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「ああっしまった!」
鉄郎は思い出したように声をあげる。
「何やねんワレ、びっくりするやんけ」
「肉屋持ってったら、高こう売れたんちゃうか?」
「なに寝ぼけた事言うてけつかるねん、ドアホ」
「今頃、コジキのおっちゃんらのシチューやろなぁ」
「アホウ」
高速道路は順調に流れている。夜の松原線は乗用車ではなく、トラックの姿が多い。
「やっぱり藤井寺まで乗るやんな? 俺、阪コー嫌いやねん。こんだけの短距離で七百円も取るんやで、高すぎるわ」
平野から乗ると、あっという間にに松原ジャンクションで、西名阪に乗り換えである。都市高速の均一料金がなせる業であったが、実質五キロもないのだ。
とは言え、そのすぐ下の道、内環はそこから、ワザとではないかと思うくらい信号のつながりが悪い、使えない渋滞ルートであった。
「ケチケチすんなや。事故ったのん、社長に言うてもええのんかァ?」
「あーあ、肉屋持ってってたらなあ」
と、前を走るトラックが、不意にブレーキを掛けた。直線である。
「何やっ。ボケェ、こんな所でオカマなんか掘ったらシャレんならんわ」
車間は足りた。トラックも、スピードを緩めただけでそのまま走り続ける。ブレーキを掛けた原因、黒っぽい布の様な落下物に、タイヤを乗り上げて踏み潰し、そのまま走り去って行く。トラックの、車体の下から顔を出したそれは、一瞬だけヘッドライトに照らし出され、白い斑点のある茶色の毛皮の様に見えた。
社用バンも続いてそれを乗り越えた。衝撃もない。
既に何台もクルマが通り、ぺしゃんこに踏み潰されていたのだ。
「ホンダラボキャア、危ないやんけ! 目ぇ突いたらどないすんねん!」
京子が鉄郎に向かって怒鳴る。
「オイッ!」
「何や」
「今の、見てへんかっ?」
「何がぃ?」
京子はコンパクトの鏡に、視線を集中させていた。
アイラインを引いていたのだ。
「いや、何でもない。きっと、見間違いやわ」
「さっきから何やねんホンマ。おちょくっとんかいワレ。そうか、ワシのデート邪魔したいんやな。嫉妬け? ああっ、ほら、歪んでもたやんけこんボンクラぁ」
「そ、そんなわけあるかい、アホちゃうか」
鉄郎は少々動揺して言った。
「何てれとんねん、アホンダラ。気まずうなるゆうねん」
「うわっ、し、鹿や!」
闇の中に、バンビが浮かび上がる。それはアクセルを全開で鉄郎が社用車の限界一二○キロを出しているのにも関わらず、追いすがってくる。
「ハイハイ。いつの時代のネタやねん。さっぶぅ」
バンビちゃん運送のトラックは、オービスを巧みに避けて飛ばしに飛ばす。みるまに、視界から消えて行った。遠くでかすかにブレーキランプが明滅する。
「運ちゃん運転荒いなぁ。あれはじきに事故るで」
「どの口がぬかしとんねん」
松原を超えて西名阪道、制限速度の看板には八○と描いてある。
料金所でまた四百円を取られてすぐの出口、藤井寺で、車は一般道へ降りた。
「その辺に、ヤブの城山病院いうところがあんねんけどやあ。実は、そこで知り逢うたんや。学生さんやってな、入学式のすぐ後で、バイクでコケやったんや、笑うやろ。入院三ヶ月で、何や親来て泣いたはったわ。靭帯切っとって。そんでな、私も高校いく途中で、原チャリでおじいちゃんのカローラとケンカしてもて、ぶち込まれとってんか。ほんで、、、」
「へえ、そうなんやぁ。どこ行ったらええの? 富田林?」
「違うねん。喜志の駅まで、迎えに来てもらうねん、外環まっすぐガーッて行って、私がソコや言うたらキュッて左ぃ曲がってもろたら着くわ」
「アホ、喜志駅くらい言われんでも分かるわ」
京子をロータリーで下ろすと、車内は寂しくなった。
ラジオを、つける。
京子はそこに迎えに来てもらい、関空近くのアウトレットへ行く予定だそうだ。
「ほんなら、会社からじかに行った方が近かったんちゃうんかい。一つ山越えたら奈良やんか」
鉄郎は独りごち、大嫌いな外環を信号に捕まり捕まり、だらだらと北上した。確か八尾のあたりに喜志と読みが逆の、志紀という交差点があり、そこを左に曲がったらよかった筈だ。そこで中環に入れた。いやそのまま25号線に繋がっていたかもしれない、などと想像しながら。
ラジオからは漫才師のかけあいが聴こえる。
鉄郎はスピーカー越しに、何でやねんと突っ込みながら、マイルドセブンを取り出し、火を付けた。
深く吸い込み、白い煙を吐き出して窓を少し開ける。
道はそれ程混んではいない。バイパスだってある。しかしどうしてこれ程、進むのが遅いのか。信号だ。
時速一四○キロで巡航すれば全部青信号で河内長野まで一度も止まらずに通り抜けられるという都市伝説は、嘘だ。鉄郎は試した事があったが、一四○が二○○でも、たとえ光の速度が出せたとしても抜けられない壁が幾つもあると判明した。
しかし、今は特に、急ぐ用事もなかった。
免許を取り立ての頃、夜景を見にドライブした場所を、鉄郎は思い出して少し感傷的な気持ちになり、次の信号で、彼はハンドルを右に切った。
石川を越えて少し走ると、南河内グリーンロードという、いわば広域農道が、山との境目を伸びており、信号も滅多にない、走りやすいワインディングが続く。
彼が車をぶつけて歪めた道路標識も、その辺りにまだ立っていた筈だった。
嫌なことがあると、決まってここに来てこっそり泣いたものだ。
それは、まだ南阪奈道路が出来る前の話だった。
地図をみればクロスしている。南河内グリーンロードの下に、橿原市に向かって抜ける南阪奈のトンネルが掘られており、すぐ目の前の、広い料金所から出た車が、次々と足元に飲み込まれてゆく。
あの頃はまだ、料金所はおろか、トンネルさえ開通してはいなかった。彼はそこに何が出来るのかすら、知らずにいた。
ラジオは、やしきたかじんの歌声を流し始めた。
沢山の、小さな窓の明かりやビルや、遥か遠くで車の進行を止め、又は進めている信号機の青や黄色や赤や、右手の外れに小さくそそり立つ通天閣のネオンや、海の向こうに多分六甲山の鉄塔の、赤い警告音が揺らめき、かすみ、明滅する姿を、さっき走って来た高速道路を、流れる幾すじものヘッドライトを、この時間になるここまで音の届いてくる踏切と走る電車のヘッドライトを、眼下の、右に飲み込まれ左に吐き出される車たちを、彼は見ていた。
長く燃え残っていたタバコの灰が、手を伸ばすサイドブレーキあたりの暗がりに、灰皿に届く前に落ちる。
続く