いのちを運ぶもの
身を震わせる咆哮。
眼前には、古来より近寄ることすら禁忌とされる恐怖の象徴。
翼竜。
覚悟はしていた。できうる限りの備えを持ち。許される限り万全の態勢で臨んだ狩りのはずであった。
しかし、今。
男が率いた兵たちは満身創痍で、武器を杖にして立っているのがやっとのありさまだ。
男の術式により、彼らの武器は凄まじい鋭さを帯びている。事実、その剣は爪を断ち、その矢は鱗を抉り、その斧は角を折っていた。
誤算があったとすれば、それは竜種の生命力。
純血の古代竜ならば血を飲めば不死になるとすら言われるその、尽きぬ活力を見誤ったこと。
厳格な自分の方針に愚痴を言いながらついてきていた兵たちを思い、男は己を殴り飛ばしたい衝動に駆られた。
厭われるのはいい。好かれるような上役にはもとよりなる気などなかった。
けれど、自分の無謀な命令で彼らが犠牲となるのは、許せなかった。
男は何より、犠牲をこそ減らすためにこのような危険を冒しているのだから。
「……っ」
どこで失敗してしまったのか。どこで間違ってしまったのか。
付与の魔法にしか才のない身で戦場に身を晒したところか。
脆弱な人の身で、竜を狩りたてようという傲慢を思いついたところか。
否。断じて否と、男は首を振るう。
それを誤りとしては、自分を待つ百の兵、千近くの民に背を向けることとなる。
魔を紡ぐ。幻想するは不壊の鎖。脳裏の原理を現理とし、魔で幻想を現創する。
竜の翼を絡め取るように、おぼろな光を放つ縛鎖が生まれ、その動きを拘束した。
意識が薄れていく。魂を削るような消耗をして、稼げるのはしばしの時間。
「退け! 〈紫炎の水晶〉だけでも……っ」
脱力感に言葉が途切れる。
兵たちは逃げ切れるだろう。
そして、ろくでもない上役のろくでもない我儘に付き合わされたと酒場で愚痴をこぼすだろう。
それでいい。そうであってくれと、男は祈った。
ごろつきあがりも同然の兵たちの気風を、生真面目な男には理解できなかった。
しかし、楽しそうに酒を飲む彼らの表情は、彼が求める平和の象徴に見えた。
ならばせめて自分の目的が失敗しても、そんな彼らの平穏がどうか明日も続くようにと、眩む意識の中、身勝手にも男は願った。
◇ ◇ ◇
刹那の間に、さまざまな記憶が巡る。
男の記憶は大半が、白と赤に彩られていた。
白は、一年中大地を染め抜く雪の色。
赤は、その過酷な地で流れる血の色
民に支持された若き改革者とその配下に、老人たちが与えたのは雪と氷と怪物で埋め尽くされた広大な土地だった。
その場所では、開拓とは即ち征服であった。生きるとは即ち戦いであった。
無数の命が散った。原住の巨人に蹂躙され。寒さに凍え。そして何より、飢えに殺された。
雪の世界では、物を運ぶにも南方の数倍の労力を要する。
食糧が。衣料が。薬草が。物が流通しきらぬことが、極寒の地での戦いをさらに絶望的なものとしていた。
そんな中、男が半生をかけて研究したもの。
それは、鞄であった。
いや、鞄、というには語弊がある。それは、もはや鞄の形をとった精密な魔術陣だ。
かつて遺失した文明において存在されるとされる、小型の簡易転送装置。
鞄にいれたモノを「別の空間」に転送することで、外観からは想像できないほど大量の物品を無荷重で収納することができる、魔術の精華。
これが再現できれば、兵站が変わる。
たとえ数個ができあがっただけでも、この白の世界における勢力図が一変する。
文献の解析には、五年の時間を要した。
構造の再現には、十年の時間を要した。
だが、構造を再現しても、この「鞄」は機能しなかった。
機能の維持に、莫大な魔力が必要なのだ。
遺失文明の住民は現代の人間とは比べ物にならぬほどの魔力を内包していたらしく、なんなくその機能を維持しつづけていたのである。
しかし、この国随一の魔術師と言われる男をして、この鞄を維持できるのは、ただ半日程度。
それから三年。
男は、事態を打開するための一つの手段を見出した。
「鞄」が繋がる「別の空間」は、濃密な魔に満ちている。そこから力を抽出し、転送機能の維持のために使用するための魔力回路結晶を組み込むことで、機能を永続させる。それが、男の考えた打開策であった。
無数の材料の中でも核となるのは、魔を蓄える性質を持つ〈紫炎の水晶〉と、表からは魔を通すが、裏からは魔を通さないという特性を持つ〈翼竜の皮〉。
いずれも、手に入れるには無謀とも言えるほどの危険を冒さねばならぬ品だった。
