第二十五話:逃亡
急接近による衝撃波にも似た風圧で木々をなぎ倒し舞い降りた巨竜は、濃い紫色に可視化された炎にも見える瘴気を纏い、その炎からは瘴気が結晶化したキラキラと光る紫色の小片が、パラパラと舞い落ちている。瘴気炎の合間から時おり見える体表は、艶やかな虹色の大きな鱗に覆われ、その体躯は小山のように巨大であった。
巨竜から放出された瘴気で吐血しながら昏倒したエルネスティーヌから、見下ろしている巨竜へとソルは視線を移した。
「かつてない強大な神気を感じて来てみれば、見たことのない男がいる。お前は何者だ」
「魔物風情が知能を持つか、しかも俺を見て恐れを感じぬとは大した胆力だな。それとも、たかが魔物では俺の力は見抜けないか」
「名乗らぬか、我は歪なる力の管理者なり。この森は我の支配地、ただちに立ち去れ、さもなくば滅してくれよう」
「連れを虐げられてただ立ち去れなどふざけたことを言う。今俺は気分がよくない。代償はきっちり払ってもらうぞ」
ソルは、このイースティリアの大地そのものを優に消滅させることができるほどの神気を込めた光球を眼前に出現させた。それは人一人ほどの大きさであったが、辺りを白一色の世界へと変えるほどに眩しく、森全体を何も見通すことができない白い闇へと変えた。
不敵な笑みを浮かべていた巨竜はその光球が出現すると、慌てたように上空へと急上昇する。強烈な白い光が支配する世界の中で、ソルは巨竜の動きを完璧に把握していた。上空へと逃げた巨竜の後を追い、自らも冗句へと舞い上がる。そして上昇を続けている巨竜めがけて光球を放ったのだった。
ソルの手を離れた光球は、瞬く間に距離を詰め、そして、巨竜の半身を消滅させ、遥か天空へと消えていった。
「しぶとい奴だ。咄嗟に身を翻し、消されるのを免れたか」
半身を消滅させられた巨竜はソルの上空で停止すると、逃げることをあきらめたのかソルに向きなおり、そして、消えた半身を復活させる。
「なんだこの力は、我の創造主ルキアノスよりも遥かに強大。ルキアノスの力をとうに上回り、神々を打倒してイースティリア世界を支配する時も近いと考えていたが、まだ上がいたか」
「お前程度の力でこの世界の覇権を手に入れるとは片腹痛いが、ルキよりも戦闘能力は高いようだな。が、ここまでだ、消え去るがいい」
ソルは前よりも一回りほど大きな、そして威力のある光球を作り出すと、頭上の巨竜へと迷うことなく間髪入れずに打ち放った。
「まだ消えるわけにはいかん!」
しかし、巨竜は光球が到達する前に空を割り、次元の隙間へと身を隠してしまった。眩いまでに光り輝く光球は宇宙の彼方へと飛び去り、辺りは次第に景色を取り戻していく。
「逃げられたか」
上空に巨竜によって開かれた後、閉じていく次元の亀裂を見上げていたソルであったが、巨竜が異次元へと逃げてしまった事を確認したソルは、まともに瘴気を浴びて昏倒したエルネスティーヌのことを思いだし、今は異次元に消えた巨竜を探索するより、彼女を治療することが先決だと考えた。そして、すぐさまエルネスティーヌのもとへ戻ると、彼女の状態を診察し始める。
仰向けに倒れ、白目を剥いて目を見開いたまま昏倒しているエルネスティーヌの呼吸は既に止まっていた。しかし、心臓の鼓動は弱々しくも確認できる。エルネスティーヌが、まだ死には至っていないと判断したソルは、診察のために送り込んでいた神気の量を増やしてゆく。やがて、エルネスティーヌの体が光を放ち、白く輝き始めた。彼女の体内に入り込んだ瘴気を中和し、瘴気によって損傷を受けた肺と食道を修復してゆく。幸い、魂はまだ表層部しか浸食を受けておらず、交感を行い、加護を授けることによって魂を強化したことで、容易に修復に至った。
「もう大丈夫だ」
呼吸が再開され、心の鼓動も力強く聞こえてくる。血の気が引いて青ざめていた頬は、桜色へと変わり、エルネスティーヌは安らかな寝息をたてはじめた。
「シー、そこの女を頼む」
エルネスティーヌを抱き上げたソルは、無言でうなずき、倒れている女を背負ったルシールを確認すると森の入り口へと転移する。そして、馬を呼び寄せると再び転移し、シチートリア近郊へと転移したのだった。そこから馬に乗り街へ入ると、宿泊していた宿へと引き返し、とりあえず二部屋借りて部屋へと移動した。受付の従業員は気絶しているエルネスティーヌとルシールが背負う女を見て、怪訝そうな表情をしていた。ベッドに二人を寝かせたソルはルシールと森であったことについて話を始める。
「ソル様、あの巨竜はいったいなんだったのでございましょうか」
「よくは分からんが、ルキアノスが創造した竜であることは間違いないだろう」
「竜が魔物化するとは考えにくいことですが、あの巨竜はたしかに瘴気を放っていました」
「奴は歪なる力、つまり瘴気の管理者だと言っていた。だとすれば魔物化していなくとも瘴気を操ることはできるだろう」
