閑話 篠突雨
※主人公視点ではありません。
五話と六話のの間の話。
※ちょっと改定。子供なのにあまりにも流暢にしゃべっていたので、喋り言葉を第三者が聞こえる風に書き直しました。
篠突く雨。五月雨のように静かに慈悲深く降り注ぐのではなく、一種暴力のように一方的に敲き付ける拍手喝采にも似た雨。
何に、喝采を送るのか。
何に、快哉を叫ぶのか。
底の知れない悪夢か?それとも、神の裁きだろうか。
目の前に鬱蒼と生い茂っているはずの木々の陰さえも見えない驟雨の中、彼は陰鬱に立ち尽くしていた。
虚ろに見開かれた眼は、何も映るはずのない瀑布の向こうをじっと見詰めたまま動かない。
まだあどけない輪郭を残す面には、何の感情も浮かんでいなかった。
それは、虚無に似ている。
王都に住まう彼と同じくらいの年齢の貴族の子供ならばきっと知ることの出来ない感情でありながら、彼の周囲には何故かいつも満ち溢れている絶望を噛み締めていた。
――ああ、もう駄目なのか。
溜息すら吐きそうな倦怠感を伴う身体を意識して、彼はゆっくりと瞬く。
再び緩慢に開かれた時、彼の何も映さないはずの瞳は、確かにそこに横たわる無数の夥しい“死”を見詰めていた。
繰り返し、繰り返し。あと何度こんなことを繰り返したら、飽きるのだろう。
自分の罪なら、忘れる暇もないくらい思い知っている。
諦念を通り越した空ろの心で、彼は思った。
悲しみや衝撃すら磨耗した心には響かない。
そこにある屍の数々は確かに、彼が大切にしたいと思ったものだったはずだと言うのに。
そう思って、ふと気が付いた。
――「もう?」
そう自分が思ってしまったことのほうが彼には衝撃だった。
何も、自分の心には届かないのだと思っていた。
それなのに、もうと思ってしまうほど短く感じていたのだろうか。
これまでに比べれば、この屍になってしまったものと過ごした期間は長かったはずだ。
――ああ、そうか。
彼は納得した。楽しかったのだ、きっと。
思いがけず楽しかったから大切なものと認識したのだし、そう思っていたから、今まで彼が生きてきた中で母親よりも長く一緒に居たのにそんな風に思ってしまったのだろう。
理解したからといって、彼の胸は痛まなかった。
ちっとも、動かなかった。
疼痛はなかった。
動揺もなかった。
如何しようもなかった。
動じようがなかった。
痛むほどの心も、悼むほどの心も、傷むだけの心も、彼にはなかった。
磨耗して摩り切れてしまった。
消耗して擦り切れてしまった。
滝壺に立ったときのような轟音と敲き付ける水圧が、彼の華奢な身体に文字通り圧し掛かっていた。
しかし、彼は身体に掛かる水圧も失われていく体温さえも、意識の外に在るかのごとくただ立ち尽くしていた。
体の事などどうでも良かったと言うのはあまり正しくない。
生きたくて仕方なくて、その思いの強さだけならばきっと、この世のだれよりも強いに違いないと思っている。
だからこそ、こんな風に生き残ってしまったのだ。
通り雨よりも瞬く間に、息を吐くことさえ困難なほどの驟雨は収束の兆しを見せていた。
目の前に立ち塞がっていた水幕が徐々に薄れていって、横たわる屍との面会を余儀なくされつつあった。
大切だったもの。
大事にしたかったもの。
大切に出来なかったもの。
それが眼前に突き出される。白日の下に晒される。
彼の、罪が。彼への罰が。
死んでもいい気がした。
死ななくてはいけない気がした。
「気がした」ではない。
死ななければならなかったのに。
生きろ。
そう、言われたから。
眼前に横たわった屍が、まだ生きていた時に確かにそう言ってくれたから。
きっと。
まだもう少しだけでも、生きていてもいいのじゃないかと思ってしまった。
それでも、そんなおこがましい事を思ってはいけなかったのだ。
「やっぱり駄目だったよ」
駄目だった。
あんなに逞しかった腕が、頼れる胸が、いつでも見れば安心した笑顔が。
無くなってしまった。
亡くなってしまった。
自分のせいで。
