第二話 異界人との一方的遭遇
高山地帯特有の薄い空気の中をピュ~~~と鳴り響き、身体を凍てつかせる粉雪混じりの寒風の中、空中を滑空する音が雪が枝に降り積もった寒冷地特有の植生である針葉樹林の中に鳴り響いた。
霊術に置いて術式の連続発動による作用時間の擬似持続というものはさして行い難いものではない。
確かに複雑な術式、補助展開具の類が必要なものを持続連続発動するのは3桁から4桁の乗除算を常時連続演算するものだが、変数の再入力が無いのであれば三度使わずとも脳内で循環複写展開を行うことも元来補助具の類をもちいらず術式を行使していた古式の術者からすればそう難しいことではない。例え変数の再入力が必要でも術式の展開が破綻してしまうということは余程切り替えが下手な人間か、見習いの人間でもないない限りあり得ない。
彼、「弁財天 上総宮 刑武」は現在霊化生物が居るであろう座標に向かって空中を滑空していた。
そして、精密射撃が可能な距離に入ると同時に無音着地をした。通常であれば空中に浮遊した状態で雪上に着地すれば雪の中に沈み込むようなことになりかねないのだが、このとき彼は下方からの上昇気流で勢いを殺しながら雪が凍結した氷上に着地した。この時彼が用いたのも霊術。着地する足場となる範囲の雪から熱エネルギーを奪い取りそのエネルギーを上向きの空気の運動エネルギーに変換するという【歩凍跳躍】の応用、基点となる「面」を雪と空気と接触面に記定し、本来足に対して干渉する運動エネルギーの対象を空気に変更したのだ。
そして、遠見の術の視点を獲物に対して攻撃しようとする複数の対象に合わせた。
その瞬間、凍てつきの音が鳴り響いた。
言葉の通り、音が鳴り響いたと思ったら全身を白く染めた体長2ミーターを超える狼、8頭が倒れ伏した。全身が無数の裂傷でボロボロになり、そしてそれで流れ出た血液ごと凍りついていた。
視点を逃げ回っていた白人中性に向けるとなぜこのような事態になったのか理解できず、茫然と立ち尽くし、座り込んでいた。
彼が今用いたのは【凍結砕音】。指定した一定範囲の空気の熱エネルギーを奪い取り、それを空気の気体振動エネルギー、音に変えることによって、術式の作用範囲に存在する物質を破砕・凍結させる霊術である。しかし、惜しむらくは本領を発揮しきれていないことだろう。この術式は気温が高ければ高いほど破壊力が増加する。
しかし現在のの気温は既に零下十度を下回っている。標高の高さとこの晴天から考えればこれでも暖かい方なのだと推測できるが、これで【凍結砕音】のポテンシャルを十全に発揮できたかと言われると物足りなさを感じることを禁じえない。
しかしながら、今回関してはむしろ都合が良かった。何故なら今回の目的の一つである標本の確保のため、できるだけ損傷を少なく、且つ素早くシメなけらばならないからだ。動脈を切り裂き血抜きを行ない、冷凍状態にすることで劣化を防ぐことができる。
【閑話休題】
ヒューヒューという擦り切れた呼吸音が血の臭いが漂う雪に埋もれた森の中に小さく鳴り響いていた。
この声を漂わせている人物は一見少女のように見える15歳前後の中性、つまり男女どちらにも当てはまらない新しい性区分で形部が生きていた2041年、興行17年にはこの区分が既に一般に伝播していた。そしてこのような制度になった理由に関して言えば然して高尚なものではない。単純に必要に駆られて制定されただけだ。近年になるにつれ、中性、所轄言うところの半陰陽、インターセックスと呼称される形で生まれた新生児は2038年に新たに統計方式に革新された国勢調査の統計では全体数の約200人から100人に一人の割合で生まれてきている。既に無視できる人数は超えている。
それ故に彼が居た時代には半陰陽等を含む性障害に関する偏見の類に関しては居たとしても、「そうなんだ」といった類の言葉で片づけられる事が珍しくないほどには緩和された。障害ではなく一種の個性という方向にシフトされたと言ってもいいだろう。
そして形部にとっても中性は意味が有るものでもある。彼がこの世界に来る理由となった人物もまた中性で、過去の差別と偏見の目にさらされ霊術の大家として付き合いの深かった彼の家に養子として引き取られた過去を持つからだ。
だからこそ、彼はそこに何か因縁染みたものを感じ取った。
しかし、そんな感慨深げなことを感じられるのは傍観者の立場に居る人間だけで、現実に襲われて逃げ回っていた人間からすれば混乱の極みであろう。
(なに、なに、なに、何なの。今のは理術なの。意味がわからない。)
現実にもこの少女は混乱していた。この憔悴しきってさらけだし、少し感応の触手を伸ばせば入ってきてしまう表層心理の内容に形部は大げさすぎるという回答を導き出した。
そもそも彼が今使った【凍結砕音】は規模はある程度大きくなってしまうが、発動過程がエネルギー変換の一過程しか存在しない至極初歩的な魔法だ。現代霊術に置いて魔法の難易度というものはそれがどれだけ多種多量な要素と複雑な発動過程を内包しているかで決まっている。
その基準でいえば【凍結砕音】は発動過程が至極単純は初心者向け魔法といえる。そんな初歩的な魔法だったからこそ、門外漢な彼でも複数の対象に対して同時に発動する平行処理を行えたのだ。
そして彼は彼の中性の人物の前に顔に人当たりの無い軽薄な笑みを浮かべ姿を現した。
しかし、それは結果的にみれば無意味に終わった。
何故なら……、
「ざんっ」
形部が自らの姿を現すと茫然と座り込んでいた少女は体を捻ったような体制でうつ伏せに倒れこんでしまったからだ。
察するにザスザスという不審な音が聞こえてきたので、この少女は瞬時に振り向こうとしたのだろう。しかし、出血と蓄積した疲労感から体が思うように動かず、雪に自らの頭を激突させてしまった様だ。しかも、形部の強化した聴覚で聞き取れる「ゴキッ」という音から察するに足をひねってしまった様で、それは押しこらえた状態で聞こえてきた。「いっ」という声からも明白だ。
形部は現在の混乱状態に在る精神状態なら精神感応を用いた脳内情報の閲覧が円滑に行えるので、これを好機と思い思い彼女の前に姿を現したのだが、肩すかしの様に倒れ伏し、それからしばらく待っても起き上がろうとする素振り一つ見せない、そんな彼女を不審に思い精神感応を用いて体を健康調査してみたところ、どうやら出血がかなり酷かったらしく重度の血行障害を起こしている上に、全身に乳糖が多量蓄積している。おそらく、血液量の不足による意識障害と疲労の蓄積により疲弊していた状態の中、いきなりの頭部打撲と足首ねんざの痛みをうけたせいで、意識を失ったのだろう。
このまま放置しておけば出血多量が主な原因で高確率で死に絶えるだろう。未知の民族との第一接触というリスクを負って姿を現したのにこれでは無意味も同然だ。彼女が気絶状態では満足な脳内情報の閲覧が行えない。何より、応答質疑に類した行為が行えないのでは得られる情報の正確性に欠ける。
何よりこのまま標本を放置することなどできないし、かと言って、この地の情報が何も判らない以上仮死状態とはいえこんな危険生物を持ち歩くのは余計なリスクを増やすだけだ。
「仕方が無いか。気候も崩れるようだしここで待機ということしよう。」
形部は以上の二つの理由から、ここで標本の解析を行いながら、治療を行い少女の覚醒を待つことしたのだった。