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更衣室に入り、カギを開けようとポケットを探る。
浴室から物音がする。そうだ、逃げ遅れた若奥さんでもいやしないかと、渋い声でもう大丈夫ですよと言う練習をしながら擦りガラスの引き戸を開ける。
武器になるような物を、何も持って来ていない事を、鉄郎は強く後悔した。
露天風呂との境のガラスが粉々に砕けている。扉も壊れ、蹂躙され、桶が散乱していた。
そして子鹿たちは、サウナ室の扉に体当たりしていた。彼が扉を開く音を聴き、一斉に、彼の方を振り向いたのだ。
前脚でタイルを蹴り、突進の用意をする子鹿たち。
「わわわわわ」
及び腰に、鉄郎が硬直してしまったその時。
後ろから、石鹸が投げつけられ、子鹿の鼻面に当たった。
ひるむ鹿たち。
振り返ると、浴衣にタスキがけのおばあちゃんが、デッキブラシを構えて駆け寄って来たのであった。
「あんちゃん、ちょっと退いたってやー」
おばあちゃんが威勢良く横を通り過ぎるおりに、はみ出した垂乳根が目に入ってしまったせいで、鉄郎は助かったとホッとするのと同時に、少しイヤな気分になった。
おばあちゃんはときの声をあげて群れに向かってゆき、鹿を突きまわす。
鹿もすばしこく逃げ回るが、おばあちゃんのデッキブラシの鋭さは、更にその上をゆく。
ひと降りで、二匹、三匹を一度に倒す。鹿は劣勢と見るや、退却を始めた。おばあちゃんは追撃に移る。割れたガラス窓をスリッパで乗り越え、露天風呂の、破れ、倒された柵の奥へと。
ぽかんと見ていると、おばあちゃんは鉄郎を振り返り、サウナルームを指差して叫んだ。
「誰かおらんか、そこ見たってー」
「あっ、はい」
そのままおばあちゃんは草むらに消えて行った。
「いけるんかいな。…あの太刀筋は、薙刀やろか」
鹿の爪痕の残る、木の扉を開ける。
薄暗いサウナルームの中には何と、いた。黄色のバスタオルが敷き詰められた床に、一糸まとわぬ体を横たえた、若い女性が。
何箇所か、鹿に身体を噛まれている。
予想外の展開に、しかし今度はすぐ反応し、喜び勇んで駆け寄る鉄郎、体に手を延ばし、さすりながら抱き起こす。
「大丈夫でっか? 水いりまっか?」
渋いどころか、やに下がった、道につっ立っているだけで通報されそうな顔つきである。
女性は抵抗も出来ず、撫で回されている。その身体は汗をかいてじっとりと湿っている。鉄郎は、意識を取り戻すためだと心の中で言い訳をした。
しかし、何だか、どこか様子がおかしい。ようやく、うっすらと開いた女性のその目には、白目がなかった。
果たして、とうとう意識を取り戻した彼女は目を見開き、キューンと言った。いや、啼いたという方が正確だろう。何か不審な様子を感じた鉄郎は、少し名残り惜しそうに、後ろに下がる。彼女は、四つん這いになり、またひと鳴き。身体を震わせると、全身から、茶色い毛が生え出した。そして背中には白い斑点が、、、噛み付いて来る。
「うわあっ」
サウナ室を飛び出す鉄郎。
産まれたての子鹿も、脚をプルプルと震わせながら、鉄郎を追いかけてサウナを出てくる。
濡れたタイルに足を取られて鉄郎はひっくり返る。
デッキブラシが飛んで来て、鉄郎の目の前に転がった。
夢中でそれを掴み、出鱈目に振り回す。子鹿は跳ね回ってそれを避けると、窓枠を飛び越えて逃げていった。
「た、助かったぁ」
「何や若いくせに、下手っぴぃやのう」
さっきのおばあちゃんが、腰に手を当てて立っていた。
続く
ゾンビが発生しても絶対に安全な日本の街ランキング2位に大阪なんばが選出されたそうです。