助けを求めるように、或いは彼を罵る様にだらしなく開かれた眼孔を彼は見詰めた。
雨はもう、肌を打っても痛くない。視界を乱すほどにも降り注いでいない。
「やっぱり、駄目だったよ…」
諦めた心で、優しく慰めるように呟いた。全身ずぶぬれなのに、声は掠れた。
彼は物言わぬ屍になってしまった人に言う。
優しく、語り掛けるように。
愛しく、諭すように。
顔は――見る人があれば――微笑を刻んでいる。
それはいっそ、我が子を看る母のような、そんな微笑だった。
「 」
呟きは最後の雨粒と一緒に堕ちて砕けた。
鳥の声を聞いた気がして、ジュリアは目を覚ました。
見慣れたはずの瀟洒な天井に違和感を覚えてしまい、苦笑する。
あんな夢をみたからだ。
彼女に出会う前の記憶など、もうずっと見ていなかったのに。
窓の外に視線を転じると、まだ夕闇に染まった空がある。
鳥の声はどうやら夢の続きの幻聴だったらしい。
軽く頭を振って夢の残滓を追い払う。
まだ起きるには早い時間だが、なんとなく体を動かしたかった。
素早く身支度を済ませて部屋を出る。
石造りの廊下はひやりと底冷えがしたが、朝の清澄な空気と相まって背筋が伸びる思いがした。
夜明け前のこの時間帯にはもうすでに下男下女たちは起き出して、各々の仕事をせわしなくこなしている気配がする。
廊下のすみずみまで拭き清めている彼らの仕事の邪魔をしないように道を選んで、人気のない城外へ出る。
空はうっすら白み出して、灰色がかった薄紫色の絹雲が筆で掃いたように散っていた。
身支度をしている間か、下男たちを避けて城内を抜けるのに思いのほか時間が経ってしまったらしい。
もうそろそろ、自分がいつも起き出す頃合いだった。
こんな時間になってしまってはそう遠くまではいけないだろうと思いつつ、軽く準備運動をして走る。
城壁に沿うように一周して戻ってくる頃には、息子との早朝訓練をしているくらいの時間になりそうだ。
三分の一ほど走り抜けたくらいで、視線だけ走りながら第三王子の居城の一室を眺める。
今はぴったりと閉じている窓と、誰もいないテラスが見えた。
王子の部屋の隣に位置するその窓は、庭のどこからも見ることがかなうわけではない。
木々と建物の合間を縫うこの一角からだけがこの広い庭園の中かから唯一望める場所だった。
足を止めずにいたから、三歩と行かないうちにすぐさまその窓は見えなくなってしまったけれど、何度もいった場所だし、昨晩はそこへ侵入もした。
目の前にあるように思い浮かべることもできるので、見えなくとも構わない。
昨日行方をくらました王子はアレクサンドラの従獣である天使の計らいで自見事従獣を連れてきた。
天使はその旨を事前にアレクサンドラに報告していなかったため、大層御叱りを頂いたし、それは何も知らず天使の策にはまった王子も同様だった。
斯く言うジュリアも王子がいなくなって肝を冷やしたうちのひとりだったが、ジュリア達王子の近侍に叱責が飛ぶ前に天使の画策だと知れたので、今回はお咎めなしということになった。
その処置に胸をなでおろしたものが大半であったろう。
現にジュリアの息子はあからさまに顔面に血が通うようになっていた。
しかし、ジュリアは逆に臍をかむ思いでその処置を聞いたのだった。
今回の件は天使の画策であったから良かったものの、これが王子に害意のある者の策略であったなら、王子の乳母というよりも護衛であると自負しているジュリアはみすみす奪われた形になるのだ。
城内の下男下女に至るまで全ての人間の為人や家族の素行まで吟味していると過信していた。
女司祭でもあるアレクサンドラのおかげで常駐している神官も多く、城にいる限りにおいて王子と王妃の身の安全は保証されていると思い込んでいた。
今回の件で、魔法的なアプローチや、侵入者の対策にも気を配らなければならないのだと気付かされた。
ちらりと昨夜見た王子の従獣の姿を思い浮かべる。
アレは当てにならない。
王子よりもずっと小さくて頼りない幼子だった。
