第5話 証人!田中
眼前に広がっていたのは、雲海を突き抜けた先に鎮座する白亜の神殿だった。
空は吸い込まれそうなほど深い群青に染まり、風は凪いでいる。肺の奥まで洗われるような、潔癖なまでの静寂がそこにはあった。
ここは物語の最果て。作者である一条だけが辿り着ける聖域。自ら紡いできた世界に、自らの手で終止符を打つ――その儀式を前に、一条にはどうしても対峙すべき存在がいた。
澄んだ音を立てる石段を上がると、一人の女性が佇んでいた。
一条がかつて、理想のすべてを筆に乗せて産み落とした女神、ツアーゼル。
その髪は凍てついた銀河を溶かしたような、透徹した青。纏ったローブは淡い燐光を放ち、彼女が呼吸するたびに、空間には極小の文字が生まれては消えていった。
「あなたが、創造主ですね」
その声は、鈴の音を銀の杯で受け止めたような清涼さで神殿に響いた。数千年の時を凝縮したかのような、不思議な密度があった。
「はじめまして。私は女神ツアーゼル」
「一条だ。こちらは田中。俺の仲間だ」
一条の無骨な紹介に、ツアーゼルはふわりと微笑んだ。それは峻厳な神の笑みではない。家族を玄関で迎えるような、親愛に満ちた、あまりにも人間らしい微笑みだった。
「すべて、見ていました。あなたがこの世界を綴り続けた日々も。……そして、忘れたふりをして過ごしていた日々も」
その言葉に、一条の肩が微かに揺れた。ツアーゼルはこの物語において、常に傍観者だった。ただ章の終わりに淡い光として現れ、静かに消えていく、この世界の舞台装置だったのだ。
「さっそくだが……この世界を壊す」
刹那、神殿を満たしていた風が止んだ。
「そこでだ。世界が崩壊しはじめたら、この詠唱をしてくれ」
一条が差し出したのは、古い羊皮紙だった。ツアーゼルは細い指先でそれを受け取り、一瞥する。彼女の瞳に、赤い光が爆ぜた。
「……わかりました。創造主のご命令です。あなたがそう望むなら、私はこの世界を終わらせましょう」
雲の隙間から光が差し込む。破壊を企てる創造主と、それを見届ける田中、そして世界の終焉を請け負った女神の三人を、等しく白く塗り潰していった。
「田中。この神殿でツアーゼルと一緒に待っていてくれないか?」
「一条さん……俺にも、何かできることがあるかもしれません」
食い下がる田中の言葉を、ツアーゼルが遮った。
「田中様。創造主はご自身の過去すべてを賭けた戦いへ向かわれます。……今は、ただ信じて託す時なのです」
田中は言葉を失い、強く唇を噛んだ。
「わかりました。でも、いつでも呼んでください。いつでも駆けつけますから」
一条は短く笑うと、決然と踵を返した。
「俺はこれより『戦場ヶ原』へ向かい、俺が産み出した勇者たちと戦う。ツアーゼル、道中の“人払い”を」
一条は背を向けたまま、神殿の天井を突き抜けるような声で叫んだ。
「全てが終わったら――その瞬間、田中を俺の元へ転移させてくれ!」
「はい、創造主様。あなたの望むままに」
ツアーゼルがその背中に向けて、慈愛に満ちた微笑を湛えた。同時に、神殿に激しい風が吹き込み、彼女の青い髪が劇的に舞い上がった。
一条は懐から一本の古びたスクロールを取り出し、短く詠唱した。その体は瞬時に眩い光の粒子へと分解され、大気の中に溶けて消えていく。
「……転移魔法、なのか?」
呆然と呟く田中に対し、ツアーゼルは答えなかった。ただ、一条が消えた虚空を見つめるその瞳には、消えゆくことが決まった哀しみが同居していた。
「一条さんが創ったこの世界を終わらせる……。それって、ここの世界の人たちが、いなくなるってことですよね?」
田中の悲痛な問いに、ツアーゼルはゆっくりと歩み寄った。彼女の歩みに合わせて、神殿の床に刻まれた文字が静かに明滅する。
「創造主は、誰よりも長くこの世界を見つめてこられました。誰よりも住人たちを愛し、誰よりも苦しんだ。彼はこの物語に、終わりという名の救いを与える決意をされたのです」
「……愛しているなら、壊さなくても」
田中の声は、ほとんど祈りのように震えていた。
だが、ツアーゼルは静かに、慈しむように首を振った。
「終わらせること。それだけが、唯一の救いなのです。魂はあるべき場所へ還らねばなりません。二十年もの間、あの方はこの世界へ魂を捧げ続けてこられました。……その歩みがどれほどの苦痛に満ちていたか。創造主の石板に刻まれた苦悩を読み解くたび、私の心は確信に染まっていったのです」
彼女は神殿の奥、祭壇のように鎮座する木のテーブルを指差した。銀の大皿の上に置かれた、菓子パンの空き袋。そこから染み出した鮮血が、ゆっくりと、鼓動に合わせて石板を濡らしていた。
――ドクン。
――ドクン。
「あの方の魂です。完全な献身と引き換えに、この世界は産声を上げました」
ツアーゼルは心臓へ一歩近づき、祈るように目を伏せた。
「石板によれば、魂を固定された存在は、その座標から離れることができません。
……田中様。
外の世界のあの方は、大丈夫だったのでしょうか。
魂をここに置いたまま、あちらで、正しく生活できていたのでしょうか」
田中は、答えられなかった。
脳裏に浮かぶのは、現実世界の一条。
――深夜のオフィス。声をかけても数秒遅れて、焦点の合わない目で振り返る一条。
――居酒屋の隅、笑っているようで、そこには誰もいないような空虚な相槌。
「あの方は、もう十分に苦しまれました。魂なき身体で日常を彷徨うのは、あまりに残酷な刑罰です」
ツアーゼルの声には、絹を裂くような哀しみが混じっていた。
「田中様。
あなたは境界の外の存在。
あちらで彷徨うあの方を、この『魂』の元へ連れ戻せる唯一の証人です。
……どうか、見届けてください。
ようやく一つに重なり、安らぎを得る瞬間を」
田中は、爪が食い込むほどに拳を握りしめた。
「……わかった。見届ける。一条さんが辿り着く最後を」
ツアーゼルは、救われたような微笑を浮かべた。
「ありがとう。あなたがここにいてくれて――本当によかった」
ツアーゼルは再び、心臓へ向き直った。彼女は両手を組み、静かに祈りを捧げる。
孤独な創造主の長い祈りが、ようやく終わろうとしていた。