そんな時だった。床に胡坐をかいて話をしているソルとルシールの前に唐突に一人の男が現れた。豪奢な金髪ではあるが、その髪はさらさらとしており透明感がある。背は高くソルとさほど変わらず、白いゆとりのあるズボンに白いローブをまとった美男子であった。その男がソルに対して片膝をつき頭を垂れている。
「私の僕がご迷惑をかけたようで、面目ございません」
「久しぶりだなルキ」
ソルにルキと呼ばれた男、イースティリア世界を司る神々の長ルキアノスは顔を上げ、その黄金の瞳でソルとその横にいるルシールを見た。
「ソル様の力と僕であった竜の力が交錯したことを感じ取り参上しましたが、ご無事で何より……」
「無事ではないぞ、俺は傷一つ負っていないが、連れがダメージを受けた。もう治療を終えたが、危ういところだった」
「申し訳ありません。あの竜は僕として世界に溜まった瘴気を管理させておりましたが――」
ルキアノスによるとあの巨竜は、神官や巫女による浄化から漏れて、イースティリアに溜まり続けている瘴気を集め、それを管理させるために創造した僕であるという。巨竜を創造し、溜まり続ける瘴気の管理を任せたまでは良かったが、数百年の時を経るうちに、巨竜は魔物化せずに体内に瘴気を取り込み、制御するすべを身に着けた。それが発覚したのが数日前、各地で異常発生している瘴気の塊を調べてみて初めて分かったそうだ。数百年にわたり巨竜が貯め込んだ瘴気の力は、イースティリアを司る神々を凌駕するまでになり、時期を見て神々の力を結集して巨竜と貯め込んだ瘴気を処分しようかということになったらしい。
「なるほどな、アレの力は確かに強大なものだった。俺の予測を上回ったほどだからな。こんなことはヴィド以来だ。ヴィドの時は俺がまだ幼かったから話は分かるが、今回はそうではないからな…… なんなら力を貸そうか?」
「滅相もございません。巨竜のしでかしたことは我々の不始末。我々のみで対処いたします。それに、もしソル様の力をお借りすることになればニート様からどんな罰を受けるか……」
ルキアノスはそう言ってぶるぶると震えて見せた。しかし、そんなことは気にも留めずソルは言い放つ。
「お前の言い分は分かった。アレの処分は任せよう。だが、もしアレが俺の行く手を邪魔した時は容赦しない。覚えておけ」
「はい、そうなる前に何としても我々の手で処分してみせます」
そして、ルキアノスはソルとルシールの前から忽然と消えたのだった。すると、まるでそれを見計らったかのように気を失っていたエルネスティーヌが意識を取り戻す。
「んっ、んー」
気が付いた彼女はまるで何事もなかったかのように伸びをして上体を起こした。そして、辺りを見回し隣のベッドの寝ている女を確認すると、安堵の表情でソルとルシールを見たのであった。
「どうやら無事に戻ってこれたようですね。しかしわたくしは瘴気を浴びて倒れたと思ったのですが、貴方が治療してくれたのですか?」
「ああ、その通りだ。瘴気を浴びてすぐに治療したから大事には至らなかった」
「そうなのですか、お礼を言わねばなりませんね。ありがとうございます」
「なに、気にすることは無い」
エルネスティーヌは、まだ気だるい様子を見せていたが、気になることを思いだしたように、何に襲われたのか聞いてきた。
「そういえば、わたくしが倒れる直前に巨大な何かが空から舞い降りたのを、一瞬ですが見たような気がしますの。あれは何だったのでしょうか」
ソルは、巨竜と瘴気の関係について、ルキアノスと巨竜の関係について、巨竜には異次元へと逃げられてしまった事、ルキアノスを含む神々が巨竜を追っていることを、順を追って説明した。
「そうですか…… ルキアノス神様でも手におえないほどに力をつけているという事ですね。神々がすることをわたくしが心配してもどうにもなりません。各地で起こっている瘴気にまつわる事件についても原因が分かりましたし、残るはそこの女性のことだけですわね」
隣のベッドで寝ている女を見ながらエルネスティーヌは考え込むようにしていたが、何か違和感を感じたようで、一旦首を傾け考え込むようにしたのち、額に人差し指えお突いてそのことについて聞いてきた。
「ところでソル、貴方から今まで感じることがなかった力を感じるのですが…… シーやそこの女性からも僅かに」
「それは神気を感じ取っているんだ。治療の途中でな、加護を与えねば魂が変質してしまうところだった。だから加護を与えた」
「まぁまぁ、そうでございましたか。貴方に加護を貰うのは癪なことですが、今回は仕方ありませんわね。素直にありがとうと言っておきますわ」
「まぁ、悪く思うな、今日はもう疲れただろう。話はまた明日だ」
加護を与えられたことに対して、少しひねくれた反応を示したエルネスティーヌであったが、その表情は、まんざらでもないといった感じであり、もしかしたら照れ隠しであったのかもしれないとソルは思った。そして、そんなエルネスティーヌを気遣ってソルはルシールと共に自分の部屋へと戻ったのであった。