従獣とは言うが、丸っきり品のよい貴族の子供と変わらぬ姿かたちだ。
いや、姿かたちだけで人ではないものを判断することは危険だと知っている。
天使とて、見た目は病弱な子供にしか見えないが、万の兵士を一瞬で屠ることも可能である。
それとは別に、幾多の死線をくぐり抜けて来た戦士としての感が告げている。
あれは、戦いを知らぬ者の気配だ。
きっと兎一匹その手で仕留めることも叶わないだろう。
あれでは王子を守ることはできない。
神格を持つ木の精霊だというが、精霊は中身の成長に合わせて外見も変化する。
つまり、あの小さな精霊はほんの幼子ほどの精神や能力しか持ち合わせていないということなのだ。
救いがあるとすれば、人でないものが人に向けるような、一種見下したような感情をあれは抱いていないらしいということだろうか。
天使や精霊、人でないもの達は人を尊重しない。
人が蟻に対して抱くほどの感情しか持ち合わせていないというべきか、次元の違う感覚でしか物事を捉えていないのだ。
第三王子の従獣のようすを報告した時、それを思い知った。
いつものように裏口からアレクサンドラの私室に入った時、天使の声が聞こえた。
「使い物にならなかったら処分すればいいじゃない」
「そういう事を言っているのではありません。今回は偶然にも温厚な神霊だったから良かったものの、人を好まないモノの方が多いでしょう。《契約》はまだ早いですから、もっと簡単な術から…」
「だから、なんで?ないと困るんなら、また作ればいいでしょ?それか予備を作れば?」
話の流れがわからず、内心首をかしげながらアレクサンドラの視界に入る場所へ移動すると、彼女の顔色は真っ青だった。
「王妃、大丈夫ですか?」
常に気丈な彼女にふさわしくない顔色に不安になって問いかけると、アレクサンドラはようやくジュリアの存在に気づいたのか、眉根を寄せて手を振った。
「いいえ、大丈夫。気にしないで」
ジュリアは納得いかないまでも、そのまま口をつぐむ。
アレクサンドラは厳しい目で天使を一瞥して短く息を吐いた。
「冗談でも言っていいことと悪いことがあるわ、エノク」
「冗談のつもりはないのだけどね」
天使は肩をすくめて笑う。
「人なんて放っておけば勝手に増えるじゃない。御主人と人の王の子供という事が重要なら、いくつか作ってその中からいいのを選べばいいよ」
「エノク!」
アレクサンドラの悲鳴のような叱責に、天使は肩をすくめて黙った。
ジュリアはぞっとした。
もしかしなくとも、この天使はアレクサンドラの息子で、第三王子のオズワルド閣下の事をまるで犬猫のことのように言っているのか。
なんの断りもなく警備の厳重な城から連れ出すなんて危険なことを一体どういう考えで行ったのかと心の中で批難していたのに、その実が“王子を危険に晒すこと”に全く頓着していなかったなんて。
「“私の息子”なの。エノク」
天使はちっとも理解できていない顔で笑って、それでも頷いた。
「了解。処分するときは“御主人の息子”じゃない方ね。正直、神霊をどうにかするのは気が進まないけど」
「それこそ、どうして?貴方達でも同属には情を持つのかしら」
アレクサンドラの皮肉げな言葉に、天使は笑う。
「まさか。アレは私とは別系統だって言ったでしょう?だからどうなろうと知ったことではないけど、バランスが崩れるからね。色々と面倒なんだ」
「あら。世界でも崩壊するのかしら?」
冗談めかしていうアレクサンドラに、天使は笑いもせずに首をかしげた。
「それが司っていた世界なら普通に滅びるでしょ。そうじゃなくって、色々あるの」
常にない天使の声音に、それが真を帯びて聞こえた。
だが世界などと言われてもピンと来ないジュリアには、アレクサンドラや自分の考えるよりももっと重大なことらしいという事しかわからない。
「…では、おかえり頂く際は伏して請う必要があるということ?」
「聞き分けのいいモノだから、お願いすれば大抵大丈夫でしょ」
