僕をおもいっきり罵倒してくれ。・・・さあ、さあ! 2
「・・・ぐすん」
僕は1人小川の橋の上で海に近く汚い川を見ながら涙を流す。
誰も分かってくれない。いや、分かってもらえるとも思わない。別に僕は多感な時期だからとか、そういう理由で彼女を欲しているんじゃない(いや、それも否定はしないけれど)。
「あーあ、今頃あの人はどこにいるんだろう」
あれは2年前だったか。確かそうだ。・・・ともかくも新しいクラス編成にわくわくしながら家を早く出て、あまりにも早く出すぎたから遠回りしていた。そして、この橋の上で出会った。いや、実際はただすれ違っただけなのだが・・・。
あまりにも綺麗で、しかしあまりにも寂しそうな顔をしたあの女性に―――。
僕がそれを一目惚れと気付き、初恋を知ったのはその瞬間。そのとき僕はどれくらいここに佇んでいたのか覚えていない。多分長い時間、僕は放心したまま突っ立っていた。振り返ったとき、そこに彼女の姿はなかった。
「あの人は社会人・・・にしては若すぎたかな。制服を着てなかったらよく分からないけど」
あの頃は自分のことを大人だと思っていたが、高校生になった僕から見ればやっぱり子供だ。そのとき僕が子供だったばかりに年齢の推定など出来ず、ましてや声などかけようにもかけられるはずなかった。
「はあ、どうして諦められないんだろう」
今までいろんなことを諦めてきた。いろんなことから逃げてきた。そんな僕をみんなはかっこ悪いと後ろ指を差す。そして、このことだけは諦めないからかっこ悪いという。まるでこの感情が悪なんだとでも言うように。
「あーあ、もう一度会いたいなあ」
「誰にだ?」
「うわあああ」
驚きのあまり前のめりになり、僕は川につっ込んだ。それこそ阪神優勝並みに豪快に。
あるいは僕は幸運だったのかもしれない。携帯が入っているバックはまだ橋の上に残っているし、この橋は低い。水が冷たく、汚いので気分は最悪だったが、それでも最悪の事態は免れた。
「あいたた・・・」川は浅いのでそれなりに痛い。立ち上がろうとしてすべり、再度倒れる。同じように身体の前半分ならまだよかったが、今度は尻餅だ。これで全身ずぶぬれということになる。
「ふふふ」
ここまで来て、僕はようやく顔を上げた。
「―――あ・・・」
それは空前の偶然。希代の幸運。橋の上から僕を見下ろす彼女は、
―――そう、あの時の女性だった。
腰まで伸びる黒髪と真白い肌。切れ長の目。あの頃とまったく同じ姿で。
「あ、ああ、あ・・・」失礼にも僕は彼女を指差したまま固まっていた。既に感覚神経は死んでいて、痛みも冷たさも感じなかった。
「・・・聞こえなかったのか?私はお前に名前を聞いたんだ」
「ああ、あ・・・」
「・・・そうか、アアーアというのか。世界には珍しい名前があるものだ」
「・・・あ、いえ」
「ん?アアーア=アーイエというのか?ふむ、なかなかステキなファミリーネームではないか」
消えかけていた感覚が戻ってくる。前言撤回、というか前言修正。あるいは前言補完。今の僕も憧れの人と再会してテンパるくらいには子供だった。
「えっと、あの・・・違います!」ようやく僕は声を上げることができた。
「僕は漆根耕太です」言った後は、心臓がバクバクして止まらなかった。僕はそっと制服の上から自分の胸に手を置いた。鼓動を感じるくらいには掌の触角は回復していた。
「ん?僕は漆、猫、歌?なんだその名詞の羅列は。・・・ああ、わかったぞ」彼女は小さく微笑んでみせる。
「ここに見事に言葉をいれて、文を完成させよという挑発か。ふふ、なかなか挑戦的な少年だ。そういうのは嫌いではないぞ。そうだな―――」女性は顎に手を当てて考えるしぐさを見せる。
「その昔、麗しい漆色の猫が僕にこう言った『おみゃあには歌うたいとしての才能がないにゃ』・・・といったところか」
彼女は笑い、僕は笑えなかった。これは突っ込むべきなのだろうか。それとも真面目に言葉を交わすべきなのだろうか。しかしなんだろう、このありえない文構成。確かに僕の家では昔黒猫を飼っていたが、もちろん地毛だし、第一なんで猫に歌唱指導してもらってんだよ。しかも諦められてるし・・・。
「ふむ、お気に召さないか?それではそうだな・・・」
「あの!」僕は震える足を奮い立たせて何とか立ち上がった。滑らないように足に力を込めて踏ん張る。既に靴の中まで、というかズボンから下はびしょぬれで、しかし呂律が回らないのは寒さのせいだけじゃないだろう。
「えっと、その、名前を・・・」
「名前を・・・変えたい、か?」僕の心中を知ってか知らずか、女性はそう切り替えして来た。流すと話が進まなくなるので、名誉挽回もかねて僕は乗っかる。
「はい、じゃあ、漆根耕太で。漆の根っこを耕す男です」本来なら決して使わない名前紹介だが、相手に迅速に僕の名前を告げなくては確実に風邪を引いてしまうだろう。というか川から上がればいいだけなのだが、緊張のせいか、身体が動かなかった。なぜか僕の心境は森で珍しい鳥を見つけたような感じだった。ようするに、動けば彼女が逃げてしまう気がした。
「あははっ、いいな、実に面白いぞ、少年。先ほどの問題を利用して自分を改名するとは。私は苅谷さつきだ。いや、苅谷さつきだったというべきか・・・」
僕は1つの石で2羽落とした喜びで、意味深な彼女の発言を聞き逃してしまった。
