9・孤立
「きゃ、あっ……!?」
突如として背中にかかった圧力で、私の身体がよろめいた。抱えていた書物がばらばらと床に落ち、遅れて私も倒れこむ。右肩を激しく床に打ち付け、骨の髄まで痛みが響いてくる。
ぱたぱたと廊下を駆け去っていく足音がする。なんとか身体を起こして背後を振り返ったとき、そこには誰の姿もなかった。
溜息をついて肩をさすりつつ、右手で散らばった本を掻き集めていく。
夏の長期休暇も終了し、通常通り授業が始まったこの頃。
部屋に差し込まれた罵倒文を皮切りにして始まった、私への嫌がらせの数々。転ばされたのだって、もう何度目だろう。
最初は可愛いものだった。ペンがなくなっているとか、紙がやぶられているとか、そんな程度だ。そのくらいなら多少のストレスと思っていたが、最近はこうして直接危害を加えにやってくる。階段を突き落されそうになったり、重いものが頭上から落ちてきたり。
一歩間違えれば死なのだけれど、なんとか私はそれを免れていた。というのも、アイリスが一緒にいてくれたからだ。
「シャノン! どうしたの、大丈夫!?」
今もこうして、アイリスは私のところへ駆けつけて来てくれた。寮の廊下で、酷い音がしたから気付いたんだろう。
アイリスの背後に、あのシャーニッドさんがいるのは誰もが知っていることだ。さすがにシャーニッドさんを敵に回すのはみんな怖いらしく、アイリスと一緒にいるときは比較的嫌がらせの規模も小さいものだった。されないという訳ではなかったが、何かアイリスには第六感めいたものがあるようで、彼女のおかげで危機を免れたこともしばしばある。天然だからアイリス自身は気付いていないけれど、彼女が転んで私を押し倒した結果、飛んできた石に当たらずに済んだということも。
「大丈夫よ、ちょっとふらついただけ」
「もうっ、その言い訳何度目? ふらつきすぎだよ! もしかして、どこか具合悪い?」
「どこも悪くないから。ごめんね」
本を持って立ち上がると、アイリスも心配そうに私を見上げて立つ。
誰かの悪意には慣れていたつもりだった。貴族の令嬢として型破りな私に周囲から向けられる白い眼。囁かれる噂話。慣れていたからこそ、スルーすることもできていた。
けれど、こうやって直接的に接触してこられたのは初めてだ。黙ってやられていればそのうち沈静化するかとも思っていたけれど、その前に私の気が参ってしまいそう。
急に何があったんだろう。やっぱり、ギルバートがらみのことなのか。
何にせよ、ギルバートに迷惑はかけられない。シャーニッドさんもアイリスも巻き込まないように、私はみんなと距離を取らないと。
★☆
講堂への移動も常にアイリスと一緒だった私は、それから何やかんやと理由をつけてひとりで行くことにした。寮から講堂への道すがらで行われる地味な嫌がらせには、まったく朝からよくやるわと感心すらする。
そうだ。私は元々単独行動を好む性格。アイリスがいつだって私の傍に来てくれていたから、自分でもすっかり忘れていたけれど。
こんなこと、へっちゃらだ。日常茶飯事だ。私は何もしていない、だから堂々としていればいい。
ああ。
本当に、女って面倒臭い。
「おい」
急に声をかけられたと思ったら、ぐいっと右腕を掴まれた。慌てて振り返ると、そこに見慣れた顔がある。ギルバートだ。
「ぎ、ギルバート……」
「最近、どうしたんだ?」
「何が?」
「アイリスから聞いた。様子がおかしいと」
アイリスったら、直接ギルバートに言いに行ったんだ。それで様子を見に来てくれたのかな。だってここは侍女育成科の講堂が並ぶ区域。騎士科のギルバートが立ち寄るような場所ではない。
だからこそ、目立つ。
「なんでもないよ」
「なんでもなくはないだろう」
「本当に平気よ。だから放して」
「何かされているなら、聞かせてくれないか」
「お願いだから、放して!」
想像以上に大きな声が出て、ギルバートも虚を突かれたらしい。はっと我に返ってギルバートを見上げる。彼の翡翠色の瞳に怒りの色はないけれど――どこか物悲しそうで。
「……ごめんなさい。でも、本当に何もないから。もう行くね」
身を翻して速足で歩きだすと、背中にギルバートの声がかけられた。
「あっ、おい! その痣……!」
痣?
言われてみて、ちらりと左腕に視線を落とす。肘のあたりに小さいけれど痣がひとつ。
いつの怪我だろう。もう、覚えていない。
心配してくれたのは嬉しい。今すぐにでも彼に全部を打ち明けてしまいたいくらい。けれど意固地な私がそれを自制する。なんでもかんでも彼に頼ってはいけない、と。
逃げ込むように入った講堂の中には誰もいない。次の講義まで時間があるから、当然のことだ。端っこの席に座って、溜息をついた。
すると、間を置かずして講堂の扉が開いた。振り返らずにいると、扉が閉まる音が聞こえる。そのまま、小さな足音がこちらへ向かってくる。
「貴方はとっても目障り」
聞こえてきた声は、鈴の音を転がすように軽やかで優美。
「私の世界から貴方が消え去ってくれさえすれば、それでいい」
それはなんて傲慢な願いだろう。
「くれぐれも、誰かに助力を求めようなどと思わないことです」
それだけ言って、また扉が開閉する音。ようやく振り返ってみれば、そこにはもう誰もいない。
ヒューネベルグ公爵令嬢。そんな肩書は、この学園という名の箱庭の中では通用しない。ここにいる限り私は「シャノン」というひとりの人間でしかなく、誰とでも対等だ。
それを望んだのは私だけれども、それが裏目に出ることもある。こうして、親の目が届かないのを良いことに好き勝手ができる。
……本当に、面倒臭い。