アレクサンドラは何事か考えているふうだったが、頭を振ってジュリアを見た。
「あなたから見た様子は?」
促されて、ジュリアは王子の従獣となったモノがベッドに入るまでの様子を語る。
「綺麗だった?あれ、実も成らないし種もできないから自分じゃ増えないのに、愛でられる為にだけ花を咲かせるんだって」
「エノク、報告の途中です」
そんなやりとりを挟みながらだったが、報告自体は極短時間で終わった。
「印象としては、品の良いただの子供のようでした」
最後に自分の感想を述べると、アレクサンドラは訝るように柳眉を上げた。
「ただの子供?神格を持つ精霊が?」
聴かせるつもりはなかったのだろう。その声は独り言のような音量だった。
アレクサンドラは天使に視線を向けて発言を促す。
「その木の精霊を神格に高めた国のヒトの魂を入れたからね」
天使の言葉に思い当たる節があったのか、アレクサンドラは思い出したように声を上げて頷いた。
「ああ、そういえば。あれは何のために?貴方の事ですからアフターフォローでもないでしょうに」
「ひどいな。私はヒトにとっては割といいモノなのに。…木の精霊って対話ができないからね。あんな外見にしてあるけど、自ら歩くこともできないんじゃ使えないでしょ」
だから割と王子の魂に近いのを持ってきた、と悪びれもせずに言ってのけた。
アレクサンドラは難しい顔で眉をしかめて渋い顔をしていた。
きっと自分も似たような顔をしているのだと思う。
王妃がどれだけ王子に心を傾けているかをどれだけ語ったところで理解しないのだ。
昨夜の叱責が、王妃が王子の身を案ずるあまりの心配の裏返しなんだと、わからない。
そういうモノなのだと言われてしまえばそうなのかもしれない。
基本的に人でないものに人の理屈を当てはめること自体が間違いなのだとアレクサンドラは言うが、天使の彼女以外目に入らないと言わんばかりの態度は時に目に余る。
天使が、アレクサンドラが自分以外の何かに心を傾けることを嫌がるから、彼女は愛しい息子をその腕で抱きしめたことすらないのだから。
あの天使がいる限り、アレクサンドラはどうしようもなく一人だ。
深く落ち込んでいきそうになる思考を切り替えるために視線を上げれば、出発地点であった城の裏にいくつもある勝手口の一つが目に入った。
いや、正確にはその勝手口から出てくるひとりの少年だ。
ジュリアに愛しいという想いを教えてくれた大切な息子だ。
「おはようございます。お母様」
緩やかに減速していってスタート地点で足を止めると、ジュリアに気づいたウィルが微笑んで挨拶する。
「おはようございます」
思わず抱きしめてしまいそうになって、拳をきつく握って挨拶を返すに留める。
アレクサンドラ以外に全く執着しなかった頃ならきっと、彼女の孤独に気付けなかっただろう。
天使の感覚の方が近かったはずだ。
だが今は違う。
もしこの手にアレクサンドラとその大事なものを守れる力があったなら、天使から彼女を攫ってしまいたかった。
いや。むしろ、この国から彼女と自分とその大切な家族である四人だけで逃げてしまえたら。
「お母様、今日はどこまで?」
ウィルの精一杯真面目ぶった声に、妄想じみた考えを頭を振って切り替えた。
「とりあえず、この城を三周してくるように」
ただ走るだけでも、剣の稽古と名がついていればそれだけで嬉しい年頃なのだろう。
ジュリアの聞く幼い顔は隠しきれない期待でほころんでいた。
「外壁ですか?」
「内壁でいいでしょう」
張り切りすぎて途中へばらないかが心配だが、剣の修行のための体力作りを始めてもうじきひと月になる。
ペース配分も覚える頃だし、まあ大丈夫だろうと小さくなっていく背中を見送っていたら、急にウィルが足を止めて振り返った。
「あ」
「どうしました?」
ばつが悪そうな顔は眉尻が下がっている。
「殿下が、今日の午後時間が空いていたら部屋に来て欲しいそうです」
昨日の今日なので、きっとあの従獣を紹介してくれるのだろう。
