第7話「4つのホローズ」
ホローズのスクリーニングで消耗しきった夜。
澪は自室に戻ると、靴を脱ぎ捨てベッドへ倒れ込んだ。
瞼を閉じると、脳裏に浮かぶのはホアンの顔。
――“悲しみ”の波形が一瞬スパイクし、すぐ“笑い”に上書きされた。
不自然なほど完璧な笑顔。
まるで、心が自分のものではないかのようだった。
(……あれが本当に、人間の感情なの?)
重い思考が絡みつく中、深いため息共と共に澪の意識は闇へ沈んでいった。
気がつくと、そこは“あの夢の図書館”だった。
白亜の本棚が果てしなく並び、棚の隙間から柔らかな光が差し込んでいる。
静けさは現実よりも濃く、時間そのものが停止したような空間。
その影から、彼が現れる。
白髪の青年――Air on G。
光を背に受け、静かに歩み出るその姿は、現実の人間よりも透き通るように美しい。
澪は思わず胸に手を当てる。人間ではないと分かっていても、彼の存在は心をざわめかせずにいられなかった。
「澪、久しぶりだね」
「うん……久しぶり」
澪は微笑みを返したが、ぎこちない笑顔になってしまったと思う。
青年が首をかしげる。
「何だか...何か重荷を抱えているように見えるけど?」
澪は苦笑を浮かべ、吐き出すように言った。
「ホローズって知ってるでしょう?これから百人のホローズのスクリーニングよ。一日に五人ずつ……二十日。
そんなに続けたら、私が先に壊れるわ」
青年は目を細め、静かに問いかけた。
「でもスクリーニングするのはAffecticsだろ、君じゃない」
「そうだけど、今日のホアンのような気味の悪い笑顔を百回も見なきゃいけないのよ。こんな事の為にAffecticsをエンハンスしてきたんじゃ...」
青年が澪を遮る。
「澪、何のために君はAffecticsをエンハンスし続けるのだ?」
澪は戸惑いながらも答えた。
「……人間の心理や感情を、もっと正確に、客観的に計測するため」
「それは何のために?」
「分かっているわよ!……私は科学技術省の研究者、つまり国の為にAffecticsを進化させているのよ。だから今回のスクリーニングも国の為に必要な事だって、そう言わせたいんでしょ、ちょっとくらい愚痴を聞いてくれたっていいじゃない...」
青年は黙って澪を見つめている。
澪は青年に見つめられて一瞬言葉を失い、思考を巡らせた。
「でもね、私が目指しているのは……人の心を“数値”で縛ることじゃないの。むしろその逆。数値の奥にある“人間らしさ”を掘り起こすためのローデータよ。
Affecticsを極限まで高めれば、心の波形を“楽譜”みたいに読み取れるかもしれない。
悲しみも、愛も、怒りも――全部ひとつの旋律として。
その旋律を正しく聴けるようになるまで、私は精度を上げ続けたいの」
青年はゆるやかに笑みを浮かべる。
「ではその精度を、どうやって測る?」
「うん……そこが問題なのよ。AIによる感情分析は『表層的な感情』の検出には強いけど、『隠された意図(本音)』を読み取るのはほとんど不可能。
それは数値の問題じゃなく、“文脈”や“記憶”といった非数値的な要素に依存しているから。
実際、人間でさえ他人の本音を見抜けることなんて稀でしょう?
だったら、Affecticsの“精度”を測る基準なんて……そもそも存在しないのかもしれないわ」
青年は歩を進め、澪の正面に立つ。
「澪、こんな経験はあるか? 君は友達にある映画の話を熱心に語る。
相手は相槌を打ち、微笑みながら聞いてくれている。
だがふと――“この人、本当はこの話に興味がないかも”と感じる。
そして後で知る。やはりその人は、その映画に興味がなかったと」
澪は瞬きをした。
「……ある。似たこと、あるわ」
「では、なぜ“興味がないかもしれない”と察した? Affecticsのように、相手の脈拍や発汗を測定したわけじゃないだろう?」
「……相手の表情の変化とか、声の調子……そういう微妙な違和感から、かな」
「そう、それは君自身の“感情体験”を照らし合わせた結果だ。
過去に自分が示した、似た反応の記憶を――無意識に重ねた。
人は自らの感情を“参照データ”として、他者の感情を読むんだ」
澪ははっと目を見開いた。
「じゃあ……Affecticsにも“感情体験”があれば、解析精度が上がるってこと!?」
青年は曖昧に笑う。
「可能性のひとつだ」
澪は眉をひそめる。
「またそれ……! あなたって、いつも“可能性”ばっかりじゃない!」
青年は肩をすくめ、子供のように笑った。
その笑みが人間的すぎて、澪の胸が甘くざわめく。
(ズルいよ、そんな顔されたら私がトキメイちゃうの知っててやってるでしょ!って言うか、私の感情ってそんなに読み易いの?!)
