第五話:空の上で
今、ソルの眼前には陽の光がわずかに差し込む深い森の中、苔むす大樹の根に寄りかかるようにして物言わぬ躯となった年若い巫女に、すがりつきながらむせび泣いているルシールの姿がある。ヴィオレーヌによるとその巫女はルシールの幼馴染で、兄弟や姉妹がいないルシールにとって、妹のような存在だったらしい。
「何故ルシールは泣いている?」
「ソル様、人は親しい者が亡くなると悲しむものなのですよ」
「悲しいと人は泣くのか」
滑稽なようだが、神界で不自由なく暮らしていたソルは、まだ悲しみや喪失感といった負の感情を持ったことが無い。だから、むせび泣くルシールにどう接すればいいか分からない。
「ヴィオレーヌ、俺はどうしたらいい? ルシールに何と言えばいい?」
「今はそっとしておいてあげてください」
「俺は何もできないのか、はがゆいものだな」
このときソルは、初めて自身の無力さを実感していた。同時に、悲しみに暮れるルシールを何とかしてあげたい、ルシールを悲しませた者が憎い。という感情が芽生え始めていた。
そんな時だった。
「ソル様、お気を付け下さい。瘴気が!」
今までほとんど感じることができなかった瘴気の高まりを、ソルは感じ取った。その感覚は急激に強大になり、神官や巫女たちが苦しみ始める。高位の巫女であるヴィオレーヌでさえ、立っているのがやっとのようである。道案内をしていた神官や、ヴィオレーヌに付き従っていた巫女は、既に倒れ伏し、泡を吹いて気を失っていた。
「クッ、瘴気の濃度が……」
ソルは即座に瘴気の性質を分析し、神気に親和性が無いことを突き止める。特濃の瘴気が漂ってくる方向を注視しながら、ソルは問いかけた。
「ヴィオレーヌ、神気で結界を張れるか?」
声を出すことも叶わないのだろうか、ヴィオレーヌは苦しい表情であるが、無言で跪き、手を胸の前で組んで祈りの姿勢を取る。ヴィオレーヌの周囲数mに不可視の結界を知覚したソルは、未だ泣いているルシールが結界の中にいることを確認すると、瘴気漂う森の中を数歩前に歩き、結界の外に出た。
大樹が生い茂り、木漏れ日がわずかに届く原生の森に漂う瘴気は、ますますその濃度を増していく。やがてソルの前方、樹齢千年を超えようかという苔むした大樹の陰から、どす黒い紫色の瘴気をまとった化け物が姿を現した。まとっている瘴気が濃すぎるのか、本体は視認できないが、四足の獣のような姿である。その大きさは体長五mを超え、体高ですら三mはある。
「そんなッ! 瘴気が見えるなんて」
「どうしたヴィオレーヌ」
「あり得ません。瘴気が人の目で見えるほど濃縮されるなど。ソル様、結界が持ちそうにありません。このままでは」
もう少し瘴気に触れて、分析を続けたかったのであるが、ヴィオレーヌが限界に近づいていると判断したソルは、瘴気ふりまく紫色の化け物の方へ無造作に歩を進めると右手をかざす。その右手の平からは、金色に光り輝く盾のようなものが現れた。化け物は立ち上がると、ソルに覆いかぶさるように襲いかかる。しかし、その攻撃は光の盾に阻まれ、ソルに至っては微動だにしていない。
「なかなかの圧力ではないか。だが」
化け物の攻撃を受け止めるようにして防いでいる光の盾が、徐々にその大きさを増していく。化け物はソルを光の盾ごと押しつぶそうとしているが、やがて、広がった光の盾に包み込こまれてしまう。
「消え去れ」
ソルの言葉と同時に、化け物を包み込んだ光球が激しくその輝きを増すと、数瞬の後には何事もなかったかのように、木漏れ日と静寂が戻っていた。漂っていた瘴気はことごとく消え失せ、その痕跡さえ感じ取ることはできない。
化け物を消し去ったソルはルシールの元へと歩み寄った。ヴィオレーヌは結界を解き、倒れ伏す神官や巫女の治療にあたっている。
「ルシール、その娘はお前と縁深き者か」
ルシールは泣き腫らした顔でソルを見上げる。
「はい、彼女はセリーヌといいます。幼少のころより姉妹のように接してまいりました」
ソルは片膝をつきセリーヌの額に手をかざすと、目を瞑って神気を通わせる。
「魂の残照がまだ少し感じ取れる。生き返らせることは出来んが、今なら彼女の魂の元へお前の意識を飛ばすことができよう。セリーヌと会いたいか?」
虚ろに見上げていたルシールの表情に輝きが戻る。
「会いたいです」
ソルはその答えを聞くとセリーヌの額から手を放した。そのままルシールの手を取って立ち上がると、彼女の肩と足に手を回して抱き上げた。
「セリーヌのことを強く思い浮かべろ」
ルシールが瞳を閉じる。すると、彼女は全身から力が抜けるように意識を失った。
「ソル様、ルシール様はどうしたのですか?」
ソルの腕に抱かれて気を失っているルシールに気付いたヴィオレーヌが、心配そうに問いかけてきた。
「彼女は今、セリーヌの元へと意識を飛ばしている。お前も疲れただろう、しばらくここで休憩しよう」
結界に治療にと神力を使いすぎたのだろう、疲労困憊していることが見て取れるヴィオレーヌに、ソルは休憩の提案をしたのだった。
