1・行事
あの切り裂き魔事件から、2週間が経過した。学園内はすっかりいつも通り、シルド教授の突然辞職の件も忘れ去られ、私の生活も日常に戻っていた。そもそも、切り裂き魔事件は大部分の生徒の知らぬところで起きて片付いたので、戻ったも何もなかったのである。
そしてこの時、ある意味私にとっては切り裂き魔よりも恐ろしいものが迫ってきていたのだった。
「シャノンー、そうじゃないよ。お茶を出すとき向きはこう」
「うっ……も、もう一回!」
侍女の試験だ。
侍女とは高貴な女性に個人的に仕える女のことだ。私たちはそれを目指して日々勉強をしている。勿論、高貴な方に仕えるという立場から知識の豊富さは求められるけれども、それ以上に判断力が必要だった。主な仕事としては、女主人の化粧をしたり髪を整えたり、服や靴を選んだり、装飾品の管理をしたりと、身の回りのすべてを行う。よって技術やセンスが問われるのだ。
そして私は、そういう実技試験が大の苦手であった。
「んもう! お茶なんて飲めれば充分でしょ、どうして注ぎ方からテーブルへの置き方まで拘るのよ!」
「んー、礼儀かなあ? ガタンって置いたら失礼でしょ?」
練習に付き合ってもらっているアイリスが、見事なまでに模範解答を寄越してくれる。
筆記試験なら、私はアイリスに負けない自信があった。いや、実際負けていない。この国の歴史、地誌、異国の言語。どれをとっても私はアイリスを上回ることができるのだ。しかし侍女とは技術と経験が優先される社会。流れるように自然なアイリスの所作に、誰も敵わない。それが彼女を侍女育成科主席たらしめる要因なのだ。
今回が筆記試験なら、こんなに私だって悩まなかった。今ここまで必死なのは、迫ってくる試験が実技試験だからだ。
審査内容は『給仕』。試験官の女性を主人に見立て、食事を出す。そして片付けるまでの一連の動作を、厳しく審査されるのだ。
「……でも、シャノンはガタンって置いちゃう人だよねぇ」
アイリスが無邪気に微笑む。仰る通り、私は貴族の令嬢にはあるまじきガサツな女だ。自覚はしている。先程口から出た本音の通り、食事なんて食べれればいい、お茶なんて飲めればいい。いちいちナイフとフォークの位置はここで、この料理の皿はどこに置いて、カップのどこまでお茶は注いで、取っ手の向きはどうで、など気にすることができない。
テーブルマナーに従って『食事をする』方だったら、私もきちんとできる。これでも実家では厳しく教え込まれてきたのだ。だが給仕をする側に立ってみると、生来の大雑把さが響いてなかなかうまくできない。
数えるのも面倒になったくらいの回数練習を繰り返してきて、やはりアイリスに待ったをかけられた。溜息をついて椅子に座ると、アイリスも苦笑して椅子に座った。そして私が何度も淹れては失敗を繰り返している紅茶のカップをふたつ、テーブル上に持ってくる。ちょっとした小休止だ。
紅茶のカップを包み込むようにして持ち上げ、室内を見渡す。今私たちがいるのは侍女育成科が使う講堂のひとつで、現在は次の試験のために開放されている。そのため私のように四苦八苦している同級生たちが、所狭しと並んだテーブルを使って練習をしていた。
「でも考えてみると変だよねぇ」
「何が?」
首を傾げると、アイリスは皿に盛ったクッキーをつまみながら言う。
「だってシャノンはヒューネベルグ公爵家のご令嬢。ヒューネベルグ公爵はこの国でも指折りの大貴族だよ? 本来はシャノンに侍女がつくはずなのに、シャノンが侍女になるための勉強してるなんてなあ、って思ったの」
「それ今更言う……?」
1年以上一緒にいて、その疑問が出るのがなぜ今なのだろう。つくづく、不思議な子だ。
「ここに入学したのは基礎教養を身につけるため……という建前よ。グラン・ロマーナ学園に入学することが貴族の証みたいなものだから、私もその慣習に倣わされただけだし」
その点ではルテラも同じはずだ。入学すること自体に意味があったのであって、優秀であればそれだけ家名に誇れることであるけれども、ぶっちゃけは成績などあまり関係はない。
「じゃ、なんで試験受けることにしたの?」
アイリスはますます不思議そうだ。
今度の実技試験、実は国全体の学生を対象とした大会であった。グラン・ロマーナ学園の他にもこういった育成機関は地方にあり、そこの生徒たちも受験ができる。騎士科や魔導師科は学園対抗戦、侍女育成科は実技試験、などなどいろいろと部門に分かれているのだが、どれも強制的なものではなかった。希望者のみが受験するもので、実際に様々な理由で今回の試験を見送る人もいる。まあここで合格しておけば将来有利になるので、受験しない者はまずいない。騎士科や魔導師科はそのまま王宮に上がって騎士や魔導師になるため、侍女育成科は侍女になるための重要な足掛かりになる。
「やるからには、全力でやりたいんだもの」
安定した将来が約束されているからって、それに甘えて怠惰に過ごしたくない。そう思っていたから、私は自分を追い込みたいのだ。
そっか、とアイリスが微笑む。その優しい笑顔に多少のくすぐったさを感じて、私は顔を反らす。
そういえば――。
(ギルバートは、学園対抗戦に出るのかな。確か、学園内の代表枠を取るのにも相当の倍率があるって言っていたけど……)
強制ではない、逆に言えば参加が自由な大会であるが、侍女育成科と違って騎士科はたったひとつの「優勝」という栄冠を獲りに行く。当然みなが狙っているはずで、一応は学園内で代表を絞ってから参加することになる。校内勝ち抜き戦で、枠はそれなりの数があるはずだが、人数が人数だ。相当な競争率になるだろう。
ギルバートなら、校内勝ち抜き戦を間違いなく通過できる。本戦である学園対抗戦、でも上位に立つだろう。シャーニッドさんは以前そう言っていたし、噂でもそう聞いている。実際にあの剣技を目の前で見た私も、それは事実だと思う。
「問題は、自分から参加を申し出るか、よねぇ……」
溜息みたいに呟きが零れた。のんびりと紅茶を啜っていると、隣のテーブルから急に鮮明に声が聞こえてきた。
「……ねえ、今度の学園対抗戦、騎士科は誰が出ると思う?」
「そりゃギルバートさんでしょう! 代表枠は手に入れたも同然みたいよ」
……ああ、なんだ。やっぱり出場するのね。