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ガラスの割れる音と、高い悲鳴が、夜風のために窓を開けた鉄郎の耳に届いた。
遠くない。何かが壊される音。破裂音。
親子げんかとも思えない、近くにあるのは寂れた温泉だけだ。
鉄郎は別に何も期待はしなかったが、エンジンを掛けてシフトレバーをバックギアに入れた。
そこから細い道を下るとすぐにある小さな温泉、駐車場だけが無駄に広い。
間違いない。閉店間際のこの温泉の中から、騒音は聞こえてくる。
みればすぐに、貧相な子鹿をむき出しにぶら下げたおじいちゃんや、バスタオルを巻いただけの老婆たちが、自動ドアの開くのも遅しと飛び出して来た。
「やっぱりこういうオチかい」
と呟くと鉄郎は窓ごしに、
「どないしましたんや!」
「し、鹿やっ!」
「はあ?」
「鹿が出たんやっ。喰いつきよったっ。
うわ、うわっ。来よったあ!」
裏から、回り込んで走り来る、俊敏な、小さな黒い影。
老人は腰を抜かしてへたり込む。彼に迫る影。
鉄郎は仕方なく、アクセルを全開にして、その影を轢いた。
子鹿だった。
子鹿はなおも立ち上がり、老人を狙う。
「堪忍やで」
もう一度、アクセルを吹かして跳ね飛ばすと、子鹿はやっと動かなくなった。
「兄ぃちゃん、お、おおきに!」
「早く、車に!」
と、思わずドア開けて招き入れたのはいいものの、老人たちはびしょ濡れだった。
シートに染み込むじかの水滴をちらりと見ながら、顔を引きつらせて、鉄郎は聞いた。
「まだ、中に誰かいてはるんですか?」
「いや、分かれへんけども」
「ワシら必死やったさかいなぁ」
「いややわあ、ワタシちょっとちびってもたわ」
「きちゃないのう、オバハン」
「いやっ、失礼やわ。しゃあないやんなあ兄ちゃん」
「ゆるゆるなってんとちゃうけ」
「そんなん、もうとっくやわ。こらオッサンどこ触っとんねん」
「しゃあないやんけ、狭いねんから。んなモン頼まれても触りたないわいな」
何か無駄だと悟った鉄郎は、警察に電話しようと、ポケットから携帯を取り出す。すると、ちょうど着信が掛かっていた。
京子からだった。
「何や?」
出ると彼女は、切迫した声でまくしたてた。
「鉄ちゃん、鉄ちゃん、鉄ちゃん、繋がった? 助けて、鉄ちゃん。頼むわ、ホンマ頼むわ。助けに来てや! バリやばいねん。シュウちゃんが」
「何やねん、こっちもそれどころじゃないて」
「鹿が、鹿が。。場所はさっき言うてたとこ。うおっ、早よ来てえええ」
悲鳴を残して電話は切れた。
「えええっ」
シュウとは彼氏の名前だろうか。
見渡すと、車内にぎゅうぎゅうに詰められた老人たちが、揃って彼を見つめている。
「な、何でっか?」
「せやねん、それがな兄ぃちゃん。実はワシらな、車の鍵やら財布やら、全部ロッカーにわすれてしもたんや」
「ワタシ入れ歯も」
「そんなもん言うてる場合かい」
「しやかて金歯やねん」
「うるさいわ」
「ワシらこんな格好やし。頼むわ兄ぃちゃん」
彼らは手首や足首に輪ゴムで付けていたロッカーの鍵を、手に手に鉄郎に差し出した。
迷いに迷ったが、とうとう押しに負けて鉄郎は受け取ってしまった。
「えらいすまんのう」
ポケットにじゃらじゃらと鍵を詰め、ふてくされた顔で鉄郎は車を出る。
自動ドアは、まだ動く。
「靴は、ええよな。この際や」
張り紙に、ここではきものをお脱ぎ下さいと書いてある。
鉄郎は迷うことなく、まず女湯へ向かった。
続く