それは僕にスリーサイズを測れっていう振りですか? 4
「ただいま」
家につく頃にはすっかり日が暮れていた。近所の家電ショップには気にいったものはなく、結局電車で隣町にまで買いに行った。お陰でかなり信憑性のある頑丈な目覚まし時計を購入。「10メートル上空から落としても壊れません」だそうだ。ていうかあるんだ、そんなニーズ。
玄関で帰宅を示してもいつもどおり、つむぎのリアクションはなし。これが通常。ちょっと安心。僕は一度部屋に戻る。重い荷物を持って結構歩いたので、疲れた。
「やあ、耕太、おかえり」
「ただいま、さつきさん。・・・って、何読んでるんですか」思わず赤面する僕。
「ん?これか?君の弱みを的確に握っておこうかな、と」
女性のファッションとはいかなるものかを写真に収めてひとつにまとめた本をさつきさんは眺めていた。
「オブラートに包むな!どう考えてもエロ本だろう!」ついにさつきさんに突っ込まれてしまった。
その本は決して女性のために作られたものではない。というより普通の女性なら明らかに読んで嫌悪感を抱くだろうそれをさつきさんはベッドに足を組んで座り、読んでいた。エロ本を読んでいても様になっている。一体何に愛されているんだろうか。
「ていうか弱みを握るとか、僕たちそんな一触即発な関係なんですか?そんな2人が共同生活とは、どっかの漫画みたいな展開ですね」
「知ってたか、耕太?女性の性欲は男性のそれをはるかに凌駕しているらしい」
「・・・・・・」
熟読していらっしゃる。
「ああっ、何をする」さつきさんから本を取り上げる。これは今から処分しに行こう。問題ない。内容はほとんどすべて頭に入っている。
「では私も行こうかな。どこにあるのか知っていれば好きな時に読みにいけるからな」
「・・・・・・」
気に入っちゃったよ。
・・・さつきさんが変な人になっちゃってる。ああ、僕はどうすればいい。これは僕の責任なのだろうか。
「それで、どこに捨てるのだ?」
「エロ本を捨てるといったら川原以外ないでしょう」
「なんと!」
僕がその危険物を全てバッグに詰め、靴を履いて玄関を出たところで、さつきさんが信じられない、というような顔をした。
「雨が降ったらどうするのだ!読めなくなってしまうではないか」
「読むなよ!」
突っ込む僕。まったく、さつきさんは凄い。僕の我慢の限界をことごとく超えてくる。この人はあれか、僕を一流のお笑い芸人にするために現れたのだろうか。
「ついでに言うと、川の中に捨てます」
「鬼!鬼畜!環境破壊者!」さつきさんの罵声を一身に受ける僕。ああ、なんだろう、この感じ。全然いやじゃないや。・・・むしろ、いい。
「・・・有機物ですよ。ちゃんと土に返ってくれますって」
「私の残念なこの感情は決して土に返らない!」
「・・・じゃあお金あげますから自分で買って下さいよ。少しの間なら人前に姿を表せるんでしょう?」
再び信じられない、というような顔をするさつきさん。
「な、何が目的だ、耕太。私を辱めてよろこぶのか?よろこぶという字はもちろん悦楽の悦なのだろう?悦ぶのだろう?君は真性の変態だな」
「・・・・・・」それは残念ながら否定できない。僕にそのつもりはまったくないのに、周りの評価はそうなってしまうのだ。それを言うならさつきさんだって完全な臆病者じゃないか。いや、別にエロ本買うのが勇気ってわけじゃないけど。
「とにかく捨てますよ。・・・そういえば、今日はどこ行ってたんです?まさかあの後すぐに家に戻った訳じゃないでしょう?」