ウィルの表情が若干冴えないなのは、この伝言を先に伝えなかったことで叱責されるとでも思ったか。
息子にバレないように緩む口元を押さえて、頷く。
「わかりました。午後のお茶の時間にお伺いするとお伝えください」
「はい」
ウィルは叱責がなかったことにホッと表情を緩めて頭を下げると、再び走り出した。
貴族の子弟としてはあれほどあからさまに感情を顔に出すのは褒められたことではないが、母親としては微笑ましくて困る。
ロードワークから戻って、下男下女も含めた城に働く者たちの身辺の洗い出しを行った。
彼らの物理的・魔法的な護身術の再確認を行い、不安な点がいくつか発見されたので応急措置として護符の配布を行い、警備強化の為の方針を打ち立てる。
それらの雑務を終えて午後のお茶の時間に間に合うように第三王子の私室へ行って来訪を告げると、王子付きのメイドが心得たふうに一礼して控えの間まで通された。
そのまま王子に来訪を告げに行くメイドを見送って、すぐに入室の許可が下りる。
ちょうど王子たちの話がひと段落でもしたところだったのだろう、そんなスムーズさだ。
一礼して顔を上げると、第三王子と息子、王子付きのメイドを束ねるアマンダと、見慣れぬ少女がいた。
第一王女の幼い頃に作られたが趣味に合わず、結局タンスの肥やしになっていたはずのクリーム色のドレスを着ている。
ピンと伸ばされた背中を超えて滝のように流れ落ちる髪は、生え際が萌え始めた新緑で徐々に色をなくしていき、毛先の方は何とも言えない上品なピンク色だ。
乳白色の陶器でできた人形のように完璧な造作の顔には、うっすらと淡い微笑が浮かんでいる。
ため息が出るくらい美しく、愛くるしい。まるで精巧な動く人形のようだ。
ただ、夜に監視した時の印象とは随分違って見える。
最初に顔を上げてみた時に、見知らぬ顔だと思う程度には別人のような印象を受けた。
美しいということは、それだけで力を持つ。
精霊や神霊、悪魔などといった人の目に映る器を持たないモノたちがこの世に顕現するとき必ずと言って良いほど美しい器を用意するのはそのためだ。
そのモノの性質によってその美しさの方向は違ってくるが、美しさという非常識さは共通する。
現在見られる印象はどこまでも幼く庇護欲をそそるが、夜は幼さの中に淫美な雰囲気も感じられた。
天使も言っていた、“愛でられるためだけに”花を咲かせるという意味はつまり、そういう事なのかもしれない。
「お呼びでしょうか、殿下」
そう問えば、王子は非常に嬉しげに笑って手招きをした。
そのどこか誇らしげである表情にジュリアも嬉しくなる。
六歳の誕生日を迎えてからずっと他の兄弟とご自身を比べて卑下してふさぎ込んでいた。
こんなに晴れやかな笑みは久しく見られていなかったから、なおさらに眩しく映る。
「ああ。君に紹介したいんだ。来てくれ」
手招かれるままに近づいていくと、少女の大きな目が徐々に見開かれていく。
顎を置き去りにして見上げてくるものだから、小さく弧を描いていた口が最終的にはぽかんと開いてしまった。
ジュリアは巨人族の血を引いているから、遠めに見れば女性的な体型をしているのに、並の成人男性などより上背も体格も逞しい。
初対面の者はよくこんな表情を見せるので、思わず笑ってしまった。
「あらまあ、可愛らしい顔が台無しですね」
思わず口に出すと、少女は慌てて俯いて耳まで赤く染め上げてしまった。
その様子にまた笑みがこぼれる。
これではまるで、本当にタダの子供のようではないか。
「ジュリアは僕が知ってるどんな大人より大きくて強いからな」
「あら。それは嬉しい」
王子の言葉に笑う。
普通の女性にとっては褒め言葉として落第だろうが、ジュリアにとってそれは最上の褒め言葉だ。
「ジュリア、この子は僕の従“樹”でサクラ。サクラ、こちらは僕の乳母でウィルの母のジュリア・S・エクエス」
「従“樹”ですか」
“獣”ではない。
一般的に契約するモノは魔獣や魔物、魔族といった戦闘に特化したタイプのものが多い。