「それで、少年。君には会いたい人がいるらしいな」
「・・・・・・」
僕は考える。彼女に会ったら何と言おうか、多分一日5回はシュミレートしてきた。よもや現実になろうとは思っていなかったけど。
「ええ、あなたに・・・」
震える声で告げた言葉はちゃんと彼女に届いただろうか。僕の渾身の決意を前にして、彼女は―――
―――とても悲しそうな顔をしていた。
「ああそうか。だからか。君は私を見たことがあるんだな?」彼女は表情を殺し、声から緩急を消し去った。その変化に驚きつつも、僕は無言で頷いた。
「そうか。それでは君は、私と同類なんだな・・・」
「は?」同類?僕と同類の人類がこの世に?まさかこの女性も異性に告白ばかりしているのか?と僕が首をかしげた瞬間、彼女は怪訝な顔をする。
「どうした?君と私は同類だ、と言っているんだ。簡単だろう?」
彼女の後ろに1人の通行人。買い物袋を提げたおばさん。僕を怪訝そうに見ながらも、できるだけ関わらないように足を速め、橋を渡ろうとした。彼女は、おばさんに向けて足を突き出す。おばさんは躓いて、しかし脅威のバランス感覚で持ち直した。そのことにも十分驚いたが、
「・・・ウソ」
おばさんは自分が躓いたところを見て、首をかしげた。そして僕を見て、早足で橋を渡りきっていった。僕は普通のおばさんの驚異的なバランス感覚に驚いたのではない。そうではなく、おばさんが目の前の女性に気付かなかったことに驚いていたのだ。自分に足をかけた彼女を、まるでないものとしていたことに驚いたのだ。おばさんがいなくなって、そこに残っているのは僕と彼女。いや、本当は僕1人なのかもしれない。
「なあ、君も私と同じなんだろ?そうだ、私はここにいながらにしてここにいない。人間に私を見ることは出来ない。幽霊というやつだ」彼女は笑う。シニカルに。しかしやっぱり目だけは悲しそうに。
「・・・・・・」僕は言葉を発することが出来ない。
「ああ、なぜ君が幽霊だとわかったか、か。簡単だ。今の私は一時的にだが、人に姿を見せることが出来る。しかし、この力を得たのは最近だ。君の言うような時期に私の姿を見ることができたのは私と同じ、幽霊だけだ」
―――幽霊。
2年間。ずっと探して。ずっと求めて。何度も諦めかけて。ずっと諦められずにいた目の前の女性が・・・。
しかし、ここで彼女に哀れみや軽蔑や恐怖を持つことは彼女に対する侮辱、冒涜だと思った。だから僕は、唇を噛み締めながらも、拳を握り締めながらも、寒さも痛みも忘れながらも微笑んで、こう言った。
「いいえ、僕は生きてます。今、ここに生きてあなたを探していたんです」
彼女は僕をじっと見たまま固まっていた。ぼくはゆっくりと瞬きを繰り返す。目を閉じたら消えてしまいそうだったからさっきから怖くて出来なかった瞬き。今この瞬間、彼女が1番消えてしまいそうなこの瞬間に瞬きをしたのは、なぜか心に妙な確信があったからだ。彼女は消えることはない、と。
「・・・う、うそだ!そんなはずない。じゃ、じゃあ、今の私が見えるか?」
欄干から身を乗り出す彼女。そう、彼女は確かにそこにいる。見えないはずがない。腰まで伸びる美しい髪に対称的な白い肌。そして僕を見る深い色をした双眸。まるで、生きている人と同じように。
「君は自分が死んだことに気づいていないだけじゃないのか?突発的な事故だとそういう事もあると聞いたぞ」
僕はゆっくりと首を振った。そしてようやく足を踏み出し川から上がると彼女の目の前に立った。あるいは立ちはだかった。
「そこまで言うならいくらでも証明できますよ。例えば僕の家族、僕の友達、僕の先生。僕の写真。僕の映像―――」
目元を伝うのはどうして涙なんだろう。僕は嬉しいのだろうか、悲しいのだろうか。それとも本当にこれは涙なんだろうか。これは本当に僕なのだろうか。ただの壊れた人形なんじゃないだろうか。
「・・・・・・そうか」彼女は息を吐いた。それは生きている人とまったく同じような温かみの宿る手を伸ばし、僕の頬を撫でた。
「そうか・・・残念だ」そっと目を閉じた。そこにある煌めきは涙なのかもしれない。いや、きっと違う。なぜだろう、そんな気がする。
「そして、僕はずっとあなたのことが好きでした。あなたのことが諦められませんでした。あなたの正体を知っても、それでも、僕は・・・あなたが好きです」
「っ!・・・・・・」彼女は驚き、不思議なものを見る目で僕を見た。その視線の中には悲しみも哀れみも横たわっている事を僕は知っている。これは直感ではなく、ただの経験。彼女の手が僕から離れる。
「・・・少し、私がいいというまで目を閉じてくれないか」
小さく、弱弱しい彼女の言葉。そして僕は目を閉じる。経験ではなく直感で、彼女がいなくなると知りながらも。
2年前のあの日に僕が立ちすくんでいた時間とどちらが長かっただろうか、言葉もないまま目を開けた僕の視界に、彼女―――苅谷さつきさんの姿はなかった。
僕は大きく息を吸い、そしてそれを静かに吐いた。体の感覚はまだ戻ってこない。全身が凍りついたようだった。さすがに4月の川は寒い。いや、そうじゃないのかもしれない。寒さを感じないのは身体の数十倍数百倍数千倍も心が凍えているからなのかもしれない。
「・・・そうだ、海に行こう」意味もなく、間違いだらけの僕は、1人かっこわるく呟いた。




