言って、ほおずきが指さした空間に、またしてもポッと、ぼんやりとした光が現れた。
その中から、ほおずきとお揃いの水干姿をした、しかし、髪の毛を後ろで括った一人の男の子が出てきた。
年の頃は、ほおずきと同じで、五歳ぐらいに見える。
続いて、今度は五、六歳ぐらいの、尼削ぎ姿の綺麗な着物を着た女の子が現れた。
大人になれば、さぞ美しくなるだろうと思える、端正な顔立ちをした少女だ。
「姫様」
パタパタと、男の子の方が―やまぶきが夢織姫に近寄ってきた。
「この子か? やまぶき」
「はい。いくら帰りなさい、と言っても帰らず」
「ねえ、義高様は? 義高さまは、どこにいるの?」
やまぶきの言いかけた言葉を遮り、女の子は、夢織姫にそう問いかけてくる。
「……と、この調子なのです」
「なるほど」
多少、閉口気味のやまぶきの言葉に、夢織姫は頷いた。
と、その時である。
「おばちゃん、義高様はここにいるんでしょ? 義高様は、どこにいるの?」
幼子の少女は、とんでもない嵐をしかけてきた。
確かに、自分はこの少女の母親よりも、遥かに年上である。
だが、夢織姫は一瞬、本気でこの少女をさっさと始末しようかと考えた。
「ひ、姫様。落ち着いてください!」
「そうですよ、まだほんの子どもじゃないですか!!」
やまぶきとほおずきが、夢織姫をなだめようと、必死になって声をかける。
「わたくしは、夢織姫という」
言われなくてもわかっておるわ、と二人の仕え人に目で言いながら、
「ここは、そなたのような生き人が来る場所ではない。はよう、己の世界に帰るがよい」
と、幼い少女に告げた。しかし少女は、
「でも―義高様がいないもの」
大人びた瞳をして、そう言った。
「そのような者は、ここにはおらぬ」
「ううん、ここにいる。大姫には、わかるもの。いつだって、義高様がいる場所は、大姫にはわかったんだもの!!」
その言葉に、夢織姫は、聞き覚えのある名があったことに気付いた。
「そなた―大姫と言うのか?」
「うん。義高様はね、木曾から大姫の所に来たの。でね、ずっと一緒にいたの。でもね、急にいなくなっちゃったの。だから、大姫は捜しに来たの。ねえ、夢織姫様、義高様は、どこにいるの?」
一生懸命そう言い募る少女―大姫に、ほおずきとやまぶきが、困ったように顔を見合わせる。
夢織姫は、その幼さに似合わぬ光を宿す少女の瞳を、じっと見つめていたが、やがて、すっとしゃがみ込み、大姫に目線を合わせ、
「お帰り。ここは、お前のような幼き生き人が来るところではない。早く帰らないと、お前の体が死んでしまう」
何とか少女を説得しようとしたが、
「いや、絶対に嫌!!」
思いっきり拒否されてしまった。
「大姫は、絶対に義高様を捜すのっ!」
そして大姫は、ダッと、夢織姫がいる反対方向へと駆け出して行った。
「姫様っ」
「良い。しばらくすれば、戻ってくるであろう。しかし、変な『場』に出るとも限らぬな。ほおずき、悪いが着いてやっておくれ」
「はい」
夢織姫の言葉に、ほおずきが頷き、大姫の後を追って行く。
ほおずきは大姫より外見は幼いが、彼に任せておけば安心だった。
外見で年齢を判断できないのは、ここでは夢織姫だけではないのである。
「夢織姫様、どうするおつもりですか?」
「さて、どうするかのう」
やれやれという感じで、夢織姫はゆっくりと立ち上がった。
「今までならば、あの手の者は、容赦なく『闇』に送っていたのだが」
そして、彼女がそう呟いた時。
(大姫に、手出しは無用でございます、夢織姫様)
若い―まだ、完全には大人になりきれておらぬ、少年の「声」が、夢織姫の頭に直接響いてきた。
「やはり、出てきたか」
その「声」の持ち主は、彼女が夢を織り上げたのにもかかわらず、「眠り」につかぬ者だった。
「あの幼子は、私が織り上げた、そなたの夢に出てきた者。よほど、そなたが恋しかったと見える」
(……)
「で、どうする?」
沈黙した「声」に、夢織姫はそう問いかけた。
「……どうする、とは?」
「わたくしも鬼ではない。あのような幼子を『闇』に送るのは、忍びなくてな。だから、そなたが決めるがよい。そなたは、あの子をどうして欲しい?」
(夢織姫様は、俺を悪鬼に変えるおつもりですか?)
「さて。まあ、そなたがそうなった時は、遠慮なく、始末をつけるがの」
クスクスと意地の悪い笑みを浮かべ、そう言う夢織姫に、
(それでは、夢織姫様が思うように。俺は、あなたを信じていますゆえに)
「声」の少年は、淡々とした口調で答えた。
「かわいくない奴じゃ。まあ、良い。やまぶき、悪いがあの子の相手を、ほおずきと共にしばしやってくれぬか」
「それはかまいませぬが……何をなされるおつもりですか?」
「夢を、織る」
「え?」
夢織姫の言葉に、やまぶきは目を見張った。
「姫様、それは……」
「生き人に夢を織るのは初めてじゃがの。これも、いたし方あるまい」
そう言うと、夢織姫は機織機の前に座った。