故に、男は自らが先頭に立ち、これらの材料を集めてきた。
しかし、ここで彼の旅は終わりを告げる。
最後の品。〈翼竜の皮〉を前にして。
◇ ◇ ◇
冷気に意識が輪郭を取り戻す。
男は自らの手を見つめた。まだ、手は動く。皮膚は凍てた大気を感じている。
……生きている。
一度意識を手離し、魔の鎖の束縛から竜は逃れたはずだ。
であれば、なぜ自分は生きているというのか。
答えは、朗々とした男の声によってもたらされた。
「十の同胞を救うために、命を賭けるか。その心意気やよし」
男は顔を上げる。視界の先には、竜ではなく、白銀の騎士の後ろ姿があった。
白銀の騎士は無造作に剣を掲げ、あろうことか数倍は巨大な竜の爪を受け止めていた。
付与の術式を極めた男には一目で理解できた。あの鎧は、剣は、魔の精髄が凝らされた幻想の産物とでも言うべきモノだ。
「その意に応じ、無粋は承知でこの〈魔を断つ刃〉、一手助太刀仕った」
〈魔を断つ刃〉。
それは、誰もが知るお伽噺に登場する、無敵の騎士の名前。
世界の危機に颯爽と現れ、根源を両断して去っていく最強の剣。
眼前の挙動を見ただけでわかる。〈魔を断つ刃〉は、もはや人の枠を超えた存在だ。
飛竜の一撃をなんなく止めるなど、練達の騎士にも最高峰の武芸者にもできることではない。
噂には聞いたことがある。世界にはこういった、人を越えた古来から続く特殊な血脈が存在すると。
この騎士ならば、竜を屠ることもできるかもしれない。
このまま意識を手放しても、目を覚ましたときには〈翼竜の皮〉が手に入るかもしれない。
だが。
「助太刀感謝する。伝承の騎士よ。……だが、一つ誤解がある」
「ほう」
男は、一歩前へ出る。
たとえ相手が世界を救う伝説の最強であっても、物怖じする気はなかった。
そして相手が最強の象徴である騎士であっても、全てを任せる気はなかった。
力は足りずとも。生命としての格が劣っても。
「先の一手は十の同胞を逃がすためのものだった。しかし、私の目的は、千の同胞を救う――いのちを運ぶものを創ることだ」
この身は、自分の愛する世界をこの手で救う覚悟を決めたのだから。
「なるほど。過小な評価であったか。非礼を詫びよう、誇り高き魔術師よ」
「いや、詫びるのはこちらの方だ。〈魔を断つ刃〉は俗世に関わらぬ世界の守護者と聞く。にも拘わらず、今から私は貴君に厚かましくも二人で竜殺しをする提案をするのだからな」
男は呼吸を整え、行使できる魔術式を脳裏に展開する。
騎士は鷹揚に頷くと、竜の爪を弾き返した。
瞬間。
そこに、無数の矢が降り注ぐ。
「……おいおい、一つ誤解があるんじゃねェか、ダザネッグの旦那ァ」
鬨の声を上げて竜へと殺到する兵士達。
「二人じゃねェ。竜殺しなんてカッコイイ話、旦那らだけに任せられますかよォ?」
「……おまえたち、退けと言ったはずだ!」
「舐めてもらっちゃ嫌ですねェ。エッゾの機甲兵ってのは、最初から後退の歯車を取っ払ってンですよ?」
「隊長、ンなこと言って、引き際が大事とかよく言いますよね」
「いいンだよアレは後ろに向かって前進してンの! ってかカッコイイところでまぜっかえすな!」
「ふふ、とにかくそういうことです。私たちとて、家族のために戦いたいという気構えくらいありますわ」
「おら、テメェら! 魔力の充填は完了したな! 騎士サマを中心に錐の陣! クソッタレなこの島のクソッタレな家族だか恋人だかのためにぶっ潰せ!」
「なるほど。類は類を引き寄せるという訳か。面白い!」
竜の注意を惹きつけるように白のマントを翻し、〈魔を断つ刃〉が笑った。
男……ダザネッグも笑う。
この凍てる大地は、人の心を削っていく。
だが同時に、その冷たい風は、極寒の中でもなお生きようという人の魂を、熱く滾らせもしているのだ。
「クソッタレなこの島のために!」
普段ならば決して使わないような品のない言葉を叫びながら、ダザネッグは兵たちを強化する魔を紡ぎ続けた。
◇ ◇ ◇
高い兵站能力により長い戦いの末巨人を征服し、人の領土を北の島に打ちたてたエッゾ帝国。
そのはずれには、〈大地人〉の〈付与術師〉による工房を核とした里が存在する。
里に住まう職人たちは、秘伝の術式により、特殊な鞄を制作することで知られている。
無数の道具をまるで空っぽであるかのように軽々と持ち運ぶことのできる、魔法の鞄。
その名は、〈ダザネッグの魔法の鞄〉という。