それはこの世界で生き抜くために己の身を守る盾として、あるいは矛として重宝するからだ。
アレクサンドラのように戦闘特化型ではないモノを使役する場合もあるが、それは特化していないだけで充分それ自身と主くらいは守れる程度の実力を持っているものだ。
例外として、本人に十分な戦闘能力があり、かつその能力が特異である場合はその限りではないが。
「はじめまして。小さな精霊さん」
礼儀として微笑むと、少女の姿をしたそれは椅子から降りて優雅に一礼してみせた。
なるほど、天使とは違って人でないモノには珍しく人の礼儀をわきまえているらしい。
「はじめまいて。えくえしゅふじん」
「ジュリアで結構ですよ。サクラちゃん」
まだうまく発音できないのか、舌足らずな風が愛らしかったので笑みを深めて言うと、少女は頬を赤らめて恥ずかしげに眉尻を下げた。
「あの。どぉか、サクラと…」
「わかった」
その様子に思わず目を見張って笑ってしまった。
どうやらコレは本格的に人でないモノとして見るのは難しいらしい。
「珍しくアレクが気にかけるから気になって見に来てみたら。可愛いいい子じゃない」
思わず口をついて出た言葉に、王子がいち早く顔を上げた。
「お母様が?」
内心しまったと思う。
アレクサンドラが気にかけていることは間違いないのだが、別の意味で気にしていると思われると困る。
せっかく晴れやかな笑みを浮かべてくれるのに、曇らせたくはなかった。
「ええ。召喚獣が“獣”ではないので身を守るには適さないでしょう?しかも、エノクの言い分じゃあ愛玩用の樹だそうですからね」
「あいがんよう?」
話をそらすことに成功して少し胸をなでおろす。
この際だから、この手のことについて知っておくのも悪くないだろう。
どうせあと五年もしないうちには、問題なくそういった行為が行えるよう教育も始まるのだから。
「愛玩というのは可愛がるという意味ですが、この場合だと一般的に男性がじょ…」
そう思って語り始めたら、スカートを強く引かれた。
生半な衝撃にはビクともしない特別な魔法がかけてあるドレスなのに、結構な衝撃があった。
驚いて見ると、少女の若草色の目とぶつかった。
「かんしょぉよぉ、れす」
ニッコリと、花の綻ぶような笑みを浮かべて少女は言う。
微笑みなのに、有無を言わせない何かがあった。
「ふつー、はなはたねをつくるためにさきましゅが、わたしはひといでたねをつくぇないのでひとにたのしんでいたぁくためにさくようつくられたきれしゅ」
「種ができないなら、どうやって増えるんだ?」
「さしきでふえましゅ。わたしのいたとこでは、はるになったらみんながぴんくいろのかしゅみかくものみたいにないましゅ」
「ああ、あれは綺麗だった。花一つ一つは小さくてバラなどよりよほど見ごたえがないのにな」
「…そうなのですか?一度見てみたいですね」
王子のどこかうっとりと夢見るような声音に、ようやくそれだけ返す。
「サクラが《神域》を発動できるくらいになったら、見せてあげるね」
「おやまあ、それは楽しみにしていますよ」
嬉しそうに宝物を見せる時の子供の声で言う王子に笑い返しながら、ジュリアは内心首をかしげた。
どうして言葉に詰まったのか、自分自身でも理解できなかった。
気圧されたわけではない。
恐るほどの圧力など微塵も感じなかった。
少女は人ではないが、天使ほどの力を感じない。
ジュリアがやろうと思えば、素手でもその細い首の根をへし折ることだって容易にできるように見える。
歴戦のカンから、ジュリアは手に取るようにそれができると確信できた。
だが、確かにジュリアは言葉を紡ぐことはできなかった。
ジュリアの言動の何かが少女の姿をしたソレの気に障ったのだろうということはわかるが、何がジュリアの口を塞いだのか理解ができなくて怖しかった。
背筋に薄ら寒いものを感じて、ジュリアは思い知った。
どんなに普通の少女に見えても、やはりコレは別の生き物なのだ。
長くなってしまったので二つに分けます。
続きはまた今度。