街灯が照らす通りを歩いていたさつきさんは足を止めて押し黙った。意識的な無表情を見るのは今日初めてかもしれない。その表情もやっぱり綺麗だ。
「・・・私にも用事があってな。まあ、日課のようなものなのだが」
さつきさんは足を止めた。空を見上げる。残念ながら今日は昨日と違って空は曇っている。唯一月がどこにあるかわかるくらいだ。さつきさんは目を細め、自嘲気味に笑った。
「君に似ているのかもしれないな。・・・私はな、耕太」
風がさつきさんの髪をなびかせる。僕はそんな姿から目をそらすことが出来なかった。
「探している人がいるんだ。名前も顔も覚えていない。でも、その人はずっと私を待っていると約束した・・・許嫁というやつだ」
ずっと考えていた。どうしてさつきさんは幽霊なのか、と。一般的にいって、未練を残した人が幽霊になるのなら、こんなさばさばした性格のさつきさんはこの世に何の未練があるのだろうか、と。でも、聞く事が出来なかった。聞いたらさつきさんがどこかへいってしまうような気がしていたから。けど・・・
「もう待っているかは分からない。もう死んでしまったかもしれない。そもそもそんなもの私の幻想だったのかもしれない。でも―――」
―――私にはそれしかないから。
僕は拳を握り締めた。目を閉じると、後ろ向きに倒れてしまいそうだった。地に足がつかない感覚。さつきさんはいつもこんな感覚なのだろうか。大事なものを、大事な記憶を失ってしまうような、死ぬより辛い感覚。
僕は走り出した。本当は僕が傷つくべきじゃない、そんなことは分かっている。僕には関係がないはずだ。僕とさつきさんの関係は飽きるまでのはずだ。それだけのはずだ。でも、これだけははっきりしている。僕は嫉妬心で傷ついたんじゃない。手がかりも無く人を探しているさつきさんが哀れで、かわいそうで、・・・それはまるで自分のことのよう。いや、自分のことよりも何倍も悲しい。だって、この気持ちは自分のそれと違って言葉に出せないから。誰かに受け止めさせちゃいけないから。
海だった。川沿いに走って走って走って走って走って、海まで来ていた。なぜか分からないけど、ここになら僕の気持ちをぶつけられる。
「ああああああっ」
僕は叫び、海に向かって突っ込む。靴が濡れた。制服が濡れた。潮水が口の中に入った。それは涙よりもしょっぱいが、僕の人生より幾分か甘い。
海水が胸まで来たところで、出来るだけ遠くに鞄を投げる。そのまま後ろ向きに倒れた。海水で、その上服を着ているので力を抜くと身体が浮き、プラネタリウムにいるみたいだった。雲と月の光しか見えないけど、それでも空は広い。僕の小ささを嘲っているようだ。
「あっははははははは」
僕は大声で笑う。4月の海の水は川よりもずっと冷たかったが、まったく気にならなかった。きっと僕の心がもっと冷めていたからだろう。何も考えることなく、僕は大声で笑った。それは自分が滑稽だからなのか、それとも世界の広さが開放的だったからなのか。
僕に似ているのだと。探して探して探して探して見つからないその人は。じゃあなんだ。さつきさんが僕のそばにいてくれるという昨日の言葉はそういう意味なのか?信じたくない。信じたくない。信じたくないし聞きたくもない。もし万が一そうなのだとして、じゃあ僕はどうなるんだ?代替品としての価値しかない不良品であるところのこの僕に一体何の意味があるんだ?