「助かります。少し息を整えませんと、このままでは神殿に帰ることもままなりませんし、どのみち彼らを放ってはおけませんから」
ソルがヴィオレーヌに休憩の提案をしていたころ、ルシールの意識はソルと共に森の上空へと抜け、天高く上っていた。眼下に深緑の大陸と広大な蒼い海、まばらにかかる白い雲を見下ろしながら、ルシールの意識はさらに天空へと上昇していく。
「この辺りだな」
ソルの言葉と共に景色が一変した。大陸が霞み、空が黒く星が瞬く宇宙空間から、雲一つない青空に見渡す限りの草原が広がり、ひざ下程度の草が風になびいている。
「ソル様、ここは?」
「死んだ者の魂が帰る場所。人の魂はここで永い時を過ごし、清められ、無垢になってまた地上へと生れ落ちる」
ルシールは広大な草原をしばらく見渡していた。
「ソル様、ここにいればセリーヌと会えるのでしょうか」
「そうか、お前にはまだ見えんか。もう目の前にいるぞ。セリーヌのことを思い、意識を集中してよく見るんだ」
ソルの眼にはすでに、ルシールの前へ来てしきりに『ルシールお姉ちゃん』と彼女の名を呼ぶ、一七歳くらいの青い髪をおかっぱに切りそろえた、活発そうな少女の姿が見えている。
ルシールはしばらく、じっと前方を見据えていたかと思うと、感極まったように涙をあふれさせた。
「セリーヌ、セリーヌだよね」
『やった、ルシールお姉ちゃん。私が見えるようになったんだね』
互いを確認した二人は抱き合い、わんわんと声を出してしばらく泣いていた。ソルは腕を組み、黙って二人を見ている。しかし、その表情は少し不思議そうなものであった。
「お前たちは再会できて嬉しいはずなのに、なぜ泣くのだ?」
感動の再会シーンを前にして、それを演出したソル自身が投げかけた質問は、この場にそぐうものではなかった。それでも、ソルが人の常識をほとんど持ち合わせていないことを、ある程度は知っているルシールが、彼を責めるようなことはない。だがしかし、セリーヌはそんなソルのことなど知るはずがなかった。
『あなた誰ですか? 今私たちは再会できて感動してるところなんですよ。変なこと言って邪魔しないでください』
「セリーヌまって、ソル様を責めないで。ソル様は私たちを再会させてくれた方なの。そ、それに私はソル様の……」
ルシールが最後に何を言おうとしたのか分からないが、セリーヌはソルを庇ったルシールを見て驚愕の表情を浮かべていた。
『ちょ、ちょっとまってお姉ちゃん今、ソル様って、いつもは殿付けなのに…… し、しかも顔を赤くして俯いて』
セリーヌは、顔を赤らめて俯くルシールと、何だ何だと不思議そうな顔をしているソルを交互に何度も見て、喜色を浮かべる。
『お、お姉ちゃん。ついにいい人見つけたんだね。へぇーこの人がお姉ちゃんを』
「セリーヌからかわないで。確かに私はソル様の物、でもね、ソル様は人ではないの。イースティリアの神々よりも尊い方なの。だから、人の感情が良く分からない」
ルシールはそう言うと愛おしそうにソルを見上げる。
「ソル様、人が泣くのは悲しい時ばかりではありません。嬉しい時にも人は泣くことがあるのです」
「そういうことだったのか、では、お前たちは共に再会できて嬉しかったのだな」
ルシールの説明でソルの素性をあらかた理解したのだろう、セリーヌは驚いていたが、嬉しそうに、愛おしそうにソルに接するルシールを見て、ソルに語りかけた。
『ソル様、お姉ちゃんをよろしくお願いします。こんなに幸せそうなお姉ちゃんが見れて本当に良かった』
セリーヌはソルに感謝の言葉を送った。しかし、何かに気付いたようで疑問顔になる。
『私があの紫色の化け物に殺されて、ここに来ていることは理解しているの。でもお姉ちゃんがここにいるっていうことはもしかしてお姉ちゃんも』
「いいえ、心配しないで、あの化け物はソル様が処分なさったわ。そのあと、私はソル様に意識だけを連れてきてもらったの。だから死んではいない」
セリーヌは本当に嬉しかったのだろう、ルシールに抱きついて再び涙を浮かべた。
『よかった。本当によかった』
ソルはそんな二人をしばらく嬉しそうに見ていた。
ルシールが悲しんでいることが嫌だった。自分の無力さを痛感した。それでも、何とかしたいと考えた。そして今、ルシールから悲しみが消え去っている。ソルには自分のしたことで、ルシールやセリーヌが喜んでくれたことが嬉しかったのである。
「そろそろ時間だ。セリーヌよ、お前はフリスティナの加護を受けているな」
『はい、その通りでございます。ソル様』
「では、神界に行くことができるはずだ。ルシールが俺と共に帰るまで神界で待っていろ。そのときまで暫しの別れだ」
『私、神界に行ってお姉ちゃんを待ってる。ソル様、お姉ちゃんをよろしくお願いします。あッ、それから、お姉ちゃんは好きな人にこき使われる喜びますから、存分に可愛がってあげてくださいね」
セリーヌの別れと意味深な言葉を聞いたソルとルシールは、彼女の前から消えたのだった。
そのときルシールは、セリーヌの言葉を聞いて頷いていたソルを見上げて、期待に満ちた実に危ない顔をしていた。