いつもと変わらない。いつもどおりさ 4
携帯のアラームを止め、即座に目覚ましを止めた。
「―――ああ、もういいんだった」
一人きりの部屋で僕は独り、つぶやく。体を起してベッドを見る。そこには誰もいない。目覚めのいいさつきさんが不機嫌に僕に攻撃をしてくることもない。ただ、真っ白なシーツが平らになっているだけ。この部屋には僕一人だ。
―――今まで通り、僕一人だ。
昨日はなんとなくベッドで眠る気になれずにまた布団で寝た。家族をごまかすためにしばらくは布団で寝よう、とか自分で言い訳を考えてみたが、何の気休めにもならなかった。ただ空しいだけだ。
「お前の限界を見ることはないんだな」目覚まし時計に話しかけて見る。目覚ましの時刻はいつもと同じ。ゆっくりと学校に行く準備をした。それでもいつもよりずっと早い。学校に行くまで暇になってしまう。なにもやることがない。
「なんだよ、僕ってこんなつまらない人間だったのか」せっかくさつきさんに鍛えてもらったのに。
しょうがないから早くに家を出た。昨日はあんなに晴れていたのに今日は雨が降っている。いじめかよ、思った。
弁当を二つどころか一つも作る気にはなれない。昼ごはんは後で考えよう。
傘を差しながら、なんとなく遠まわりをしようと毎朝さつきさんと通っていた道を覗いてみる。もちろんそこには何もない。ただの人通りが少ない道にいるのは僕一人。
いつの間にか学校の前にいた。どこをどう歩いたかなんて全く記憶にない。それどころか歩いて学校に来た憶えさえない。もしかして僕は家の前で宇宙人にさらわれて、学校の前で下してもらったのだろうか。
そんなタクシーみたいな・・・。
昼ごはんは適当な理由をつけて、及川におごってもらうことにした。
「なんだよ、漆根、今日は元気ねえな。またフられたのか?」及川は二人前の学食を目の前に並べて聞いてきた。このデリカシーがない明るい感じこそがデリカシーなんだろう。僕にだってそれくらいはわかる。
「うん、まあそういうことになるのかな」
「でもよ、いつものお前なら落ち込む・・・つうか泣き叫んで発散してるだろ?そんで告白周期がさらに短くなって、俺にしてみりゃさらに面白いことになる、と」
「泣かないよ」
うどんを一本すすって、笑って見せた。
「・・・だって、これは悲しいことじゃない。むしろ喜ぶべきことなんだ」僕は言う。自分自身に言い聞かせるように。
「何言ってるかさっぱりなんだが・・・。お前本当にフられたんだよな?」
「うん。・・・でも大丈夫だ。僕は大丈夫」
「・・・・・・そうか。まあ、詳しく聞くつもりはないけどよ」及川は言って、目の前の定食×2にかぶりついた。
放課後はごくごくあっさりと訪れた。普段はさつきさんとルーズリーフ攻防戦があったものだが、もちろんそれもない。だからと言って授業に集中できたと言えばそんなこともない。
「どうしたの、漆根君。今日は雨にぬれた捨て猫みたいに元気がないわね。始めから落ち込まれているとこちらとしてもいじめがいがないのだけれど」
春日井さんが現れた。そしてまだ僕をへこませるつもりなのか?
「うう~ん、元気がないなら私の大事なストラップ・・・」
くれるのだろうか、そんな大事なものを。でももらっても今日の僕じゃいつもの5割増しで気のきいたこと言えないと思うけど。
「・・・・・・にしてあげるわ」
「リンチか!?ボコボコにして吊し上げようとしているのかっ!?」
とんだ慰め方である。あ、でも突っ込んだらなんか元気が出てきた気がする。
「ありがとう、春日井さん」
「ストラップにしてもらえるのが嬉しいのっ!?」
「じゃなくて!・・・あっ、でもこの文脈だとそうなっちゃう!!」
とんだドM発言だった。さすがにどれだけ落ち込んでもそこまで落ちるつもりはない。
春日井さんと別れて家路に就く。雨脚は朝よりは弱まっている。傘に落ちる雨音もどことなくやる気がない。
―――さつきさんがいなくなっても世界は変わらない。ただ僕だけがいつもと違うだけで、世界は容赦なく回り続ける。休むことなく巡り続ける。
悲しくても終わりはない。苦しくても終わりじゃない。僕の人生は終わらない。僕の人生は止まらない。それはきっと誰にとっても同じことで、そんな苦しみを背負いながら誰もが生きている。
だから僕も生きていこう。ちゃんと胸を張って生きてやろう。だって世界はこんなにも広い。世界はこんなにも美しい。そして、そうやって生きていくことで僕はきっと彼女と過ごした日々を誇れると思うから。
「ただいま」
いつも通りつむぎのリアクションはない。キッチンで何かを炒める音が聞こえる。とりあえず着替えは後にして、料理を手伝おう。部屋に戻っても誰もいないんだし。
「耕兄、今日なんか元気なくない?」夕飯の席で箸を進めながら唐突につむぎが言った。そんなに落ち込んで見えるのか、今日の僕は。
「いや、大丈夫だよ。いつもと変わらない。いつもどおりさ」
変わらない。何も変わらない。ただ、少しばかり非日常が日常に戻っただけだ。幸せは長くは続かない。だからこっちが本当だ。
「そう?なんか・・・まあいいや」つむぎは食器を洗って2階に行ってしまった。
うん、こんな感じだ。
天井を見上げると小さなしみがあった。大事にしているこの家でも4年もたてば汚れてくる。同じように、僕のこの大事な記憶もいつか薄れてしまうのだろうか。
「母さん、週末に頑張るだろうな・・・」多分相当必死になる。僕が駆り出されないことを祈るばかりだ。
そんな僕のつぶやきに答えてくれる人はいない。だけどこれが正常。
思えば僕は幸せすぎた。何のとりえもない、それどころか生きていることが周囲にとっての不調和だった―――最近になって周囲はそこまで考えていなかったんじゃないかと思えるようになってきたが、そんな僕のそばにさつきさんはいてくれた。こんな幸せなことはほかにないだろう。こんなことを面と向かっていえばさつきさんは「私はただ君が面白いからいるだけだ、勘違いするな、ばか者!」と、声を上げるに違いないけど。
さつきさんを思い出して思わず顔がほころんだ。思い出はどれも楽しいものばかりだ。
階段を上って部屋のドアを開ける。
「ほう、おはへり」
そうやってお菓子を頬張りながら僕を迎えてくれた人はもういない。買い置きのお菓子が開けられる日は来るのだろうか。
「一人ってこんな退屈だったんだな」
カーペットの上に胡坐をかいて僕はひとりごちる。沈黙が耳に痛いという感覚。それも久しぶりのものだった。
僕は幸せだった。さつきさんはどうだったのだろう。僕と一緒にいて、よかったと思ってくれただろうか。どちらにせよ、彼女にとっては今が一番いいはずだ。それが彼女にとっての正常で、日常のはずだ。
宿題をやって風呂に入って、歯を磨いて、いつもより相当早い時間に僕は布団を敷いて横になる。まだベッドで寝る気にはなれないけど、携帯のアラームは切ってある。きっとそのうちベッドが使えるようになるだろう。
おやすみ、今日の僕。明日はきっと晴れるだろうさ。
なんて、僕は根拠もなく自分に言い聞かせて目を閉じた。