笑い続ける。身体が波に流されている。残念ながら、このあたりの潮流では海岸に戻されるだけだろう。僕の知らないどこか遠くに誘ってくれればよかったのに。この苦しみから僕を解放してくれればいいのに・・・。
「何がおかしいんだ?」
「・・・・・・」僕は答えない。応えない。応えるべき答えを持っていない。
僕は身体を起こし、足をつく。いつの間にか水位は腰の位置に来ている。このあたりの海岸はとてもなだらかなので、これだけでもかなり流されたのだと実感できた。
「・・・・・・はは、悲しいですね」僕の身体の周りには白波がたつ。さつきさんの周りもそうだ。さつきさんはちゃんとここにいる。でもほかの誰にも見られず、生きてはいない。やはりそれは悲しい。やはりそれは苦しい。受け入れることなど出来ない。
「そうか?私は悲しいとは思わない」さつきさんは自分の腰辺りで波を立てる海水を見て言う。彼女が何を思っているかなんて、僕にはわからない。言葉と裏腹に浮かべているその悲しそうな表情が何を意味しているのかもわからない。
「いいえ、悲しいですよ」僕は笑わない。笑わないままさつきさんを見て言った。
「どうしてあなたなんでしょうね。どうして他の誰かじゃないんでしょうね。・・・どうして僕なんでしょうね。なんて、なんて滑稽なんだ」
「・・・・・・」
「もし、待ち人なんて存在が幻想だったらそうするんですか?そもそも何の手がかりも無く探せるはずがないでしょう」
「・・・・・・」
「それにどうしてそんなこと僕に言ったんですか?どうして僕の前に現れたんですか?どうして僕に関わったんですか?どうして僕に話しかけたんですか?・・・・・・こんなに、こんなに悲しいのならどうして僕らは出会ったんでしょうか」
「・・・・・・」
「教えて下さいよ。僕はどうすればいいんですか?僕にどうしろって言うんですか?あなたは何がしたいんですか?・・・ねえ、教えてくれよ!!」
「・・・・・・耕太」
パシン、と頬が弾ける音がした。僕は目を細め、さつきさんを見る。
「・・・これが、あなたの答えですか?」僕はシニカルに笑った。自嘲して笑った。嗤った。ああ、なんて悲しいんだ。僕の人生には答えがない。どこにもない。ゴールの無い長距離マラソン。僕は走る。周りには誰もいない。僕は走る。ただ走り続けている。終わるのはいったいいつだろうか。案外もう終わっているのかもしれない。けれども、それに気付いていないなら結局は同じことだ。ただ、無為に、無意味に走り続けるだけ。
―――さつきさんは、ほんの少しだけ僕らを照らす月明かりの下、泣いていた。
「私は、私は・・・ただ、寂しかっただけだ。1人で生きることが、苦しかっただけだ」
「・・・だから僕に探し人の代わりをしろと?かまいませんよ。どんな人でした?どんな性格でした?どんな喋り方をしてました?そっくりになってあげますよ」
僕に意味なんてない。だったら、意味のある何かになってやろう。そんな人生も悪くない。
パシン、と今度は反対側の頬が弾けた。さつきさんは僕の胸倉を掴み、押し倒した。もちろん押し倒された先は海の中。それでも僕は抵抗をしなかった。悲しい。それこそ、一思いに殺して欲しいほどに。僕のマラソンをもう終わらせて欲しかった。情緒不安定な少年が春の海で自殺。うん、僕にふさわしい実に滑稽な死に方だ。
しかし、僕の身体は引き上げられた。
―――そして呼吸する間もなく、キスされた。
「・・・・・・!!」
僕は目を見開いた。息が出来ない。そして何よりもほんの指一本分の距離にさつきさんの顔がある。
あ、ヤバイ、死ぬかも―――。
「ごほっ、ごほっ」ようやく開放された僕はさっきみたいに水面に仰向けになりながらむせた。そして放心する。さっきまで心に渦巻いていた黒い何かはどこかへと去ってしまっていた。
「どうだ、私の正真正銘のファーストキスをくれてやったぞっ!!これでもお前は誰かの代わりだと叫ぶのか。私と出会わなければよかったというのかっ!?」
僕は立つ。自分の足で。幽霊だけど、さつきさんにもちゃんとこの感覚があるのだろう。
「・・・・・・すいませんでした」僕は頭を下げる。顔ぎりぎりを漂う水面から潮の香りが脳に伝わる。
海は好きだ。すべてを受け止めてくれる気がするから。
海は好きだ。すべてを受け入れてくれる気がするから
肩に掌がやさしく置かれた。
「さあ、帰ろう。風邪を引くぞ」
そう言って岸に向かうさつきさんの濡れた服の袖を僕は引っ張る。
「さつきさん。あなたの人探し、僕に手伝わせてくれませんか?」
さつきさんが驚いた顔で振り返った。
「いいのか?」
僕は笑う。ちゃんと笑う。
「はい!」
僕たちは家へと帰る。家の明かりがまぶしくて、思わず目を細めた。「月よりも綺麗ですね」と言って僕とさつきさんは笑い合った。
・・・ちなみに、この後僕は風邪を引いた。
だから僕は誓ったのだ。
―――将来、サーファーにだけはなるものか、と。