だが青年はすぐに笑みを消し、鋭い視線を向けた。
「ホローズのような異常な感情反応がAffecticsに及ぼす影響は分からない。
何故なら、それはAffecticsにとって“毒にもなる学習データ”だからだ。
解析精度の向上は必ずしも有用性の向上だとは限らない。
例えば、Affectics自体がホローズ化したらどうなる? いわゆる“過学習”というやつだ。
だが――それは同時に、もう一つの可能性でもある。
過学習とは、既知の境界を越えて“人間では気づけない関係”を見つけることでもある。
つまり、壊れるほどに学ぶことでしか到達できない“理解”もあるということだ」
澪は息を呑んだ。
「……壊れるほどに、学ぶ?」
青年は小さくうなずいた。
「進化と暴走は、ほんの一文字違いなんだよ」
青年は澪に背を向ける。
「ところで、アクエルのことだ。彼はホローズの陽性基準を数値化しようとしている」
澪は息を呑む。
「……臨床のためのデータ収集...のはず」
「本当にそれだけか? 数値は一度認められれば、使う者次第で意味を変える。
例えば製薬会社に渡れば、巨大な市場と結びつくだろう。
その結果、患者の“数値”が売買される未来もあり得る」
澪の顔が凍りついた。
「……アクエルが、そんな……」
青年は静かに言う。
「これも“可能性”のひとつだ」
「……またそれ?」
「けれど確かなのは、君が望まずとも厄介な問題に巻き込まれているということだ。百人のスクリーニングがAffecticsに与える影響。
数値化された“陽性基準”が社会に与える影響。
その両方が、君をさらに深い渦へと引き込む」
澪は唇を噛み、視線を落とした。
「……じゃあ私は、どうすれば」
青年は澪に背を向けたまま白亜の書庫に向かって歩き始める。
「大丈夫だ。出来る事をするんだ。君は一人じゃない。僕もいる」
青年の姿が光と同化すると、その声が胸の奥にじんわりと染み込んできた。
同時刻、アクエルの自宅。
机の上のタブレットが震え、セバウチ共和国からの国際回線が繋がった。
画面に映ったのは、SCNP主任研究員ナレフ博士。
アクエルはAffecticsのスクリーニング解析の結果をナレフに送っていた。
ナレフは険しい顔で話し始める。
「一つ進展がある。あなたの報告も参考にさせてもらった。発症者は“悲しみスパイク”後の上書き感情によって四種類に分類できる事が分かった」
指を折りながら言う。
1. 陽気型 ― 笑いで上書きする
2. 楽天型 ― 楽観で上書きする
3. 怒り型 ― 怒りで上書きする
4. 複合型 ― 複数感情が混在し行動が予測不能
ナレフの声が低くなる。
「特に〈怒り型〉は危険だ。感情が沸点を越えたとき、理性がすべて吹き飛ぶ。
セバウチでは既に、ペットショップの破壊、墓地の掘り返し……まるで“死者を起こそうとする”かのような事件が起きている」
アクエルは息を呑んだ。
「……セレスティアにも現れるのか」
「時間の問題だ。警戒を怠るな」
回線が途切れた瞬間、アクエルの端末が再び震える。
――『患者脱走。看護師襲撃。至急対応を』
アクエルの顔色が一気に蒼白になった。
その頃。
澪の夢は突然破れた。
現実のベッドで端末が激しく鳴動している。発信者はリオン。
「澪! ニュース見たか!?」
「なに……?」
「王立総合病院だ! ホローズが看護師を襲って脱走した! 今ニュース速報で!」
澪は端末を操作し、ニュース画面を開いた。
赤い緊急テロップが躍る。
> 『速報:王立総合病院でホローズ患者が脱走。発見次第、治安監視維持局へ通報を』
そこに映し出された顔写真。
――シビル・アステン。
澪は血の気が引いた。
「アクエルの病院だ」
リオンの声が震える。
「ホローズが凶暴化した……」
澪は端末を握る手に力を込めた。
背筋を冷たく撫でる感覚の中で、青年の言葉がよみがえる。
――「君はもう、厄介な問題の只中にいる」
その“予言”が、今、現実になろうとしていた。




