第8話「脱走」
二時間前――。
セレスティア王立総合病院・精神病棟。
夜間の静けさに包まれた廊下を、ひとりの看護師が歩いていた。
手には巡回記録板。軽く溜息をつきながら、ある病室の扉をノックし、そっと中へ入る。
そこは個室。
ベッドの端に腰を下ろすようにして、シビル・アステンがいた。
乱れた髪、虚ろな瞳、口元は動かない。まるで蝋人形のような無言の女。
看護師は努めて優しい声をかけた。
「シビルさん、眠れていますか?」
返事はない。
「もう、眠らないと...ね?」
看護師はベッドに近づき、シビルを優しくベットに横たえると、ブランケットをそっとかけた。
シビルの手を優しく握りながら、慰めるように言葉を続ける。
「余計なお世話かもしれないけど...あなたを振った婚約者のことなんか、もう忘れたほうがいいわ。またすぐに、いい人が現れるわ」
――その瞬間。
シビルの脳内で“悲しみ”の感情が鋭くスパイクした。
だが、次の瞬間、怒りがそれを覆い尽くす。
「……っ!!」
野獣のような声をあげ、シビルはベッドから跳ね起きた。
爪のように伸びた指先で看護師の顔を引っ掻く。
「きゃあああああ!」
頬に三本の深い裂傷が走り、血飛沫が飛び散った。
看護師が悲鳴をあげる間もなく、シビルは腰から提げられていたデジタルカードキーの束を力づくで奪い取る。
ドアを蹴破るように開け、廊下に飛び出した。
看護師は壁の非常ボタンを叩く。
瞬間、病院中にサイレンが鳴り響き、赤色灯が点滅を繰り返す。
だがシビルは止まらない。
顔を紅潮させ、歯を食いしばり、獣のような呼吸を吐きながら非常階段を駆け降りていく。
「なんで……なんでこんなに腹が立つの……!?」
怒りが身体を焼き尽くし、自分自身すら制御できない。
非常口を開けた瞬間、夜風が吹きつけた。
病院のゲートが目の前に見える。
守衛が一人、警報に気づきゲートを閉めようと操作していた。
「止まれっ!」
シビルは腰を低くし、守衛の背後に回り込む。
そして、全身の力を込めて蹴り飛ばした。
守衛の身体が宙を舞い、ゲートの鉄格子に頭から激突する。骨の砕ける音が夜に響いた。
「アアアアアアアアッ!!」
シビルは喉を裂くような叫びをあげ、ゲートをくぐり抜けて外へ――。
その後の数時間。
シビル脱走のニュースは既に拡散していた。
港の近く。
シビルは目につくものを片っ端から破壊していった。
停められた自転車を持ち上げて海に投げ込む。
ガラス張りの商店に体当たりし、ショーウィンドウを粉々に砕く。
釣り人の老人に飛びかかり、竿をへし折って投げ捨てる。
「アアア……全部壊してやる!!」
自分でも、どこからこんな力が湧き上がって来るのか分からない。
衣服は破れ、殆ど下着姿になったシビルに中年の赤ら顔の男が近づく。
「へへ、ねぇちゃん、いい身体してるねぇ〜、もっと近くで見せてくれよ」
「ふふっ」
シビルは妖艶な笑みを浮かべるとシナを作り、男にウインクして手招きをする。
男はニヤニヤしながらふらふらとシビルに近づき、手をシビルの白いブラジャーに伸ばそうとした瞬間、シビルの右フックが男の左側頭部にめり込んだ。
「んぎゃぁぁぁっ!!!!」
男は悲鳴をあげながら地面に叩き付けられると、両手で顔を覆い、ゴロゴロと転がっていった。
別の男がその様子を至近距離からタブレットで撮影していた。
「何見てんのよッ!!」
シビルの拳が男の頬を打ち抜く。
青年は地面に転がり、口から血を吐く。
周囲の通行人が悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように逃げていく。
シビルはそのまま屋台に突っ込み、鍋を蹴り飛ばした。熱い汁が周囲に飛び散り、店主が悲鳴を上げる。
止めに入った男の胸ぐらを掴み、電柱に叩きつける。骨の軋む音がした。
「ハハッ……もっと壊れるッ!!!」
彼女の顔には笑いと怒号が混じり合い、血まみれの口元から涎が垂れていた。
SNSのライブ映像には、その様子が次々と流れていた。
人々は遠巻きにスマホを構え、恐怖と好奇心の入り混じった悲鳴を上げる。
港の倉庫群。
シビルは番屋のひとつに入り込み、荒れ狂ったように木箱を蹴散らした。
魚の匂い、古びたロープ、倒れる樽。
そこに、彼がいた。
サンチャゴ。
年老いた漁師。だが鍛え抜かれた腕と鋭い目は、まだ衰えていなかった。
「おい、嬢ちゃん……もうやめろ」
「うるさいジジィ……邪魔するなああああ!!」
シビルは絶叫しながら飛びかかる。
だがサンチャゴは素早く身をかわし、腰に巻いた太いロープで彼女の腕を絡め取った。
「ぐっ……離せ!! 離せェッ!!」
「悪いな……俺の小屋を壊す奴は、許さねえ」
サンチャゴはねじ伏せるように彼女を床に押し倒した。
凶暴に暴れる四肢を、まるで巨大な魚を捕まえるかのように拘束していく。
やがて、シビルの体は完全に縛り上げられた。
怒声も次第に途切れ、獣のような呼吸音だけが残る。
サンチャゴは裸同然のシビルの傷だらけの身体に毛布をかける。
「ったく、今時の若い女は。自分の裸なんてのはな、自分の大切な男の為に取っておくもんだ!」
サンチャゴは息をつき、無線端末を取り出した。
「治安監維持視局か?……こちら港番屋のサンチャゴだ。シビル・アステンを拘束した。すぐに迎えを寄越せ」
セレスティア王立総合病院。
アクエルはシビル脱走の連絡を受け、病院のオフィスにいた。
シビル確保の連絡を受けると、大きく安堵のため息を付いた。
そして、セバウチのナレフにメッセージを送る。
怒り型現るーー
その頃――
澪の部屋。
鳴り止まぬ通知音に顔を上げると、SNSのライブ映像が画面いっぱいに流れていた。
「……これが……シビル……これ、人間の顔じゃないわ」
映像には、血まみれで叫びながらガラスを割り、家具を蹴り飛ばすシビルの姿。
その顔は笑っていた。怒りに歪んだ、不気味な笑顔で。
澪は声を失った。
喉が凍りつくような感覚。
澪はただ、無言のまま画面を見つめ続けた。




